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I said myself(バジーノイズ感想②)

※映画「バジーノイズ」の本編、パンフレットの内容・ネタバレをおおいに含みます。

バジーノイズ。早々に2回目を観ることに決めて、またもや清澄たちに会いに行った。
清澄のことをもっと知りたい、清登の音楽に会いたいと思ってしまったから。

ストーリーがどう進行していくかがわかるので、1回目よりかは心に余裕をもって観れたような気がする。この映画は自分の感じたことだけを自分の中に落としこんでおきたかったので、極力レビューや他の方の感想を見ずに鑑賞することにしていたんだけれど、これ書き終わったらいろいろ見漁ろうと思います。まだまだバジーノイズに触れていたい。

きれいにまとめようと思ったけれど、なんかむずかしいな!と思ったのでほぼ箇条書きで。

□『AZUR』について。

潮ちゃん曰く、「青とか、青いって意味」。調べてみるとアズールブルーという色の種類があった。アザーブルーとも読むのかな? 「Azure Blue」。カラーコードは#a0d8ef。夜明けの空のやさしい青だなあ。潮ちゃんとの最後のシーンの色。登場人物がみんな海や水に関係する名前なのもあって、ずっと青色のイメージがある映画だったなと思う。Surgeのジャケ写も空と海だもんね。好き。

□清澄と潮ちゃんについて。

このふたりは正反対で、だけど似てる部分もあって、パズルのピースのとなり同士みたいな関係だなと思う。潮ちゃんにサンプラー(で、合ってる?)わたして一緒に演奏するシーン。あれめちゃくちゃ好きなんだけど、潮ちゃんがボタン押して楽しそうにしてるところを清澄が嬉しそうに見てたのがもう爆エモ。潮ちゃんが清澄のこと見たら清澄も見つめ返して、ふたりともちゃんと目を合わせて喋る瞬間が多くてそれがめっちゃ良かった。清澄も、人が嫌いなわけじゃないんだろうな、と思う。ねっこの部分は優しくて、傷つくのをおそれて人と関わることを避けているだけで。そのうちにパーソナルスペースがだんだん広くなっていったんだろうなって感じで。
潮ちゃんが窓ガラスを割って入ってきたときから潮ちゃんのペースに巻き込まれていった清澄。ほんとうにほんとうに嫌だったら拒絶するだろうけど、それをしなかったのはなんでだろうって考えた。初対面のときに自分の音楽に対して「めっちゃ好き」(ニュアンス)って言われて、そのとき清澄が、この人はわかってくれるかもしれないって目をした気がして、たぶんそこが始まりで、真夜中にたずねてきた潮ちゃんを放っておけなかった理由のひとつになったんだろうか、って想像した。
で、パンフレットの「浜辺のあと」。清澄の中での自分の音楽の価値観や位置が、
『心地良く自分が眠れる音楽が全てだった』
『騒がしくても、ここで鳴らす音楽は自分が求めていた安心する音楽だった』
から、
『ひとりでいる誰かが安心して眠れる音楽になれば良いなと思った』
に変わっていった最初のきっかけが、あの午前3時半のチャイムだったんじゃないかって。自分の作る音楽の心地よさが、自分の中で完結していたところから、他者=だれかに向けたものに変わっていく。清澄は「浜辺のあと」の中で「生まれ直してるみたいに」と自分の心の変化を表現する箇所があるけど、もともと自分の中にあったものの位置が内向的なものから、おおきく形は変えずに外向的なものへとゆるやかに変化していったんだろうな。周りから見たら全部「清澄」の枠の中にあるものなんだけど、清澄がそれに気づかず、周りから「清澄ってこうだよね」「いや違うよこうでしょ」って言われてるのを照れながら恥ずかしがりながら、でも自分の中にあった自分の知らない自分、を他者が見つけてくれることが嬉しかったんだろうなって、読みながら思いました。
ただ清澄は、他者からの意見や悪意にすごく敏感で、逃げてしまった初ライブ、AZURのポストに送信された否定的なコメントにわかりやすく拒絶する。ライブに関しては陸さんが「自分のせいだと思う」「清澄が納得するまで作りこんでからやるべきだった」(ニュアンス)って言ってて、ポストに関してはマザーズデイを抜けた陸さんへのリプとか、一緒にやってるやつ誰?みたいなコメントを見てアカウントを作ったことに対してあまり良い反応を示さなかった清澄。自分の「好きなものたったいっこ」を傷つけられるのが耐えられなかったのかなって思った。そりゃそうだよね、って思う。だってそれひとつで生きてきたんだもんな。それ以外のことはできるだけ避けて、本当に好きなものひとつだけ大事に抱えて生きてきて、そうじゃない生き方を、選択してこなかった生き方を知らないまま、そのたったひとつさえも否定されてしまったら、どうやって生きていくかわからないもんね。苦しいよね。しんどいよね。
自分の中で完結していればそれでよかったんだから。それで満たされていたと思うから。
でも潮ちゃんに外の世界に連れ出されて、いろんな人とつながりあって、すこしずつ清澄は変わっていく。
岬さんのいうとおり、清澄はひとりで早く、遠くまで行ける人間なんだろう。だからひとりでも、なんやかんやで音楽を作って生きていけてたんだろうけど。でも、潮ちゃんが割ったガラスの向こう側で街灯が眩しいくらい光っていて、やっぱり清澄は外へでてよかったーってわたしは思う。

でも、清澄の周りに仲間が増えていくにつれて潮ちゃんの顔が曇っていくのを見て、ちがうんだよ~~~潮ちゃんがあの夜窓ガラスを割ってくれたからなんだよ~~~泣泣泣ってなってた。潮ちゃんが役目、役割の話をしたとき、潮ちゃんがファン1号であり続けてくれてくれるからきっと、潮ちゃんの存在自体が清澄の音楽を作ることの意味のひとつにちゃんとなってるんだよ~~~って思った。背骨が強化されたような感覚だよね、きっと。

だから余計に、潮ちゃんが出て行ったときに、すごくショックを受けたんだろう。やっぱりひとりのほうがいいじゃないか、って。岬さんに漏らした言葉、「ひとりでいれば面倒なこともない、変な気持ちになることもない」。自分の輪の中におさまったものが欠けるとかなくなるのがさみしくて、だからひとりでいることを選んでいたのにね。さみしいよね。でもやっぱりつながりを切れず、潮ちゃんや陸さんたちの存在を求めてドアを開けた最後のシーン、本当に良すぎた。

ふたりの関係が恋愛っていうひとつだけの枠におさまらなくて、それ以上というか、それ以外というか、精神的な「居場所」になっていったような感じがして、その関係がエモくて大好きだなって思った。こういう大事なところの語彙力をもっと鍛えたいよね。言葉にするのってむずかしいよね。

□清澄と沖さんについて。

まずこの映画の中で、だれも悪者じゃなかったのがよかったな、という感想が根底にある。わたしにはだれも悪者じゃないように見えた。それぞれがそれぞれの夢とかやりたいこと、譲れないこと、やらなければならない使命とか仕事に向かって進んでるだけで。それが交差したりぶつかりあったり、あるいは離れてしまったり。ある人同士ではまったく真反対に道が続いているだけで。
潮ちゃんたちに連れられて行った清澄の後姿を見た沖さんの、あきらめのような慈しみのような切なくやわらかい表情がわたしには何故かわけもなくささりまくって、正直映画の中で一番泣いたシーンだった。
売れる音楽を作り出す人間を、売れる期間内に、つまりは「旬」のうちにって沖さんは言ってたけど、会社とアーティストの関係の話も含めて、わたしはすとんと心の中にその言葉たちが落ちていった。
むずかしいこともビジネスの話もわたしにはわからないけど、旬って、流行を作り出すってことなのかなーって思う。アーティストの力がもちろん最初にあるかもしれないけど、その流れをつかまえて、その流れ自体を強くしていくことが会社の役割なのかも。マネジメントとかそういう話は本当にわからないからわたし個人が勝手に想像していることなんだけど。
陸さんは「清澄が潰される」って言ってた。わたしには、「清澄の才能が生きられるあいだ、ちゃんと生かす」って感じた。沖さんの価値観が会社の総意なのだろうか。そうなると、沖さんが「こいつは使える」と思っているあいだ、乱暴な言い方をすると、清澄を利用するってことなんだろうな。陸さんにとっては、清澄は自分の音楽を、やりたいようにやっていけるのが望みなんだろう。岬さんも、航太郎も、もちろん潮ちゃんも。だから岬さんは「私たちのエゴ」って言ったし、それに対して3人も何も言わなかった。
わたしも、陸さんに共感できる部分があって、清澄が「好きでやっている音楽」にこそ価値があると思ってるんだよね。さっきも書いたけど、わたしはド素人だから、ド素人なりの感想なんだけど、「売れてるからいいもの」なのか、「いいものだから売れる」のか、それをいま考えてる。ビジネスとしての音楽。ただ、清澄がてがけた楽曲が他のアーティストの知名度をあげたり、デビュー曲にまで使われる予定だったところを見ると、やっぱり清澄には人並みではない才能があって、その清澄の才能を元手にして、会社=沖さんが利益をあげようとしていた。それがビジネスとしての音楽で、沖さんはビジネスとして清澄の才能を買って、陸さんは純粋な音楽への熱量をもって清澄の才能を評価していたんだよね。相反するどちらかの考え方に見えるけど、それを清澄自身が望むのなら、陸さんは「喜んで送り出す」と決めたし、沖さんは、わかんないけど、「環境をととのえる」ことに決めたんだと思う。
旬。芸術が時代を作るのか、時代の流れの中にハマる芸術が受け入れられるのか。なんかそのあたり、興味深いなーって思った。

『いろんなやつがやってくるだろう。でもみんないつかいなくなる。君はひとりで、作家として生きるべきだよ』

レコーディング見学のあと、防音室に案内された清澄に沖さんが言った言葉で、これには共感してしまった部分があった。質の良い孤独。わかりあえないと思うさみしさ。他人に評価されたくないとひりつく心。そのさみしさが叫びになったり自分の友達になってくれたりする。そこから生まれたものの心地よさをわしは知ってしまっているので、この言葉が一番印象に残った。わりと沖さん派なのかもしれない。

利益を求めるなら清澄は絶対に会社にいてほしい存在だと思うんだけど、連れられていく清澄をとめなかったのはなんでだったんだろう。ここからはわたしの想像でしかないけど、潮ちゃんたちの存在によって清澄の音楽がどう化学反応を起こすのかを見たかった、とかなのかな。それか単純に、ドアを椅子で破壊しようとするほどの情熱に負けたか。
なんにせよ、沖さんは音楽シーンにすごく真剣で、その仕事を全うし続けてるだけなんだよね。旬を逃さないように、多少強引なやり方でも、才能のある者をひっぱってきて、そのとき一番時代に合ったやりかたで売る。それがだれかの目に非情に映ったとしても、そういうところ、めっちゃすきだなーって思った。

□清澄と洋介さんについて。

洋介さんは、すごくやさしいひとなんだと思う。陸が抜けてAZURとしてやっていくことを決めたことに対して、「ありがとね、」って言ったときから、この人は本当に優しい人なんだろうなーって、胸がぎゅっとなった。
初めてのライブからずっと来てくれてるファンに対して、ああいう子が応援してくれてるかぎりは続けようと思う、みたいなことを言っていて、この人は本当に音楽が好きで、バンドが好きで、ただ陸さんの考え方とか価値観とかと合わなかっただけなのかもしれないって思った。それから、バンドを始めたころの熱量と自分の今の感情とかスタンスが合わなくなってしまっただけなんだろうなって思った。思ったら、少し寂しくなってしまった。
ここにもやっぱり「旬」の呪縛があって、洋介さんは引き際をわかっているんだろうと
思う。ただ一緒に倒れていくんじゃなくて、未来にまだ可能性があると思ってる仲間を送り出したり、引き際に抗うこともまた眩しいな、と思う。

□清澄について。

いろんな人に出会って、清澄自身が、ゆらぐ水面にいくつも波紋が落ちるように他人の価値観を知って、ぶつかりあって、ゆるやかに変わっていった。
音楽を続けること、いつまで続けるのか、どんなふうに続けるのか、そのときひとりなのか、だれかといるのか。「浜辺のあと」でも、清澄のこれからの音楽への向き合い方について書かれているけれど、きっと、洋介さんとの会話があったからこの疑問が生まれたんだろうな。自分は何のために音楽を作るのか。いままでは自分が心地よくあるために、眠れるために、って作ってきたものだった。でもひとりから人が増えて、作りたい音楽の形こそ同じだとしても、だれかに向けたものに変わっていっていることに清澄自身も気づいてる。だからこそ、どこに向かうのか。いつまでやるのか。
いつか、いつか、AZURではなくなってしまうときが来るのかな、とも思う。これも「浜辺のあと」からの引用になるけれど、清澄が『いつか嫌いあっても届けたい』って言ってて、そこが清澄の心情の一番の変化なんじゃないかな、と思う。自分の音楽に否定的な意見や評価をつけられるのをおそれていた。でも、音楽で何かを伝えたい。清澄にとっては言葉よりもずっとまっすぐ伝わるであろう音楽で。関係や考え方がまえとは変わって、傷つくことも、傷つけられることも、ないわけではなくて。その中でやっぱりひとりのほうが。。。と思うこともある。でも、それでも、伝えたいことが生まれてしまったんだろうな。映画の最後の最後のシーン。泣きながら部屋を出てくる清澄が、そういう傷とか痛みとかを覚悟して、それでもみんなといることを選んだのが爆泣きだった。語彙力どうにかならんか。
それから『自分と誰かの為に』音楽を作りたいと「浜辺のあと」の最後に書いてて、それも爆泣きだった。
でもなんか、ここに関してはすべて終わったあとの変化というよりかは、岬さんの楽曲提供依頼のファイルを見たときに清澄が「それは?」って興味を示して案件を受けることにした理由につながってるような気がして、単にドラムの生音が欲しいから交換条件として受けただけじゃないように思えた。航太郎のクビがかかってることとか、自分の音楽を欲していることに対して、何かしたい、っていう感情がもともと清澄の中にあって、ただいままでは「だれかのため」の音楽を作る必要がなかったというか選択肢がなかったというか、優先順位が低かっただけで、もともと、人とのつながり自体を完全にあきらめてるわけじゃなかったのかなって。すこしずつその不器用さがほどけていくように見えたのがよかった。
いつかまた清澄がひとりに戻るとしても、選択肢のひとつとして「だれかと一緒にやる音楽」は存在しつづけるのだろう。
「surge」からの引用、『閉め切っていたその心の 鍵がなぜか ほら ここにもあるよ』の、『ここにもあるよ』がわたしには良い意味でずっとひっかかっていて、「ここにあった」じゃなくて、清澄的にはいままでの日々も間違いだったわけじゃなくて、正しいと思って生きてきた。でも、それ以外にも、自分の「たったいっこ」を大切にしたまま、同じように大切にしてくれるひとたちと生きていく方法もあるんだよなって気づけたことを表してる感じがしてめっちゃ好きな歌詞。これがバジーノイズの中で清澄が見つけた答えなんだろうなって。

□映画「バジーノイズ」とsurge、あるいは清澄の作る音楽について。

この物語は、海へ向かうシーンが印象的で、それと、夜と、夜明けのイメージがつよい。
これも清澄の心情を表しているんだろうなと思う。
潮ちゃんが清澄の作る音楽を『さみしくてあったかい感じ』って表現したのが、一番「めっちゃわかる」と思った瞬間だった。映画の中で流れる清澄の音楽は、夜の海の、深く落ち着いた雰囲気を思う。海を背景に清澄の音楽を聴くシーンが多かったせいもあるのかもしれないけど、やっぱり海のイメージが強いな。あと、航海灯。深夜の波の音とともに視界にはいる、あのぼんやりと点滅するちいさな赤いライト。その景色を、夜の深いところで、ひとりで眺めているときのさみしさのような音だなあ、って思う。
清澄にも眠れない夜があったのだろう。だから眠れる心地よい音楽を求めて、そういう音作りをしてきたんだろうなって想像した。
「surge」はそれと似たようで、でも正反対の場所にある音楽だと思う。「surge」の最初は、海底にいるみたいな雰囲気から始まる。最初の低音、なんの楽器かわからないんだけど、鯨が水中で鳴いているように聴こえる。でも曲調がずっと朝の眩しい日差しとか、それこそAzure Blueのような色合いの雰囲気。清く澄んだ水の、上澄みをなぞりつづけているみたいな音楽。

『眠れない夜もいつか眩しい朝陽に変わる』

清澄が「surge」を作ったのは、これまでの自分=深夜から目覚めて、あたらしい朝へ向かえると、それを希望として持って前を向けるようになったからなんだろうな。

『I said myself』この歌詞は、もうすこしだけ騒がしい場所で歩いていくことに決めた清澄、ファンとして清澄のことを応援して、自分の道を自分で決めた潮ちゃん、それぞれの言葉に聴こえる。夜明けに海辺で聴いたら絶対良すぎる。

いつかそれぞれの道がまた違う方向へすすんでいったとしても、清澄は清澄のまま、音楽を作り続けるんだろうなと思った。眩しい朝陽を浴びながら。

言いたいこと、思ったこと全部書き出せてよかった。もうほんとうに最高の映画でした。ほんとに出会えてよかった。個人的にバジーノイズの余韻に浸れる時間が結構あるタイミングで観られて、こういう考えをまとめる時間もとれたのがすごくよかったです。

おわり。

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