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もうひとりの門出


すこし前のこと。
ニュージーランド時代の同僚から、退職の連絡があった。

まだミワコさんの中だけにとどめておいて欲しい。そう付け加えて伝えてくれた彼は、わたしが向こうで生活する上でお世話になった数少ない友人の一人だ。


彼には移住前のひとり旅で、共通の知り合いが引き合わせてくれた。
移住や仕事の相談に始まり、実際に住み始めてからは働き方や職場の事など、壁にぶつかるたびに彼に相談していたわたしは、何も恩返しができずに帰って来てしまった。

彼は街いちばんの人気鍼灸師で、ブラックな職場環境の中でも持ち前のポジティブ思考と誰からも愛されるキャラクターで、数分たりとも休めないようなスケジュールの中、嫌な顔ひとつせずにわたしのために時間をつくってくれた。
どんな人でも彼にすぐ心を開くというか、治療もオールマイティというか、治療家としても人間的にも非がないというか。ユーモアがあって、暗い表情で治療室に入った人も笑顔で出てくる、そんな人。

わたしは、というと、治療も人間性も、彼よりも劣っているといつも思っていて、彼と自分を比較して事あるごとに落ち込んでいた。
3ヶ月先まで予約が埋まっている彼と、なかなか患者さんを増やせなくていつクビになるかわからないわたし。
わたしの治療を好んでくれる人はレイキヒーラーだとか、敏感で他の治療を受けられない人とか、ちょっと宙に浮いてるような感じというか、ふらりと来てはパタッと来なくなるとか、そういうマイノリティな人が多かったので、雇う側としてはあまりお金にならない(笑)
でもそこを活かしてあげたい、と親身になって患者さんとのコミュニケーションの取り方の助言をしてくれたりした。わたしが本格的に鬱っぽくなって、山道を歩きながらここから飛び降りようかなんて思ってしまうくらい危うくなってきたとき、彼は自分の職場の上司に掛け合ってわたしを引き抜いてくれた。そして同僚になって、わたしに合いそうな患者さんを回してくれたり、忙しくても会う機会を増やすことでわたしを元気にしてくれた。

とにかく大きく抱えすぎたプレッシャーで、もうわたしは弱りきっていたから、下手すれば彼に寄りかかりすぎて恋愛感情まで抱いてしまうんじゃないかというくらい、わたしは彼に依存していた時期もあったように思う。
時おりわたしのピアスが可愛いなんて耳たぶに触れたりするものだから、わたしがもうちょっと器用だったらどうにかなってしまっていたかもしれない。

でも一緒に夜飲みに行っても、ふたりきりの車で送ってもらっても、そういうことにはならなかった。今思うとそれで良かった。


鬱になって職場を変え、こんどは国が嫌になって帰国してしまったわたしと違い、彼は家族の為にも永住権を取ったしこれから独り立ちをする。気性の荒いパワハラオーナーとしっかり向き合い続け勝ち取った彼の未来。おめでとうと伝えたわたしの気持ちには、嫉妬が1ミリもなくて、その感覚を抱けた自分を、わたしは誇りに思う。


もう少しで触れそうなところで触れない手と手だった。
肝心なところははぐらかす、開きそうで開かない心の持ち主だった。
またいつか会うのかもわからない、人生のうちで、ちょっとだけ一緒に時間と空間を共有した人。


ときどき思い出す。
選択肢に悩み、働き続けなければ一家が生活していけない中で、やっとこさ臨床の場に立っていた痩せ細ったわたしが今にも倒れそうなとき、一度だけやさしく抱きしめてくれた彼のあのハグ。
あれは間違いなくわたしの「思い出のハグベスト5」に入りつづけるだろう。


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