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クソリプラーの考察~文学を読む意味~

今回はクソリプを送る人(クソリプラー)について考察した。

結論からいうと、クソリプラーは日常生活で「気が利かない」と言われている人たちだ。何故なら、クソリプラーは、コミュニケーション上発生する明文化されていない前提条件を認識する力がない人たちだと考察した。

そして、この「明文化されていない前提条件を認識する力」というのは、文学を読むことによって養われると考える。

結論だけではあまりに不親切であるため、下記詳細に考察を書く。

クソリプの定義

下記一般的なクソリプの定義を確認し考察をしていく。

クソリプとは、主に Twitter やインスタグラムなどのSNSにおいて、リプライ(特定のツイートに対する返信・応答)のうち、内容がまったく見当外れであったり気分を害するような言葉が含まれたりするなど、罵倒したくなるリプライを指して用いられる語の総称である。-実用日本語表現辞典
クソリプとは、「クソなリプライ[注釈 1]」のことで[1]、主にTwitterやインスタをはじめとするSNSにおいて、FF外(非相互)から来る「セクハラ系」「愚問系」「自己中系」「上から目線系」「難癖系」「偏見系」「恨み節系」「誤解系」「煽り系」「自分語り系」「暴言系」「意味不明系」に分類される返信を指す言葉。更にツイッターやインスタのDM機能から送られているFF外の上記に分類出来るDMを含む。または、「クソDM」と別語で言うこともある[1][2][3]。-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

何故人間はクソリプで不快になるのか?☞自分を尊重していない言葉だから

では、何故人はクソリプをクソだと思うのか。不快なリプライだからだ。何故不快になるのか。自分に対するリスペクトがない言葉だからだ。相手を尊重しているならまず書かない言葉だからからだ。

しかし、ここで「自分に対する尊重」度合が人によって異なる点に留意したい。「私だったら相手にこんなこと書かないのに」が何を指すのかは人によって異なるのだ。人間関係の最小単位から何を是とし、何を是としないかは異なる。例えば、中学生くらいの男の子では肩パンが仲の良い相手とやる行為かもしれないが、大人の女性にとったらただの暴力行為だ。

そして、ここにまず一つ目の明文化されていない前提条件を発見した。「何を是とし、是としないかのルールは自分と相手で異なる可能性がある」という前提条件(前提条件①)である。

この前提条件を認識している人間は相手のツイート内容とリプライ内容が違う可能性が高いと考えた時「ツイートの趣旨とは違うかもしれませんが」などのクッション言葉を入れる。こういったクッション言葉があるかないかで、受け手の印象は大分変わるだろう。

読解力がないからツイートに合っていないリプライになる?☞その可能性を否定できない

前提条件①はわかっているが、つまり自分に対して敵意や悪意はないと判断できるが、ツイートの趣旨と大幅に離れたリプライもクソリプになりうる。

次にこの「ツイートの趣旨と大幅に離れたリプライ」の場合を考えたい。

思い浮かぶのは①そもそも文字が読めない、②文脈を読むことができないの2種類である。

①そもそも文字が読めない:日本の識字率は就学率をもってして計算されており、識字率は100%であると考えられている。よって文字が読めないわけではない。

②文脈を読むことができない:所謂読解力がないという状態である。文章を読み書いた人が何を考えているのか考えるという力であり、一般に現代文という科目で教育されている。①よりはこっちの可能性が高そうである。

読解力がないというと、発達障害の症状の一つとして考えられる。これは文字が意味している概要をイメージできないなどである。

しかし、クソリプをもらったことがある人はわかると思うが、別に発達障害がひとが必ずクソリプになるかというと違うと考える。掲示板サイトで申し訳ないが、発達障害=読解力がないという図式は成り立たない。人によるとしか言いようがない。よって、ここで発達障害=クソリプラーではないと明言する。

(※ここで細かく発達障害の種類や度合を考え出すと終わらないので割愛する。発達障害の症状で読解力がなくツイートの趣旨とかけ離れたリプライをする人もいるかもしれないし、いないかもしれない。しかしこれは前提条件①の相手を尊重した言葉を添えてあれば、文脈が読めていないリプライかもしれないがクソリプにはならない。)

読解力がない人間について考える。下記によると読解力とは「相手の言いたいことや気持ちを、相手よりも深く理解できる力」だそうだ。私なりに換言すると、相手の文章を読み「so what?(だから何が言いたいの?)」を理解する力だ。

ここに明文化されていない前提条件がある。それは「人間は思っていることと言っていることは違う可能性がある」という前提条件(前提条件②)である。比喩、隠喩でもいいが、ツイートにはストレートに表現されていないかもしれない。そもそもその可能性があることを認識しているのか、ということである。

会社にいないだろうか。友達にいないだろうか。家族にいないだろうか。同じメールやlineを貰って送り手が想定している行動をとれる人ととれない人。これが読解力の差が表出したよい例である。

クソリプラーに救いはないのか?

読解力がないため、本当に悪意なしに頓珍漢なリプライをしてしまい、クソリプ認定される…。こんな悲しいことはない。Twitterは相互交流を目的に行うSNSでもある。そんな悲しい交流あってはいけない。

では、読解力がない哀しきクソリプラーに救いはないのだろうか?

ある。と私は答えたい。それは①明文化されていないコミュニケーションの前提条件を認識すること、②読解力を身に着けるために本を読むことである。

クソリプラーへの処方箋①明文化されていないコミュニケーションの前提条件を認識すること

本記事では2つの前提条件を書いた。

・「何を是とし、是としないかのルールは自分と相手で異なる可能性がある」という前提条件

・「人間は思っていることと言っていることは違う可能性がある」という前提条件

あえて書かなかったが、もし更に書くなら「相手を尊重する意思を表現によって伝えないと相手は気分を損なう」「相手が使用している言葉の定義が自分と相手で異なる可能性がある」…などなどである。このあたりはコミュニケーションの本にでも書いてあるのではないだろうか。

クソリプラーへの処方箋②読解力を身に着けるために小説を読む

読解力ってなんだよ!相手が言っていないことを読み取るってなんだよ!となるかもしれない。でも読解力がある人がいる以上、そういうことをしなければいけない。特に日本は非明文化の社会文化だ。意識して読解力を身につけなければ、「気がきかない」と言われ続けるだけである。

ではどういう本を読むのか。これは小説である。特に純文学と言われるような登場人物の心の動きをメインテーマにしたものがよろしいだろう。何故ならそこにAさんは「〇〇」と言いました、Aさんは実際は△△と考えてましたと書いてあるからだ。このパターンを幾千と呼んでいけば必然的に現実社会でもBさんは「□□」と言ってるけど、本当は違うんだろうなと考えつくようになる。

しかし、いきなり純文学はきついかもしれない。そこで次におすすめしたいのは映画である。映画は文章にしてはいないが、「人間は思っていることと言っていることは違う可能性がある」という前提条件を学べるシーンが多い。

終わりに

Twitterでクソリプをもらうことが多々ある。最初は正直イライラした。次に悲しくなった。どうも私にクソリプを送る人たちは私を傷つけたいわけでもなんでもないようである。ただ普通にリプライをしただけだ。なのに受け手の私はこんなに気分を害して彼らが苦手になっている。あまりに彼らがかわいそうだ。

ということで、どうやったら彼らを救えるのかを考えた。まぁクソリプラーにこの記事を送って「あなたはクソリプをしてますよ!本を読んでください!」なんてできないので、永遠に救われないと思うが。

イライ・マレーヴィチ

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