「勝利至上主義」に関するよくある誤解

今年の箱根駅伝は白熱しましたね。

この手の大きなスポーツイベントの際にしばしば話題に上がりがちな「勝利至上主義」について、よくある誤解を解いていきたいと思います。

勝利至上主義といえば、日大アメフト部の悪質タックルのようなラフプレーの一因として語られることがありますが、端的に言えばあのようなプレーは勝利至上主義によって起こるのではなく、勝利至上主義の"不在"によって起こるのだというお話です。

「勝利至上主義」とは

ここでは、勝利至上主義を「(スポーツにおける)勝利を至上の価値とする考え方」と定義します。

当たり前のこと、というか、ありきたりな定義のように思えますが、今回はこの定義をかなり厳密に用いていきますので、改めて注目してください。この定義は、「勝利それ自体が価値であること」と「他の様々な価値と比べて勝利の優先順位が高いこと」の2つの要素を含んでいます。

また、あくまで言葉の定義の問題としては他の定義の仕方もあり得ますし、例えば「勝者の称号を得るためにルール違反や権利侵害を厭わないこと」のように定義すれば、以下の議論は成り立ちません。

「勝利」という価値

「勝利それ自体が価値である」とはどういうことでしょうか?これは当たり前のようでいて、勝負事に本気で取り組んだことがない人にはわかりにくいかもしれません。

例えば、あるテニス選手がライバルに勝つことを目標に練習に打ち込んでいたとします。そのライバルには一度も勝ったことがありませんが、最近調子が良い彼女は次の大会では勝てるのではないかと意気込んでいます。その大会は大舞台で、彼女の家族や友人も応援に駆けつけてくれるようです。

試合本番。いつもより球威のないライバルのサーブに違和感を覚えながらも、彼女は着実にポイントを重ね、激闘の末ライバルに勝つことができました。このときの彼女の喜びは、似たような経験をした人にしかわからないでしょう。家族や友人も祝福してくれました。彼女も応援してくれた人々に感謝を示します。

ところが後日、ライバルの友人から衝撃的なことを聞かされます。「あの子はあの日、手を抜いていたんだよ。あなたが自分に勝つために頑張っていたのも、家族や友人が応援に来ていたのも知っていたから。ほら、サーブの球威を抑えていたの、あなたも気づいたでしょ?あとでお礼を言っておきなよ」

このとき、彼女はライバルに感謝するでしょうか?

してもおかしくはありません。家族や友人にかっこいいところを見せることができたし、もしかしたら優勝賞金なんかを貰えたかも。強豪校のスカウトが来ていれば、目にとまって進学先を確保できたかもしれません。

しかし、直感的には彼女の中に生じる感情は怒りや悲しみであるような気がします。なぜか?それは彼女が勝利それ自体に価値を見出していて、手を抜いた相手に勝ってもそれは勝利とは呼べないからです。

「本当の勝利」にあって「見せかけの勝利」に無いもの、それは「勝利それ自体の価値」以外にあり得ません(それ以外の価値は全て「見せかけの勝利」にも付随します)。

「勝利」が至上の価値であるということ

「なんでそんなものに価値があるのか」と問うことは無意味です。逆に、理由が無いからこそ「それ自体に価値がある」のです。私たちは、公正なルールのもとでお互いに全力を尽くし、その上で相手を打倒することに価値を見出すのです。

「勝利を至上の価値とする」とは、それ自体価値のある勝利のために他の様々な価値を犠牲にすることです。例えば、肉体的快楽を犠牲にして苦しいトレーニングに打ち込んだり、物質的豊かさを犠牲にして高価なトレーニング器具を購入したり。友達付き合いを犠牲にして遊びの誘いを断ってトレーニングを優先することもあるかもしれません。

もっと「勝利至上主義」らしい例で言えば、「結果の平等」を犠牲にして下手な選手は引退試合だろうと試合に出さないとか、逆に「義理立て」を犠牲にして練習態度が悪かろうが上手い選手を試合に出すとか、そういうこともあるでしょう。

しかし、相手の主力選手を怪我させるとか、審判を買収するとかは勝利至上主義に含まれません。それは勝利の価値すら損なっているからです。これは感覚的なものなので想像してもらう他ないのですが、ライバルに勝ちたかったテニス選手は勝利のためにそういうことをするでしょうか?

勝利至上主義の欠落

悪質タックルや審判の賠償は、人々の直感とは裏腹に勝利至上主義が欠落しているからこそ起こるのです。

どういうことか。そのような悪質な行為は「勝利それ自体の価値」を損なうので、勝利以外の価値を目的に行われます。
個別の事例で個々人がどのような目的を持っていたかはわかりませんが、一般論としてスポーツには様々な外的価値が入り込んできています。最も典型的な例がプロスポーツ選手で、彼らにとって勝利は(「それ自体価値を持つ目的」であると同時に)「金銭を得るための手段」となります。プロスポーツチームにとって勝利は利益追求のための手段ですし、(一部の)大学にとって勝利は学生集め・寄付金集めの手段です。国家にとっては国威発揚の手段となり得ますし、アスリートにとっては就職先・進学先獲得の手段となります。

コロナ禍で多くの大会が中止になる中、スポーツ推薦を狙う学生の進学を心配する声が聞かれたのは衝撃的でした。それほどまでに、スポーツは一部の人にとって(手段として)人生に入り込んでいるのです。

「勝利」があくまで手段でしかないのなら、その目的(金銭の獲得、国威発揚、進学・就職…)のために「勝利それ自体の価値を損なう行為」に走ったとしても不思議ではありません。そしてそれは、勝利至上主義の欠落と呼ぶに相応しい状態です。

「勝利」の社会的地位

一般社会では、勝利は手段とみなされます。スポーツ選手に怪我をさせたときの損害賠償は「逸失利益」、すなわち「怪我をしなかったら得られたであろう金銭」によって計算されます。「勝利それ自体の価値」は計算に含まれません。司法の場においては、勝利は「その他の価値を実現するための手段」として位置づけられるのです。(法学に詳しい方、補足があればお願いします)

一方で、勝利それ自体の価値を認めるような「判例」も存在します。2012年ロンドンオリンピックのバドミントン競技で、「無気力試合」を行った選手が失格にされた事件です。対戦カードの都合上、勝つと次の試合で強い選手と当たってしまうことがわかっていたため、両者がわざと負けようとしました。これは先程挙げた例で「ライバル」が取った行動と似ていますね。(もちろんこのケースでは「優勝」のために目の前の一戦で負けようとしただけなので、厳密には「ライバル」のケースとは異なります。ただ、目の前の一戦で負けた方が優勝しやすいというのはあくまで個々の判断で、審判の目から見たら両者は同じことです。)

スポーツと教育

勝利至上主義を嫌悪してスポーツに教育的価値を持ち込もうとする勢力があります。これは直ちに危険だとは言えませんが、以上の議論を踏まえるとそれなりのリスクを伴う思想だと言えます。

スポーツを人格的発達の手段と捉えることは、競技力の優劣と人格の優劣を同一視してしまうリスクを生みます。身近なところでは、競技力が高い部員がなんとなく部の運営に対しても発言力を持つとか、競技力が高い部員を顧問・監督が「模範的部員」として扱うとか、そういうことは多かったのではないでしょうか?果ては、監督に服従することが「競技力の高さ」ではなく「人格的優越」と捉えられ、極端な表出形態として悪質タックルの指示に逆らえない空気を醸成したのではないでしょうか?

勝利至上主義は「勝利を至上の価値とする」だけで、「勝利以外の価値を認めない」訳ではありません。教育的価値を持ち込んで、人格的発達をひとつの目標とすることは否定されるべきではないでしょう。しかし、スポーツに人格的優劣という尺度を持ち込む際は細心の注意が必要です。買ったやつが偉いとか、負けたやつは偉くないとか、そういう歪んだ考えを生まないように。

勝ったやつは単に「勝利」しただけ、上手いやつは単に「上手い」だけ。それ以上でもそれ以下でもないのです。

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