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【短編小説】八月三十二日

 八月三十二日、僕は死ぬためにN岬に向かっていた。
 たいていの人たちは「どうして」だの「まだ若いのに」だの好き勝手に僕を止めようとするけれど、理由を言っても理解してもらえないなら無駄な労力を割く意味がない。落書きされた教科書を親に見せるくらいなら、崖から飛び降りる方がいいと思い立ったのは自然なことだと思う。僕は念入りに計画を練った。兄に「大丈夫か、お前」と言われたけれど、何事もなかった風にして返事をした。夏休みの宿題をやる意味を見出せなかったけれど、親に怪しまれないようにするために全部終わらせておいた。あとはこっそりとN岬に行くだけだ。幸い、僕の家からN岬までは徒歩圏内。夜中にこっそり抜け出してもバレない。
 N岬は荒々しい海の絶景を売りにしている観光名所だが、同時に自殺の名所としてオカルト雑誌を賑わせていた。飛び降り自殺防止に高い柵を設置する話も出たらしいが、景観を損なうとしてそのままになっている。結局、「考えよう いのちのたいせつさ」などという自殺防止啓発用のフレーズが書かれた看板が雑に置かれることになった。手垢のついたありきたりのフレーズで自殺を思いとどまる人がいるのだろうか。僕にはわからない。仮にそんなものを置いたところで、ご丁寧に県外からやってきた自殺志望者は旅費のことを考えて結局飛び降りてしまうのだが。
 僕は生ぬるい夜風を浴びながら、N岬に続く階段を歩いた。周囲に電灯はないので、僕は懐中電灯をもって道を歩いた。妙に息が切れている。僕はドキドキしていた。もう学校に行かずに済むんだと思うとうれしくて仕方がなかった。
 ふと目をやると、ぽつぽつと明かりが見える。それはスマートフォンだったり懐中電灯だったり、ともかく、こんな夜中にN岬に行くということはやることは一つである。僕は驚いた。僕のように八月三十二日に死のうとする人たちがこんなにいることに驚いた。ほとんどが子供だった。僕より小さい子もいれば、僕と同じくらいの年齢の子、僕より年上の人もいた。どうやら、死にたいと思っているのは僕だけではないらしい。
 夏の蛾がコンビニの明かりに吸い寄せられるようにして、僕たちはN岬に集まった。みんな初対面だ。初めまして、なんて挨拶が聞こえる。僕は耳をそばだてた。
「わ、私N中の三年生」
「僕はS中の二年生」
「××のインスタ見た? かわいいよね」
「このネイル、マネしたいな」
 僕は一瞬、道を間違えたかと思った。だが近くの看板を照らすと例の「考えよう いのちのたいせつさ」という文字が見えて、近くの石碑には「N岬」の文字が刻まれている。僕はそわそわした。N岬が自殺の名所というのは嘘で、本当はこうして八月三十二日に各地の学生たちが交流会をしているのではないかと思った。
「学校が嫌になっちゃって」
「エンコーしてるって噂流されたんだ」
「俺はクラスの奴らの前で×××を強要されたり、靴に画びょうを入れられたり……」
 でも、結局ここに集った人たちが、そういった経験をしているのは間違いないようだった。僕はじっとしていた。
「ねぇ。ほんと嫌になっちゃう」
「親に相談できなくて」
「どうしてこんなことになったんだろう」
「俺は、いじめられてた奴をかばったんだよな。そこから……」
 僕はなんだか泣けてきた。この世に僕のような、いや、下手したら僕よりもひどい仕打ちを受けている人たちがこんなにいるとは思わなかった。僕は最悪な同情に涙を流してしまった。一人の女の子が僕に気が付いて、そっとハンカチを持たせてくれた。
「大丈夫?」
 その声に他の子たちも僕に気が付いたらしい。
「つらかったよな」
「分かるよ」
「泣かないで」
 誰かが頭を撫でてきた。誰かが同じように泣いていた。僕はしばらく泣いていたけれど、ハンカチを使うのはためらっていた。
 ……なんだか、死ななくてもいいんじゃないのかとさえ思えてきた。僕はこの時、僕は一人じゃないんだと錯覚した。僕は顔を上げた。涙と鼻水でぐじゃぐじゃの顔だったけれど、誰も僕を笑わなかった。誰かの懐中電灯で文字が照らされる。「考えよう いのちのたいせつさ」という無機質な決まり文句が、この時初めて僕のなかで明確な輝きを持っていた。
「ねぇ」
 僕はめちゃくちゃに潤んだ声で問いかけた。
「ぼくだぢ、どもだぢになれるがなぁ」
 一年三組の連中なら、僕を嘲笑しただろう。だけどここに集まった子たちはそうではなかった。
「いいよ」
「友達になろうよ」
「名前教えて」
 僕はまた泣いた。誰かが「泣きすぎだよ」と言って笑ったので、僕もつられて笑ってしまった。
「あ、笑った」
「その方がいいよ」
 ……光につられて、虫が集まってきた。
「それじゃあ、行こうか」
 僕はほっとして、頷いた。みんなと一緒なら、あのゴミみたいな学校生活も乗り越えられるような気がした。だけどそれは僕だけだった。僕だけがそう思っていたのだ。
 僕の初めての友達は、そうするのが自然だと言わんばかりにN岬から飛び降りた。一人目が飛び込んでしまえばあとはなし崩し。明かりを持ちながら飛び降りる子もいた。蛍が飛んでいるようにも見えた。
 僕は、友達が、次々と死んでいくのをじっと見ていた。僕にハンカチを貸してくれた子もあっという間に飛び降りてしまった。
 波のはざまに揺れていた電灯が、ふっと消えていく。遠くからサイレンの音がした。僕は飛び込めなかった。ただただ、N岬の先端でへたりこんでいた。車の音がする。強い光に目がくらむ。照らされた海に人の影はなく、岬の周りに人はいない。
 ……みんな飛び込んだのだ。いのちのたいせつさを考えることもなく、本来の目的を果たして。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)