桜前線を追って

 ある秋の午後。メール専用機にしているPCに向かっていたKさんが『コレなんのことかわかる?』と画面を指さしながら話しかけて来た。

画面を覗くと見覚えの無いアドレスから届いた1通のメールが表示されている。件名にRe:が付いているので返信メールのようだ。ざっと読むと無沙汰を詫びるもので怪我について心配していることも書かれている。文面からすると女性から男性に宛てたものの様で、とても上品な文章が綴られていた。

社内で誰か怪我をしている人は居ないし、そもそも会社に届くビジネスメールとは思えない柔らかいメールだ。会社の代表メールアドレス宛になっているが誰に送ったのか宛名も無い。他人宛てのメールを読むのは気が引けたのでさっきはざっと目を通した程度だったが、内容から誰に送ったのかわかるのではないかときちんと読みなおしてみた。

 半年以上も連絡をとらず失礼をして申し訳ない。お怪我をしたそうだがもう治ったのか。もし治っていないのなら不自由していることは無いか。苛酷な仕事をしていることが心配だ。もし良かったら近いうちに寄って欲しい。そんな内容だった。メールの最後までスクロールしてみたら、その下にもう1通のメールが引用された形で続いていた。どうやらRe:の発信者は受け取ったメールへの返信に、相手の文章を引用する設定にしているようだ。返信ボタンを押すとデフォルト設定でそうなっているメーラーは多い。

 『半年以上もご連絡をせず、誠に申し訳なく思っています。実はつい先日まで入院しておりました』。そんな内容で始まる引用された文章はとても興味深いものだった。さっきまで腕を組んで不機嫌そうに眺めていたKさんも、今は興味ありそうに目をまんまるにして読んでいる。

『3月に九州から桜前線を追いながら撮影の旅を続け、5月に知床半島でシーズン最後の撮影に挑みました。絶景の崖の上から日本一のカットを収め、思わずガッツポーズをとりましたがバランスを崩して崖から落ちてしまい、大怪我を負いました。治療とリハビリに時間がかかり、その間ご連絡を取ることが出来ませんでした』。こんな内容がもうちょっと劇的に書かれていて、文末にSさんの名前が入っている。どうやらSさん宛てのメールだったようだ。

 Kさんがボソッと『Sさんずっと居たよね?』と。もちろんSさんが入院していたなんて初耳だ。春からこの秋まで数えきれないほど会社にも来ている。たぶん女性の気を惹くための物語なんだろうけど、なんともタチの悪い内容だ。

それにしてもなんでこの返信メールが会社のアドレス宛に来ているんだろう?とKさんが不思議がる。本来ならSさんのアドレス宛になるはずなのになんで?と問われたが、実はその理由を私は知っている。

 まず最初にSさんはパソコンの操作ができない。パンパンに膨らんだTUMIのバッグにノートPCらしき物が入っているが、あれはそう見えるただの書類ケースだ。そしてたまに使うメールはガラケーでやりとりしている。1か月ほど前、ビジネスのメールにガラケーのメール、今でいうキャリアメールのアドレスでは体裁が悪いから何とかならないかと相談され、パソコンを覚えてくれれば話は簡単なのだけどそのつもりはないと言うので色々調べたら、携帯のメールでも発信アドレス表示を変えられる事が分かった。そして発信元表示を会社の代表アドレスに変えるよう指示され、返信先も同じ様に設定した。以前からSさんとメールをやりとりしていたお客さんや会社のスタッフはそのままキャリア宛てのアドレスに送っていたので誰も気が付かなかった様だが、当のSさんも忘れていたみたいだ。


 このメールをただSさんに転送するのはもったいないという点でKさんと意見が一致した。そこでいつもエラそうにしていて無理難題を押し付けてくるSさんにひと泡吹かせてやろうと作戦をたてた。

『こんなメールが会社に届きましたが誰宛かわかりません。心当たりのある人はいませんか?』と前置してRe:メールをスタッフ全員に転送する。もちろん大元の引用文はカットしておく。もっといろいろ仕込みたかったが、Kさん監修によりバッサリ切られてこんなシンプルな作戦に落ち着き、そして実行した。

メールを送信して1時間。顔を真っ赤にしたSさんが事務所に飛び込む様に現れ『これどーゆう事?何でこれが来てんの?ボク知らない!ボクじゃない!』とひとしきり騒いでまた飛び出すように出ていった。