かたちだけの愛 平野啓一郎 感想

交通事故で片足を失った女優と、その義足を作ることになったプロダクト・デザイナーの相良が心を通わせていくなかで、生き甲斐や愛とは何か?を見出していく物語。

おもろかった。特にグッときたところを抜粋。(※ネタバレあり)

久美にとっての愛

自分のことより人のことを気にかける、みんなの幸せが自分の幸せ!って考えてそうな人って身の回りにいるよね?そういう人に親切にされた時、「いい人だ」と思うけど、なんかそこ止まりというか、心が熱く揺れ動かないこの感じは何でなんだろう。逆にちょっとわがままな人が、人の意向を聞かずに自由気ままに楽しそうに自分のやりたいことやってる姿を見ると、「いやだな」っていう気持ちを優に超えて「熱いな」って感じるのは何でだろう。そんなことを最近ずっと考えてた。ちょうどその答えみたいなのがこの本の中で言語化されてて興奮した。「これだ!」ってなった。それは、久美にとっての愛についてを相良が考察するシーン。

"愛はなるほど、常識的に考えても、利他の感情と利己の感情とが絡み合ったものだが、相良が理解しそこなっていたのは、人は、利己心が相手の中にまるで見えない時にも、自分が本当に愛されているかどうかを、深刻に思い悩むものなのだということだった。"(平野啓一郎、『かたちだけの愛』、中央公論新社、2013、P364)

親切にされるだけでは、そこにあるのはその人の良心だけなのか、それとも愛が含まれてるのかわかりにくく、逆に疑ってしまう。もしかして他人に優しい自分が好きなだけ?ってなっちゃう。利他の感情を感じ取るだけじゃ物足りない。利己の感情を受けて初めてホンモノだと感じる。「親切な人」と「わがままな人」双方から感じてたモヤモヤの正体をおれはここで見つけた。「利他の感情と利己の感情とが絡み合ったもの」におれはグッとくるんだなー。そんなことに今の今まで気付けなかった……。

久美は片足を失った「障害者」である。そんな彼女に優しく接するのは当然のことのように思える。健康体の頃の自分とは違う状態。この人は私が障害者だから親切なのだろうか?という疑念が常につきまとう状態になった。五体満足だった頃よりも彼女にとって他人からの愛を信じ難くなってしまっているように見えた。だから、粗暴ではあるが健康体の頃から付き合いのある三笠について行くのもなんとなく納得してしまったし、「私を連れ戻してくれる相良を見たかった」という心理もなるほどなと思ってしまった。でも共感はできない。そんなやり方ないっしょー、幼稚だし卑怯だ!って思った。相手の気持ちを、その人の行動で確かめるような人はあまり好きじゃない。愛されてるか確かめたいんなら、まずその人をとにかく信じてほしいって思っちゃった。でもそれが人間っぽい。だから好きなシーン。

ラスト、パリでのファッションショー

片足を失い人生に絶望していた久美子。幼馴染の理沙も「もし片足失ったら自殺する」と言ってた。そこまでか?という感じだけど、足を失うってことは、歩くのが不自由になることだけじゃない。他人からそういう人として見られる人生を今後ずっと歩んでいく、それを受け容れていくということ。想像を絶するが、もし自分がそうなったら自分も死にたくなるのだろうか?わからないけど、久美子は死にたいと思ってた。そんな久美子がパリのランウェイで高いヒールを履いて華やかに輝くラストシーン、最高だ。久美子が生まれ変わるという意味でも良いんだけど、相良目線から見てもとても良い。自分が生み出したモノが人の人生に影響を与える。こんな幸せなことって他にあるのか。どんなかたちであれ、自分もいつかそういうことをやりたいなと思った。


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