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【超短編小説】わたしを止めて


 紫陽花を手折った。家に飾ろうと思ったのだ。すると近所のおばさんが怖い顔をしてやってきて、私のことを怒鳴りつけた。
 紫陽花は私の家の庭にあって、それは敷地の外からもよく見える場所にあった。「今年も紫陽花がきれいに咲きました」という挨拶はこの時期の母にとっての定例の挨拶でもある。私はそのうちの一輪を飾ろうと手折っただけだ。怒鳴られる言われはないわけだ。
 しかし当時の私はまだか弱い子供で、いきなり怒鳴られた理由も分からず、目を吊り上げる大人になんと言えばよいのかが分からなかった。萎縮した人間からごめんなさいの一言は出てこない。例え本人が本当に申し訳なく思っていたとしても。
 そうこうしているうちにおばさんはヒートアップ。私は震える足でおばさんの怒声を聞いていた。いくら外とはいえど、彼女の甲高い、ガラスを引っ掻いた音のような声は大変良く響いたのでいよいよ母が異変に気がついた。母はまるで獰猛な肉食獣のような顔でこちらにすっ飛んできて、私とおばさんの間に入った。
 しかし母は怒鳴らなかった。平静を装うにはやや無理があると思ってしまうくらいの低い声で「うちの子が、何か?」と言いよった。私にはそれが威嚇に見えた。おばさんは少し怯んだように見えたが、子どもの手前でプライドが勝ったらしい。母は私に家に戻るよう言った。私は手折った紫陽花を手に駆け出した。先程まで動けなかったとは思えない勢いで。
 罵声が飛ぶのが聞こえた。私は紫陽花を生けながら(今思い返しても、ここの私の行動はちょっとトンチンカンな感じがする)窓を覗いて様子を見ていた。母は罵声にじっと堪えて……というよりは、勝手に吠えさせているように見えた。来年から紫陽花を手折るのはやめようと思ったが、間もなくしておばさんは施設に行ってしまった。若年性アルツハイマーだったらしい。
 生けられた紫陽花をみると、今でもあのおばさんのことを思い出す。ああはなりたくないよね、と笑う私を冷静に見つめるのは、いつだって母だった。



 シロクマ文芸部
「紫陽花を」より

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)