あとがき

読書感想文や音楽鑑賞文が嫌いだった。本や音楽を鑑賞してどう思ったか、作者は何を伝えたかったのか、何を表現したかったのか、それらを長い文量でつらつらと書き連ねることに対して不満と疑問を感じていた。
一体なぜ人は自分の見た作品に対して意味を求めるのだろうか。換言すると、果たして創作物には必ず意味を持たせないといけないのだろうか。僕はそうは思わない。創作とは自由なものである。特にルールは無く、作品は後からカテゴライズされていく。夕波に千鳥が鳴いている風景をスケッチするだけでも、ギターのコードに合わせて好きなようにメロディを付けるだけでもそれは立派な創作物になりうると僕は信じている。少年時代よくしたように、小石を自分が綺麗だと思うように並べたその並び方も一種の作品になるはずである。勿論そこからどのような感想を抱き、どのような意味や価値を見出すのかは受け手の自由であるが、その作品に意味があるということを前提にしてはいけない。だから僕は数ある左様な課題に「良いと思いました」と一言だけ書いて提出した。それは「先生」から評価さえされなかった。

そんなことを思いながら18歳の頃、「煙草」という短い小説を書いた。人生で初めての作品で改めて見返すと出来は微妙である。この作品で伝えたいことは何もない。しかしそれは決して創作の手を抜いたことを意味しない。ただ使いたい言葉を用いて、好きなように描写していった作品である。僕はただ自分が良いと思うように表現したのだ。読者のことを全く気にせずに、自分のために表現することは本当に気持ちが良いことである。そこからどんな価値や意味を見出すのかは貴方次第である。作品には意味を持たせていないと申したが、もしかすると僕自身が気づかない何かしらの反映が存在するのかもしれない。繰り返すがどう受け取ろうが貴方次第である。あまり人には見せたことがないが、久しぶりに読み返すと懐かしく良い気分になったので投稿した。読んで頂いた方は分かると思うが、この作品には穴が多い。しかし、穴だらけで不細工なこの作品を僕は心から愛している。


勘違いされないように少しだけ補足しておく。僕は何かを訴える作品を否定しない。むしろ左様な作品は好きである。ただ我々が鑑賞する作品全てに価値や作者からのメッセージが存在すると杓子定規的に考えることは間違いなく我々の芸術鑑賞の阻害になる。論理的な鑑賞が必ずしも正しい訳では無い。結局のところ、鑑賞してる上で言葉にせずとも、受け手が良いと思えばそれだけで立派な良い作品なのではないだろうか。無論僕の価値観ではあるが。


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