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美しいを知りたくて

美しいものはどうして美しいのでしょうか。ここ二、三年そのことについて沢山考えている気がします。そもそも美しいとは何でしょうか。情けないことに、考えてもはっきりとした答えが浮かびません。バウムガルテンから始まった美学の議論もなんだかんだ曖昧なことが多いように感じられます。

結局のところ何が美しいかというのは主観なのだと思います。
例えば、大切な人が手作りしてくれた鞄と有名ブランドの鞄とはどちらが美しいのでしょうか。前者は余った布を縫い合わせて作られたもので、細かい部分は所々不揃いになっていたりしています。ただなんというか愛情が感じられるのです。後者の鞄はしっかりとした生地が使われており、細部まで緻密に精巧に作られています。きっとこのブランドの鞄一つで手作りの鞄を数十数百は作ることができるでしょう。
やはり結局どちらが美しいかというのは主観であり、断言することは難しいです。それではこの二つの鞄はどちらの方が価値があるのでしょうか。市場に出るとブランドの鞄の方が高い値が付くのは自明なことです。しかし果たしてそれが手作りの鞄よりも価値があるということを意味するのでしょうか。値札は本当に物の価値を表すのでしょうか。


幼い頃、友達のボールペンをわざと壊して、先生や母にこっぴどく叱られたことがあります。そのペンは弁償しました。同じく幼い頃、寒い中作り上げた雪だるまを友達に壊されたことがあります。その子は誰にも叱られませんでした。もちろん、弁償もしてくれませんでした。
先生は綺麗なものを壊したときではなく、お金のかかるものを壊した時に叱るのです。もしも僕の作った雪だるまに高い値札が付けられていたら、先生はどうしていたのでしょうか。きっと子供の頃の方が素直な審美眼を持っていたような気がします。いつしかものを見るにあたって金額という面を大きく考えるようになってしまいました。しかし金額とものの価値は必ずしも相応するとは限らないと僕は信じていたいのです。

美しさは主観的で感覚的です。一般的に忌み嫌われていたり醜いと見られている、鴉の羽根や蛾もある人にとっては美しいのです。僕にとっての美しいは上手く説明できませんが、いずれも共通点があります。それは妖精です。昔から僕が美しいと感じるものにはいつも決まって、それ宛ら美しい妖精が宿っていました。その妖精が美しいものを美たらしめており、またより一層美しく見せているのです。星の冴え渡る夜空、桃色の朝の日光、綺麗な芸術作品、綺麗な人、僕が美しいと感じる至るものに妖精は宿っています。妖精なんて非現実的で幻想的なようでしょう。ですが僕の主観を通して感じる美しいとはそういったものなのです。

何にも紛らわされずに、主観を信じ、愛と理解を持って誠実に美と向き合っていきたいと僕は思うのです。

p.s.
サムネは北海道にあるニングルテラスで撮った写真です。ニングルとはアイヌに伝わる森の妖精のことです。この綺麗な北海道の森には本当に美しい妖精が宿っていることでしょう。

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