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【短編小説】そうなってしまえばいい

 Sくんが自殺したと聞いたとき、私とE子は本当に驚いた。しかしその原因がSくんの姉であり私たちのクラスメイトだったNだと聞いたときには特に驚かなかった。潔癖症で完璧主義のNは周囲にもそれを強いたので、クラスからは浮いたし当然結婚もできてない。結婚の価値観をどうこう論じる気はないとはいえ、彼女の場合はどう考えても貰い手もいないだろうと思う。あれだけ我が強い女を嫁にするとなれば、どんな男がふさわしいのか。私にはそれが分からないだけの話だとは思うけれども。
 家が近所だったから、という理由で事あるごとに十把一絡げに扱われた私たちは常にNのナイフに晒されていた。消しゴムのカスをさっと掃除できないだけでイラつく彼女の地雷を全て把握するのは難しく、私たちは常に震えながら唇を開いていた。
 だから、彼女が久しぶりに会いたいと言いだしたとき、私はそれに応えるつもりはなかった。高校を卒業し、逃げるようにして県外の大学へ進学したE子と私はやっとNとの接点をなくすことができたのだ。今更すり寄られたところで……と既読スルーを決めようと思っていたのに、E子が勝手に予定を組んでいたので私は気が狂いそうになった。いや狂った。そうでなければ私は今頃カップラーメンを食べている。
「本気?」
 スマホをスピーカーにしながら私は問いかけた。そしてゴミ箱にぶち込まれたカップラーメンを見て途方に暮れた。
「本気だよー。とにかくよろしくね、絶対来てね」
 E子の口調は本気だった。私はどうしようかな、と思った。
「流石のNも弟が死んだらしおらしくなってるかな」
 Nが酷く溺愛していた弟のSくんを、私たちもよく知っている。あだ名は「はのじ」だった。笑うと眉毛が完璧にカタカナの「ハ」の字になるから「はのじ」。満面の笑みの遺影も見事なハの字を見せていたので、私は本当に悲しくなった。
 ……結局、私はE子と一緒にNに会った。
 最近駅前にオープンした、全国チェーン店の喫茶店が待ち合わせ場所だった。私は何も飲みたくなかったが、何の注文もナシで席に居座るほど図々しくもない。観念して注文したのは紅茶だ。コーヒーを売りにしているというのに紅茶。
 あのNがあんなにしおらしくなっているのを私は初めて見た。自分の言葉が最愛の弟を追い詰めたとなれば、流石のNでもああなるらしい。Nは肩を落とし、まるでこの世の終わりのように取り繕っていたものの、「この人、弟さん亡くしたんですよ」と他人に言ったところで信じて貰えなさそうな雰囲気を纏っていた。E子は慈愛の微笑みを携えながらNをじっと見つめていた。よく見るとNが握っているハンカチにはE子の名前が刺繍されていた。
「で、話って何?」
 私は冷たく言い放った。
「あなたたちにも、悪いことしたなぁ……って」
 Nは涙一つこぼさず言ってのけた。私は心底不愉快になった。五百円近くした紅茶もただの色水にしか感じない。これなら家で水彩絵の具を溶かした水を飲む方が遙かに美味さを感じるだろう。
「ふーん」
 私は鼻穴から息をこぼしてなんとか相づちを打つのがやっとであった。空いている席を探す女子二人組がはちみつラテを片手にウロウロしているのを見て、私はNとE子を押しのけて「ここ空きます!」って言いだしそうになったが、こちらもすんでの所で堪えた。
「自分が酷いことをしていたって自覚が芽生えたんだね」
 E子が感極まった風にしてそんなことを言い出したので、私は彼女の顔にホットティーをぶちまけたくなったが、こちらも耐えた。
「Sの事が大事だったから、厳しく接しないといけないなって思ってたのに、死んじゃうなんて思わなかった」
 ここでようやっとNの目が潤んできた。結局この女はSを失ったのが悲しいだけであって、私たちに謝罪する気なんてないのだろう。
「私、立ち直れないかもしれない」
 一生倒れてろ、と思った。どうせならそのままSくんに会いに行ってしまえばいい、とも思った。
 そんな残酷なことを考えている私の隣で、天使の包容力を見せていたのがE子だった。彼女は「最愛の弟を失った」Nによりそい、手を握り、傾聴し、時にアドバイスを投げる有様である。私は一向に減る気配のないE子のコーヒーをぼんやり見つめながら、私はどうしてここに居なければならないのだろう、ということを考えていた。
「大丈夫だよ、Nは立ち直れるよ」
 心洗われる激励が聞こえる。E子の赤く塗られた爪に、歪んだ私の顔が映っている。
 だから私は、すぐに動くことができなかった。E子の口から出る言葉を予期することができなかった。
「『あなたがそんな人だとは思いませんでした』って言ってポイと捨てるの得意でしょ? Sくんにも同じようにすればいいんだよ」
 私は動けなくなった。眼球をこれでもかと動かして、Nの様子を窺うのがやっとであった。Nは呆然とE子を見つめている。塞がったはずの傷に両手の指をかけられているときの表情だ。そして、
「かつて私たちにしたようにして」
 ――E子は傷をこじ開けた。
 私はこの時、E子の恨みの気配を見た。それは酷く濁った赤いフラッシュで、網膜の奥に嫌な貼りつき方をする類の刺激だった。私はE子の顔を見ることができない。今彼女の顔を見たら、ダメだ。当事者でなくとも、狂ってしまう。
 ダストボックスの近くで誰かがアイスコーヒーを落とした。私はきっとその人がE子の顔を見たのだと思った。何の関係もない第三者のとばっちりにしては相当な被害であり、氷が自由に床を滑った。私は、まるで私が他人のアイスコーヒーをこぼした真犯人であるかのようにして息をひそめた。誰のせいだ、と糾弾されたら私は悲鳴を上げながら自首していたかもしれない。
「大丈夫ですか?」
 甘い声の女がそう言って、近くにあった紙ナプキンを鷲づかみにする音がした。店員が数人すっ飛んできて、床の掃除を始めた。
「Nになら、上手に捨てられるよ。今まではできていたことだもん。頑張ってね」
 E子がそう言って席を立ったので、私も席を立った。ここで立ち去らなければ二度と店から出られない。この後Nがどうなろうとも私は店を出なければならなかった。
 私とE子は雨に濡れた街を歩いた。空は明るくなっていたので晴れの兆しが見えている。私は憂鬱だった。土砂降りになってしまえと思った。でも、仮に今土砂降りがやってきたとしても、人々はみんな傘を持ち歩いているのだ。何の意味もないのだ。
「折角だし、どこか寄ろうか?」
 E子はニコニコと人のよい笑顔で私に話しかけてきた。彼女の爪が赤いのを見て私は悲鳴を上げそうになったのだが、E子は小悪魔のような笑顔のままだった。小悪魔と言っても、漫画やアニメで見るような愛らしい類のものではない。いつかサタンに化けそうな邪悪の萌芽が彼女の双眸で鋭く尖っているのだ。
 私はその後、E子とも疎遠になった。軽い人間不信を発症した私を、おそらくE子は本心から心配してくれたのだと思う。でも私は、Nの傷をこじ開けたときのE子の顔が忘れられない。ああ、人は殺意を覚えるとああいう顔をするのだなと思った。そして心のどこかで、どうにもならない悪意が囁く。
「お前もE子と同じようにして、Nの傷を抉れば良かったのに」
 それを聞く度に、私は声の主を「バカ」だと思う。
 ……別に、私はNの不幸を望んでいない。死ぬより苦しい目に遭えばいいとも思わない。ただ、私の受けた痛みが弱まるくらいの、些細な不幸に傷ついてくれればいいとは思っていた。私やE子じゃない、もっと替えの効かない人を、不本意ながら傷つけて、後悔してしまえばいいと願ったことはある。
 その結果、Sくんは死んだのだ。

 ああ、この際みんな死んでしまえばいい。
 私もE子もNも。
 そうすれば丁度いい。そうなってしまえばいい。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)