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【短編小説】林檎が実る頃【秋が好き】

   林檎が実る頃

 秋が好きです。もう夏の暑さに怯えなくていいんだなと思えるので。敬二さんがそう仰ったときに、わたしはおもわず「でも、すぐに冬がやってきます」と言ってしまいました。敬二さんは眉毛をハの字にして「そうですね。寒いのはお嫌いですか?」と笑っていました。わたしは余計なことを言ってしまった恥ずかしさから、頬を紅くして小さく頷きました。敬二さんはわたしに外套を羽織らせてくれました。わたしの顔はもう真っ赤っかです。熟れた林檎だってここまで見事な紅色にはならないでしょう。
 わたしは外套を落とさないようにしっかり掴みました。煙草の臭いがします。敬二さんはわたしの前では煙草を吸いませんでした。元々お好きではないのだそうです。仕事の付き合いで嗜んでいるだけだという彼の言葉には説得力がありました。あの、毒を濃縮したかのような厭な臭いの中に、敬二さん本人の匂いがしたものですから。でも、こんなこととても敬二さん本人には言えません。鼻をすんすん動かして男の匂いを感じるなんて、ふしだらな女だと思われてしまったら死んでしまいます。
「寒いでしょう、珈琲でもどうですか」
 私は敬二さんの申し出をやんわり断ろうとしましたが、彼の鼻先がまっ赤になってるのを見て、そんなことは言えなくなってしまいました。それもそのはずです、敬二さんの上着はわたしの肩にかかっていますので、敬二さんはとても寒かったに決まっています。まだ秋も半ばの頃ではありましたが、その日は酷く冷えていました。だからわたしもいつも通りのお洋服で外に出てしまい、敬二さんから外套を拝借する羽目になったのです。
 わたしたちは近くの喫茶店で珈琲を飲みました。もう秋も終わりなのでしょうか。私たちが席に着いたとき、外では霙が降っていました。
「喫茶店に入って正解でしたね」
 敬二さんが眉毛をハの字にして笑います。わたしも思わず笑ってしまいました。運がよかったな、と思ってしまったものですから。
 煙草の臭いと珈琲の臭いが混ざった独特の感覚は、今もわたしの心に深く刻まれています。



 シロクマ文芸部「秋が好き」より

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)