免罪符

僕には苦い思い出が有る。高校二年生の時のこと。進学校に在籍していながら成績は最下層。毎日遊んでばかりで勉強はほとんどせず、校外の活動に熱中していた頃である。テスト返しのときに隣のI君が平均点よりはるか上の点数を取っていたのにもかかわらず、悔しがって点数を見られないように隠していたのを横目で見ながら、恥ずかしげもなく赤点を隠しもせずに机上に並べていたような、どーしようもない劣等生だった。それでも保護者面談のときに担任から母親が叱責されるのは申し訳ない気がして、面談の前日に母親に言ったのである。


「先生に、成績が落ちたって言われたら、最近はじめたボランティアが忙しいって言ってほしい」と。

母親は渋々次の日の面談に出かけ、僕からの伝言を担任の先生に伝えてくれた。そして、お察しの通り、成績が悪くなっていること以上のお叱りを母親経由で僕は受けることになる。その結果になることは、母親は分かっていたと思う。バカ息子の放言を認めはしないけど一旦受け止めて、大人は、社会っていうものはこう考えるんだよと教えてくれた。

老人ホームに行ってお年寄りの話し相手をするボランティアグループを立ち上げて、週末は結構そっちに時間を費やしていた。だからといって、学校の勉強がなおざりになっていいとは誰も言わない。ましてや、そのおかげで成績が下降しているとしたら、本末転倒である。そんなこと理解していたはずなのに、僕は「ボランティア=いいことをしている」⇒「成績が落ちても許される」という図式があるかもと考えてしまった。そんなのある訳ない。まったく愚かだった。甘すぎた。

その後介護の道を歩んだ僕は、現場の中で、高校生当時の僕が考えていたのと近いニュアンスに出会うことが有った。
それが「現場第一主義」であり「利用者最優先」の考え方である。

誤解しないように説明するが、介護福祉現場にとって最も大切な考え方の一つである。しかしこれを表面的にだけ捉えてしまうと、おそろしいことになることを知っておいていただきたいということなのだ。「利用者さんがこう言ったから」その希望を実現するために現場人は汗をかくべきである。が、根拠もヴィジョンもなく、言葉だけを振りかざして自分が思い感じたお世話を独断的に推し進めていたら、チームワークもへったくれも有ったもんじゃない。それを介護とは呼ばない。
また、とかく経営層と現場スタッフはベクトル合わせが難しい(介護に限ったことではないが)。現場から出てくる声はユーザーからの意見であることも多く、尊重するべきであるが、それが全てではないことも知っておきたい。介護福祉事業は継続してその地域に在り続けることも最大のミッションであるからである。

もしも、福祉や介護が世の中で最も優先度が高く、何よりも尊いと全ての人が認めているとしたら…社会貢献で介護に関わる企業は後を絶たないはずだし、僕らが待遇改善で政府に物申すこともないだろう。介護が免罪符に成り得るのならば、介護離職なんてこの世には存在しないのである。そんな世の中ならば、とにかく僕らは利用者さんたち本人に向き合うことだけに全集中すればいい。

でも、現実そうじゃないことを僕たちは知っている。
そして、そう成ったらいいなとも思っていないのである(ですよね?)。

あらためて。本当の意味の「現場第一主義」とは、継続して支援していくことを前提に、ユーザーに最も近く直接サービスを提供している現場スタッフが改善向上を目指して発する建設的意見を組織として最大限尊重することであり、「利用者最優先」とは、利用者とそれを取り巻く環境をアセスメントした結果、プロフェッショナルとして利用者の暮らしを支える方策を見出し形づくっていく方向性のことである。

愚かな高校生だった僕は、結果、その担任の先生に背中を押してもらって、専門の大学に進むことが叶った。30年経ってもあの頃のことを思い出すけれど、今は校長先生になられた若き日の先生が叱って教えてくださったことが胸の中にある。ややもすれば言い訳だらけになりがちな自分を律して、自身が為すべきところを見失わず進みたい。

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