なんとなく一人じゃないということ

こんにちは、ぽんももたろうです。
私は都内に在住、正規雇用で働きつつも平均よりも低い収入で生きる独身女性です。
一人暮らしを始めて約3年。もともと内向的な性格だったためか、ホームシックにもほとんどならずに過ごしてきました。
そんな私に「命」と同居する機会が訪れました。同居することとなったのは、「ぬいぐるみ」の「いく」です。(いくについては https://note.com/ponmomotaro/n/n2959580a51bf で紹介しています)

ぬいぐるみを部屋に置くことを同居と呼ぶか否かについて、様々な意見があるとは思われますが孤独なオタクのたわごととして軽く受け止めていただければと思います。

とにかく、この2022年6月に私は「なんとなく一人じゃない暮らし」という生活を手にすることになりました。

友人も少なく、せめている友人ですら遠方住まいだった私の一人暮らしの家を訪ねるものはおらず。この3年間で人を家にあげたのは2回ほど、そのうち1回は母親です。そんな人間の家が、清潔なわけがない(そんなことはない。人によるよ、一人で生きていても清潔に部屋を保つことができる人だって当たり前にいるよ、周りが見えていないだけ)ので、いくが家に来た頃我が家は相当汚かった記憶があります。私は自分の家を例えるときに、5歳の作ったレゴブロックと比喩することがありました。それほど不条理な配置をしていたということです。

いくが家に来てまず困ったことはこの子をこの家のどこに配置するか、ということです。そもそも、物が乱雑に置かれており、ぬいぐるみを飾るという観点からみても適切な場所が一か所もない状態。そんな中でこのかわいらしい命を放り出すことはできない、と感じました。かくして、とりあえず、ということでいくの過ごせる安全なかごを100円均一で購入します。以降このかごは、いくの巣(巣ではない、彼は人間のぬいぐるみなんだ。何を考えて居るんだ、この表現は適切じゃない!と思うのに他に形容できない自分という人間を恥じるのだった)となり、荒廃した部屋でぬいぐるみが安全に過ごせるスペースとなりました。

「巣」を準備した後は、とにかく部屋を安全にしていくという作業が始まります。ぬいぐるみが落ちてきたものに潰されたら?という恐怖からシェルフを、汚れがボディについてしまったら?という恐怖から机や床、キッチンなどを清潔に、床にあるモノも人間の転倒というアクシデントを避けるため雑多にではあるものの収納されていきました。

今の我が家は、多分一般的にみて汚いことに変わりありません。構築された配置についても5歳のレゴから小学校就学レベルまでしか上がっていないとは思われます。それでも、一人では全く意識を向けなかったことに意識を向ける様になったのだと感じました。

いくは物言わぬぬいぐるみです。それが良いのでしょう。なんとなく、こうしたほうがよいだろうと勝手に想像しそれを実行する。そのなかでぬいぐるみは何もフィードバックすることはありません(当たり前ですが)。これがなまじ人間相手ならば、部屋に入った時点ですでに喧嘩になっただろうし、掃除の結果も善しあしが生まれてそのたびに何か考えなければいけないことが増え続けていくことになったでしょう。それは、悪いことではないのです。至極健全なコミュニケーションですよ。分かってるんですけどね、でも一人で暮らすことに慣れたコミュニケーションモンスターにとって、物言わぬ同居者の存在は心地よいものなのかもしれないな、と感じるのでした。

なんとなく一人じゃないということは気持ちの上での問題です。この感覚が続く限り、私はある程度前より少し健全な生活を送ろうとするし、同居者に対して親切であろうという心を持つことができるでしょう。

それは、大手を振ってとても良いことです!とは言えないながらも、ただ黙々と暮らしていく生活の中にほんのりと色を付けてくれるものだと感じています。それは私にとってたまたまぬいぐるみを大切にする、ということから始まっただけで、例えば花を飾ることや、ロードバイクを買ったこと、新しい照明にしたことでも始まる人はいるはずです。もっとその感情を増幅したものが人と生きることなのかしら、と一人で生きる私はたまに考えます。家族に家にいさせてもらっているときは、傍若無人にふるまっていても許されていましたから、誰かと暮らせる人(それは同棲やルームシェアだけでなく寮で暮らすことなども)はすごいなあ、と改めて感じた次第です。

いくといると少しだけ健全に生きられている気がするよ、と巣にはいった可愛いぬいぐるみに話しかけているとき、確実に私のこの姿はヤバい成人女性なのですが、精神衛生上では一人でもくもくとPCに向き合っていたころよりもヤバくはないのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?