臭い言葉に蓋をせよ

人には誰もが見られたくない姿がある、と僕は思う。僕の場合、それはトイレで排泄している姿であり、これは多くの人に同意いただけるのではないかと勝手ながら思っている。だけど不思議なことに、僕ら介護に携わる者たちは、日常的に、ごく普段の営みとして他人の排泄する様子や排泄物を目にしている。排泄に関しては一般の、介護に関わっていない人たちよりも耐性が強くて、ご飯を食べながらでも排泄の話ができる、なんて言える人は多い。何を隠そう、僕もその一人である。
 
排泄は人間が人間として生きていくために必要不可欠な「出す」という大切な生理的行為であり、それは忌み嫌うべきものではない。しかしここで考えてみたいのは、人の文化として排泄は隠したいものないし恥ずかしいものとして捉えられてきたことである。排泄すること自体を否定する人は誰も居ない。だけど、出来る限りその行為自体は自分一人で済ませてしまいたい、という願望というか自然な思いがある。何を今更、と言われるかもしれない。ごくごく当たり前のことだし、僕たち自身が日常的に何も考えずにしていることだから。
 
ちょっと介護場面に視点を置いてみよう。排泄介助は三大介護の一つと数えられるように、介護の仕事の中でも結構なウェイトを占めている。排便の処理に追われて一日終わっちゃった~、とか、夜中頻尿の利用者さんの数分おきのコールに対応した…なんて声は現場でよく聞かれる。言うまでもなく、重要な業務である。如何に快適に過ごしてもらうか、そのためには排泄介助がどれだけ大きな意味合いを持っているか。これこそ今更、の話である。
 
僕は排泄についての言葉や話があまりに日常になってしまっていないか、とここで問いかけてみたい。「○○さん、三日ぶりに出たよ。多量」「尿臭がひどいからお風呂に先に入ろう」「何日出てないんだっけ。マイナス何日?」なんて言葉は現場を飛び交っている。業務連絡として必要なことだと思う。だけど、だけどそれをご本人や周りの他人が耳にする必要って、あるのだろうか。僕は無いと感じている。というか、もしも僕が介護を受ける立場で、ウンコが出たとか出ないとか、量がどうだったとか、間に合わないから履いている紙のパンツが汚れていただとか公衆の面前で言われたら、多分絶望する。そして諦めるだろう。もう僕は人に下の世話をしてもらわなきゃ生きていけない存在なんだ、人間の尊厳なんて、それこそクソほどもありゃしない、って。「あのじいさんは認知症だからわかりゃしない」なんて言われた日には、多分暴れる(笑)。
 
便秘で苦しんでいる利用者さんが何度もトイレ通いをしてやっと出たときに「やったー!」と共に喜んだこともあるし、明らかに股間の尿取りパッドが吸収量のキャパシティーを超えているであろうおじいさんをトイレ誘導しようとして頑なに拒否されて困ったことも、ウンコまみれになったおばあさんをどこからキレイにしようか途方に暮れたことも少なくない。排泄についてのエピソードは尽きることがない。それだけに僕自身も感じるのである。排泄とあまりに距離が近づきすぎて、鈍感になってしまっている自分を。
 
タブー視する必要は絶対にない。むしろ大切な業務として排泄の管理を捉えなければならない。でも、もう少し「さりげなく」できないか。他人に知られたくない、恥ずかしい出来事をサポートする立場として、陰に徹することができたなら、きっともっと現場の空気感が変わるだろう。さりげなく、スマートにそして正確に後始末をしつつ、起こるトラブルを未然に防ぐことのできる介助って、できないものだろうか。互いが声かけあって、アイコンタクトで排泄介助にスムーズに入れるチームはできないものか。学生の頃、尊敬する大先輩に教えてもらったことの一つに「良い老人ホームは排泄臭がしない」というものがある。あれから30年。もう一段階進ませていただいて、排泄の言葉が飛び交わずにいながらも排泄の心配がなく、臭いもしない。そんな高齢者介護の現場づくりを目指したい。

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