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恋愛のかたち

初noteがこの話題になるのはちょっと気恥ずかしい抵抗があるのだけれど、それでも自分の中で今の時点で整理しておきたくて。書きます。

『デミロマンティック』なんて言葉がいまTwitterで話題になってる。私もこれだ!っていう方向が多いのかな。とはいえこの話題がこんなにもある程度の新鮮味を持って広がることにすこし意外性を抱いていて。なぜかというと、私にとって身近な話題だったから。アロマンティック、リスロマンティック、ヘテロロマンティック……、他にもホモ、ガイノ、アンドロ、クォイ、バイ、パン。恋愛感情の方向性や含まれる範囲っていうことについて考える機会がたくさんあった。これに自分を当てはめることでホッとできる瞬間もたくさんあって。私にとってこれを考えることが当たり前だったのはこの世の中の大多数と同じように「恋愛」というもののウエイトが大きいから。今回はそこも含めてもう一度考えたいなーと思う。

あたしのなかで恋愛は一番大きな影響力を持ってる。朝目が覚めてふとんから出る時、メイクをする時、駅までの道、授業態度、買い物をえらぶ基準、バイトの声出し、帰りの夕焼け、そのひとつひとつの原動力として絶対的な力を持っている。なにより「好きな人」がいなければスっと気持ちよく寝付けることすらできない。夢では会えるかも!みたいな希望がないと睡眠に時間を当てられない。恋愛至上主義、というやつ。昔から恋愛小説やらドラマ漫画に日常を左右されてきた人間なので、学校までの道で少なくとも3回は好きな人について考える。まさに今これを打ちながらも頭の中では大淵先生が喋っている。やっぱり恋愛は情緒もやる気も手っ取り早く捕まえられるし、すべての行動の終着点がそこに存在する。だから恋がなにか分からないみたいな話にもじつは共感はできていないの。私は常にだれかしらに恋をしているし、好きな人をつくることに難しさを感じたことはないから当たり前にいつも存在している。ためしに「今の好きな人はだれ?」と軽く聞いてみて欲しい。軽く3人くらい答えられる。

今回また問題になっているのが恋愛至上主義だと思う。すべての人があたりまえに恋愛対象をつくり好意を持っているという思い込み。たしかに久しぶりに会えば「恋人できたー?」と聞いたり「あの人とどうなった?」とか「彼氏ほしいー」とか、大げさではなく毎回触れられる話題ではあるし、中学生の修学旅行からはじまり[好きな人がいる]ということは1種の友人関係構築のカードのようになっていたように感じる。簡単に言えばとびぬけて一番盛り上がる。…で、それはあまりにも乱雑だったということだよね。修学旅行の夜にみんながひとりずつ好きな人を発表するなかで申し訳なさそうに本当にいないんだよねって言ってたあの子とか、好きってなにかまだ理解出来てないけど彼氏を作ってみたあいつとか、話の盛り上がりに隠されて可視化されていない生きづらさが確実に存在していた。デミロマンティックを筆頭に、恋愛感情を抱かない人、対象が狭い人、片思いでいたい人。それぞれセクシュアルと同じように尊重されるべきものが私もあまり重く受け止められていなかったなと今回改めて感じている。

デミロマンティックは周知のように、「信頼関係が出来上がっている人のみが恋愛対象となる指向」の名称。恋愛というステージにあがれる人間が限られてくるっていう話で、デミロマンティックにとってはそれが関係の深さだ。これと同じように「男性のみ」「女性のみ」「両性」とかよく聞く恋愛指向にも分かれていて、さらに『性的指向』に切り替えるとそれはセクシュアルの話になる。

ロマンティック・セクシュアルについてはもうこの5、6年延々と考えていて(恋愛至上主義なので笑)かなり煮詰まって居るんだけれど、今の時点で思っていることだけ吐き出しておこうと思う。まず、事実として私は女性も男性も恋愛対象として見ることができる。初恋は同い年の男の子で、高校時代は塾が一緒の女の子、今は54歳のハゲてる大学教授だ。ステータスはあまりにもバラバラ。簡単に好きになるとはいえ、ベッドでのたうち回ったり朝ごはん食べながら思い出したりするレベルの好きな人は右手で数え切れるんじゃないかと思う。基本的には男性が多い。もうこれは傾向の話で、どういう人間に魅力を感じるかとかそういう感触になってくる。AVの視聴もちんこに感情移入するときもあればまんこに感情移入することもある。どちらにせよ私にとって恋愛対象たりえるのは「かっこよさ」でその基準はだいたいが「知性、要領」の2つに限定されるように思う。これに付随して「言葉、思い切り」かな。だから男性とか女性っていう区別はあまり重要視されてない。あ順番がみんなとちょっと違うのかな?くらいの感覚。強い女性、みたいなものにも小さな頃から憧れていたし。SEXとかが絡んでくるとまた複雑になってしまうから今回は恋愛の話ね。この人いいな、と思ったのを皮切りにキャンプファイヤーのごとく1人で薪と松ぼっくりを大量にくべて燃え上がり、山火事を起こす。こんなのが私の恋愛のかたち。

デミロマンティックついでに、信頼関係とかの面でいくと、仲良くなった人を好きになったことはない。まずそもそも恋愛/友達でこちらの嗅覚は分かれているので、友人は友人だし、魅力的な部分を見つけてもそれは「尊敬する友人」であるだけなので全く動くことはない。大切にしよう〜と思う。だからマブダチ同士がくっつくとびっくりする。こうやってしっかり考えるようになるまでは(お前ら…仲良いと思ってたのは私だけだったのか…)とかって勝手に落ち込んだりとかしてた。デミの逆なのだと思う。好きな人のことを知りたいな、と考える方が馴染み深いかも。

世の中にはこのほかにも複数のひとに恋愛感情を抱く「ポリアモリー」とか、友情との境目がわからない「クォイロマンティック」とかそれはそれはもうたくさんの定義が存在している。私自身もたくさん考える機会があって、でも結局よく分からないから一旦、パンセクシュアルだねっていう結末に落ち着いた。人類愛の聞き触りの良さがすきだし、理解しやすそうだから。それこそ就活の面接でも第一志望の会社には伝えたりもしてみた。あんまり納得いってないからまだ友達にも家族にも誰にも言ったことはないけど。高校生の時は恋バナとして親友2人くらいに話したけれど、まあ時期的に同性愛はみんな通る道よねくらいに思われている気がする。これを読んでるあなたも、優先順位の話だと分かってくれたかな?と思うから軽く受け流してね。

さらに恋愛/性的指向についてみんなが当たり前に考えてるものだって思ってたのは傲慢だったな、とも思った。根底に恋愛至上主義があるものね。私にとって「好きな人」=「尊敬できる/こうありたい人」で、将来なりたい自分とか現在の行動にいつも密接につながってるから息を吸うように恋愛まわりを考えることになる。これだって誰かからみたら意外な話なのでしょう。自分もそうだから、みんなもそうだろう、そうあるべきだという考え方の弊害が、こうやってLGBT以外にも語られることになったのが個人的に新鮮だった。もっと同じ温度で語られてもいいんじゃないかと思う。こう、自分の思考にないものに出くわすとどうしても気合いをいれてしまうけれど、お互い不利益にならないように尊重してこうというだけの話なのでただ許容態度を持っていれば良い。私からしたら、ゲイとかレズとかデミロマンティックとかの括りを作って話すよりも、どんな自分でいたくてどんな基準で人を好きになってどんな相手に興奮するかとか土台の話がしたいから、差別や制度格差以外の分野での会話ではこういう括りは意味が無いかな、と思う。もちろんデミロマンティックって言葉を手に入れられた人達は「自分だけじゃないんだ」ってちょっと安心してるといいな、とも思うけど。うまく、ゆるやかにセクシャリティと付き合っていくことが必要だと感じた。恋愛のかたちは自分の思っているよりも人それぞれで、「彼氏」を「恋人」に言い換えるとか、「相手が自分から話すまで恋愛の話をしない」とか、少しの尊重がマイノリティの生きやすい社会を作るのだと思うし、私たちの世代からそう変えていきたいと強く思う。


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