学術会議任命拒否問題を政治哲学的に考察する

菅総理が学術会議が推薦した会員候補のうち6名の任命を拒否してから、1ヶ月以上が経った。学術会議側や野党はこの措置に不満を持ち、再三「任命拒否の理由」を説明するよう求めているが、菅総理は「個別の人事については答えられない」と一向に理由を語らない。首相が任命を拒否すること自体は合法ではあるものの、理由が明かされないのであれば本件が適切であったか否かを議論することすら出来ない。このような態度を取る政権とは対話は成立しないのだろうか。

この問題を理解するには、すなわち「理由は説明しないが、我々の行為は正しい」という政権の主張を理解するには、正統性(legitimacy)と正義(justice)という二種類の異なる「正しさ」の概念をおさえる必要がある。
正義とは我々が通常イメージする意味での「正しさ」であり、価値観に依存し、人や文化の数だけ存在する。リバタリアニズムやリベラリズムといった、多くの人に支持されやすい典型例を見出すこともできるが、複数の正義構想の間の優劣を論じることは容易ではない。正義の相対性を学ぶことは、地理や歴史の一つの目的となろう。自分の信じる正義構想に忠実に従うことは、「正義感」と呼ばれる。
正義が相対的なものであったとしても、国家を成り立たせるためには国民全員が一つの法(規範)に従わなければならない。ここで法の正統性という概念が登場する。中身については賛否両論あろうが、適切な手続きを踏んで要件を満たした法には従わなければならない。「正しい法(正義に適う法)」であるかどうかの前に、「法は正しい(法は正統性を持つ)」。民主主義国家では、民主的手続きを経て制定された法が(民主的)正統性を持つ。理由の説明を求めていた学術会議が正義を掲げていたのに対して、「国民の負託を受けた」ことを強調する政権側は民主的正統性を掲げている。

もちろん「正しさ」の種類はこの2つだけではない。論理の規則に従っていることを表す「演繹的正しさ」や、経験的な事実が統計的検証に耐えたことを表す「科学的正しさ」などもある。いずれにせよ、我々がひと口に「正しさ」と言うときに、いかなる意味での「正しさ」のことを指しているのか、あるいはその局面でいかなる意味での「正しさ」が重視されるべきかを考える能力、すなわち「正義観」を養うことは政治と哲学を扱う公民科特有の使命だと考える。

正義観が貧弱だと、例えばアメリカの分断を構造的に理解することは難しいだろう。「どちらが正しいのか」という二項対立的な議論にすぐ流されてしまう。また、日本はまさに正義観が求められる事態に遠からず直面するだろう。自民党による憲法改正の発議という事態に。正義は原則的には人それぞれであるとして、(例えば宗教的規範などを国民に押しつけずに)民主的正統性をベースに成り立っている法体系にあって、それでも最低限守らなければならない正義のラインとして機能しているのが憲法だ。その憲法を「民主的手続きによって」改正しようという試みに際しては、様々な言説が入り乱れることは間違いない。その際に必要な「正義観」は、「公共」なる科目で最も重視されるべき能力なのではないだろうか。

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