頼りない綱

「まるで高い所にいて、そこで1本の綱の上を歩いてるみたい」と自身の精神状態を形容していた友達がいた。なんだかそれが僕には寂しかった。読書と執筆が好きという割と珍しい共通点があったから僕達は呼吸がよくあった。笑顔でそんな話をするのだから分かりづらかったが、おそらく彼女は本当に不安定な状態にいた。きっと強い風でも吹けば、いや小雨でも降れば彼女は足を踏み外して落ちていくのだろうなと心のどこかで感じた。それほど儚く見えた。東京と北海道という離れた場所に住んでいたから半年に1回しか会うことは出来なかった。だから僕は彼女に僕が支えるなんて強い言葉は返せなかった。
彼女の鬱屈のはけ口は執筆であった。彼女の書く文章には一種の特徴的な荒さがあった。幾つかはまるで書き殴ったかのように暴力性を感じられるのもあった。気を抜いて読むとこちらがぼこぼこにされるほど強い語気を持っていた。ただ彼女の文章は同時に脆かった。指でちょんと触れようとすると弾き飛ばされるけれど、まるで暴れる人を宥めようと抱きしめると泣き崩れることがあるように、誠意の上で読むと、荒々しかった言霊は今にも崩れ落ちそうなほど儚く淡いものに変わってしまうのだった。それがどうにも寂しかった。彼女の精神が投影されていることが身に染みて理解出来たからかもしれない。
半年後に彼女に会った。半年のうちにお互い話したいことが山のように積もっていた。それほど互いに会うことを楽しみにしていたのであった。何を話したのかはあまり覚えてないが、言葉からも他人からも離れて一人で山のような所で暫く暮らしたいと彼女が言って僕もそれに激しく共感したことはよく覚えている。彼女は決して僕に直接言わなかったが恋人ができたようで、至って安定した精神に思えた。ただこちら側としてはやはり綱渡りをしていると言っていたことが気がかりで安心し尽くせなかった。人間いつそんなとこから落ちてしまってもおかしくないのである。太宰治は死のうと思っていたが、正月に一反の夏服の着物を貰ったのでそれを着るために夏まで生きようと思ったと、どこかの作品で書いていた。だから僕は半年後また話したいからそれまで生きていてくれと言った。彼女はこくりと頷いていた。
その半年後というのは夏であった。その間お互い書いた文章を見せあったりしていた。相変わらずの文章を書くから僕は本当に感心した。その中で一つ自殺未遂のことを書いたものがあった。以前に話を聞いたことがあるから内容は少し覚えていた。でも改めて彼女が不安定であったことを実感した。それでまた僕は寂しかった。
彼女は連絡の返事の頻度が珍しかった。ある時真夜中に急に連絡が来て、返事をすると、その次の返事は一ヶ月後だったり、二ヶ月後であったりした。恋人ができたしそのせいかなと思った。また彼女は気まぐれな性格であったから、あまり気にならなかった。夜中はネガティブなことがどんどん頭の中に浮かんでくるから厭世的な人にとって大変危険である。連絡の文体が明るいものであったから僕は気付くことができなかったが、彼女は相当ニヒルな状態になっていたのだろう。笑顔で自身の不安定な精神状態を話していたときのように、僕の友達は本当は辛いくせに明るい隠れ蓑を用いるから容易にそれに気付けないのであった。また夏に会うことができるか聞かれたから、喜んで会いたいと返した。返事はこなかった。気づけば半年は残り一ヶ月に迫っていた。
それから一月が経ち、僕は北海道に帰った。が、彼女からの返事はあれから一度もなかった。不思議に思ったが学生じゃないし、忙しいのだろうと思ってあまり深く考えなかった。僕は彼女を信用しきっていた。
帰省中、友達から彼女が自殺したことを聞いた。やはりな、と思った。あまり考えたくなかったが、その可能性は十分にありえたからだ。ただ急であった。彼女の訃報を耳にしたとき、非常にやるせない気持ちになった。僕は寂しかった。そして僕が最後に連絡を返した日が彼女の命日であることを知り、さらにやるせない気持ちになった。僕がまた遊ぼうという返事をしたのはその日の朝だったから恐らくそれに目を通したのではないかと思う。自分と会って話をするために生きてくれという僕の頼みが叶わなかった。僕の無力さを知り、人の虚しさを知ったから僕は寂しかった。僕は彼女の綱渡りの命綱になることはできなかった。

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