赤ひげ診療譚 山本周五郎 感想

・あらすじ

長崎で蘭学を学んできたエリート青年医師の保本登は、その医術でもって名をあげ、出世街道まっしぐらを夢見ていた。そんな登が、汚くて臭い貧乏人ばかりを相手にするうえに最低給料の小石川養生所に送り込まれる。そこには人々から「赤ひげ」と呼ばれる粗暴な医長がいた。その赤ひげの熱い人間性に触れ、そこで出会うさまざまな人間や出来事を通じて精神的に成長していく人情物語。


・赤ひげは怒らない

「徒労に賭ける」の章にて、前から歩いてきた若者がわざと去定にぶつかってきてそいつに悪態をつかれるシーンがある。去定はその時怒るわけでもなく、低い姿勢で詫びる。

"「そうしたかったんだろう」と去定はあっさり云った、「人間はときどきあんなことをやってみたいような気持になるものだ、若いうちにはな、ーおれにも覚えがあるよ」
私は殴りつけてやろうかと思いました、登はそう云おうとしたが、口には出さず、拳を握ったまま黙って歩いていた。" (山本周五郎、『赤ひげ診療譚』2019、新潮社、P212)

そしてそのあと、13歳くらいにみえるおとよのところに外診に行く去定と登と竹造。そこに鉄さんと兼さんとかいう用心棒みたいなことやってる若者に、腰抜け医者だとかふるえてたぜとか云われる。

"「先生は怒っていらしったのです」と登は云った、「あのおとよという娘の家で二人のならず者が暴言を吐いた、そのときがまんなすった怒りが、下谷へゆく途中から出はじめたのだと思います」
「それは少し違う、おれはあの二人には同情こそしたが、決して怒りは感じなかった」
" (山本周五郎、『赤ひげ診療譚』2019、新潮社、P225)

そして、その原因の一つが幕府の倹約令にあるという話をし、可哀そうでたまらない気持になると云う去定。怒るのではなく同情したのだ。

おれは人に対して怒りを感じることがある。それは自分が正しく相手が間違っていると思うからである。だがその怒りの本当の原因は、自分が無知だからである。相手のことをよく知らない、その人をそうたらしめているのはなぜか理解できていない。だから自分が正しいと思い込み、人に対して怒ってしまうのだ。去定は、理不尽な目にあっても怒りはしなかった。

"「娼家の主人たちも同様だ、女たちを扱う無情で冷酷なやりかたを見ると、捉まえて逆吊りにでもしてやりたいと思う、初めのうちはいつもそうだったし、いまでもしばしばそういう怒りにおそわれるが、よく注意してみると、かれらも貪欲だけでやっているとは限らない、やはり貧しさという点では、雇っている女たちに劣らないような例が少なくないことがわかる」" (山本周五郎、『赤ひげ診療譚』2019、新潮社、P226)

なぜこんな酷いことをするのか、なぜこんな悪口を言うのか理解しているからである。だから相手に同情するのだ。懐が広いという言葉だけでは片付けられない。去定のような思考に至るには、常に「なぜだ?」と問いかけるスタンスが必要だ。まずはじめにやるべきことは、感情に身を任せて怒ることではなく、疑問に思い問いかけることだ。この人はなぜこんな酷いことを言うんだろう?なぜこんな酷いことをするんだろう?

おれは去定に対して、今までそうやって何度も問いかけてきたんだろうなという痕跡を感じる。それをやるのは決して簡単なことではない。自分が無知であるということを認めるその謙虚さ、感情に身をまかせるのではなく相手の事情に踏み込み考察するというその寛容さ、そして実際に自分の目で見て足を運んで学びを深めていく真摯さなどが去定から垣間見えてくる。

"「人間ほど尊く美しく、清らかでたのもしいものはない」と去定は云った、「だがまた人間ほど卑しく汚らわしく、愚鈍で邪悪で貪欲でいやらしいものもない」" (山本周五郎、『赤ひげ診療譚』2019、新潮社、P221)

この言葉に尽きる。人間には前者も後者も両方の側面を持っているということを認めなければならない。もし人間が前者だけだと思い込んでいれば、そうであるはずの人が愚かなことをした時に、憤りを感じるだろう。逆に後者だけだと思い込んでいると、どんなことにも心が突き動かされず、どうせ何か悪いことを考えてるんだろ?と諦めたような気持ちになってしまう。人間とは複雑なものであり、善か悪かの二元論で片付けられない。ていうことを頭に入れておかないと、いろいろと間違えたことをしてしまう気がする。人間って難しいな、くらいのスタンスでいれば少し心にゆとりができて、落ち着いて何事にも対処できる気がする。どんな人が現れようと、

"「だが、かれらもまた、人間だ」" (山本周五郎、『赤ひげ診療譚』2019、新潮社、P244回は)

と一拍置いて感情をコントロールしたい。この言葉を忘れずに心に留めておきたい。


・徒労とみえることに自分を賭ける

"こうなんだ、と彼は云いたかった、おえいは十歳という年で、身を護る決心をした。そうしてやがて子を産むだろうが、このきびしい世間の風雪の中で、子供をりっぱに育ててみせると云っている。去定の生きかたも同様だ、見た眼に効果のあらわれることより、徒労とみられることを重ねてゆくところに、人間の希望が実るのではないか。おれは徒労とみえることに自分を賭ける、と去定は云った。
ー 温床でならどんな芽も育つ、氷の中ででも、芽を育てる情熱があってこそ、しんじつ生きがいがあるのではないか。" (山本周五郎、『赤ひげ診療譚』2019、新潮社、P378〜379)

保本登は、目標であった幕府の御目見医という出世コースから外れ、小石川養生所にとどまるという修羅の道を選ぶ。これは「なりたい自分像を追う」ことをやめ、「自分が他者に対してできることをやる」方を選択したことを意味する。なりたい自分像を追うことは決して悪いことではない。目標を持ってそれに向かって頑張って、自己実現欲求を満たそうとする人を否定するつもりはない。でも自分はそうなりたくはない。自己実現欲求にはやはり少なからず承認欲求が内在すると思う。人から認められようとする行動は、「おれがおれが!」とひとりよがりになりがち。時に名声をひけらかすような行動を取ってしまうかもしれない。おれはそれって惨めだなと思う。だからそうはなりたくない。もっと自分に対して謙虚になり、自分にできることをもってして他者に貢献する方が、言うように情熱的で生きがいを感じる。

そしてその対象となる他者とは、この物語ではあらゆる人間であった。

中にはとんでもなく愚かな人間もいる。それが環境によってそうさせているのか根っからの毒草なのかの議論の糸口を見つけるのはなかなかおれにはできなかった。それでも、そういうとんでもない愚かな人間の中から善いものをひきだす努力をしなければいけないという赤ひげのラストの言葉を聞き、「うわーめっちゃ大変だけど、それくらい寛大でありたい」と思った。それが、「徒労に賭ける」ということなんだろうな。

人間の可能性を最後まで否定しない赤ひげに出会えたことは、おれの人生においてかなりの財産となると思った。

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