雑談:話し合う為に大切だと思うこと

こんにちは、ぽむすけです。
僕が最近大学のグループワークで討論をした際に感じたことを書きます。
文科省が大々的に掲げているアクティブラーニングについて賛成か反対かを議論したのですが、その際に賛成派は皆アクティブラーニングの長所(実践や経験を根拠に持ち出すのではなく、政府の打ち出した理想や文言が主な根拠だったようですが)にばかり目を向けて主張を始めるんです。(そしてほとんどの学生が賛成の立場を取りました)
つまりアクティブラーニングの内容や目標にばかり注目しているわけですが、その一方でアクティブラーニング賛成派の人達はゆとり教育や詰め込み教育を根拠なく徹底的に批判してくるのです。これまでに行われてきた教育の流れの何が問題点で、どう改善するべきかを一切明確にしないということです。
彼らにとってはアクティブラーニングは正義、既存の教育法は悪なのです。この文章を読まれている方々はこのことがどれくらい危険なことか分かってくださると思います。討論の質が低次元であることにもです。

きちんと教育課程の変遷を学べばすぐに分かることですが、アクティブラーニングは名前こそ真新しいものの中身自体は戦後日本がはじめにとった教育方針とほとんど同じです。つまり僕達のおじいさんおばあさん世代はかつてアクティブラーニングにかなり近い教育を受けていたんです。これは20世紀初頭の教育学者であるデューイが提唱した児童中心主義がベースになっている教育方針です。しかし、冷戦を迎え、ソ連とアメリカの技術開発競争が始まってからは教育は一気に知識至上主義へと転換していきます。アクティブラーニングでは体系的に教えられる知識の量に限界があったわけです。
このような児童中心・体験重視の方針と知識中心・教師主導の方針を日本の教育は何度も行き来して現在に至ります。
政府が大々的に掲げた名前に飛び付き、既存の教育を悪と捉えて単純な二項対立で教育を討論しているようでは日本の教育界はまだまだ良くはならないでしょう。(ゆとり教育が始まったときにもおよそ同じような現象が散見されたようです)
彼らが将来学校の先生になっていくのですから…

さて、僕が何を言いたいかというと、話し合いをするときには自分の主張を盲信しないこと(特にそれが現代において世に浸透している考え方であるほど)と、対立項だと思われる主張について自分のなかで一旦フェアに考察してみるということです。その上でやはり自分の主張に納得がいくのであれば考えの筋道を明確にした上で意見を発信すべきでしょう。

勉強においてもこれは同じことで、以前の記事でも書いたように現代は知識基盤社会からも西洋近代的社会からも脱却することが求められています。
しかし、西洋近代のことをじっくり学ぶ機会を失ったままに脱近代論を盲信してしまえば、必ず後から手痛いしっぺ返しを食らいます。
本当の意味で社会に参画できる大人になるためにはこの辺をきちんと実践していく必要があるなあと同年代の大学生を見て感じたぽんすけでした。