おくのほそ道

煙草の吸殻が落ちている。交通標識がそっぽを向いて立っていた。その側に、一階にミスド、ヘアサロン、保険相談窓口、ダンス教室のビルが建っている。その足元を通りゆく人々。ほとんど草のない植木の端に腰掛け、雨のような雑踏を見ていた。人、自転車、人、傘、車、車。

細い路地が視界の端に映っている。途中までしか見えない建物と建物の間は、道というより隙間だ。パイプが壁を這い、室外機があり、排気口があり、ゴミ箱があり、吸い殻が落ち、液体の跡がアスファルトに残る。落書き。虫。細かいゴミ。白い何かが転がっていたと思ったら、ただのケセランパサランだった。

細い道には誰も折れて行かない。隙間は、建物が呼吸するために、排泄するためにある内臓や肛門、口だった。建物は内側と表面が生物とは逆だ。建物と建物の隙間こそが内臓や筋肉だった。建物の入り口から入ったところで、ようやく外見を見ることが叶う。さっきから目の前をすぎる人々は、建物の血管の中を消化管の中を歩いているということ。流れ、流れ。自分とそれらとの間にガラスがあり、水槽の外から見ている気がした。見られているのはどちらか分からないが。ポケットから取り出した煙草に火をつけて、口から煙を吐き出した。代わりに朝の冷たい空気が肺に入ってきた。

目を疑った。雑踏から外れて、女が細道に折れていったのが見えた。慌ててそれを逃さないように急いで煙草の火を消して、雑踏の流れの切れ目を探して横切り、追いかけた。

道は細くなっていく。薄暗い路地には朝日がまだ入らない。湿った空気が、夜の冷たさが残っている。水を吸い込むように、肺が重く動く。全身が暑く、苦しい。興奮を出来るだけ抑えて、ゆっくりと女の後をつける。女は足まである紺のオーバーコートにキャメルのマフラーを首に埋めている。背は低い。短い髪。この女を知っている。この女だ。しかし、女は随分ゆっくり歩いていた。おかしい気がした。自分だけが、苦しい。心臓が脈打っている。脈がなるたびに身体が鈍くなり、力が入る。うっすらと汗が滲んだ。自然と口が開くと、凍てついた空気がさらに肺を刺した。痛むが、息を殺し足音を立てないように、歩調を合わせて後ろをつけた。女は建物のハゲた外壁を、カビの生えた配管の下を、かくれている誰かを見つけるように歩きながら覗き込んでいた。何かがあるのかもしれない。さっきのケセランパサランを探しているのかもしれない。もちろん「トリ」を探しているのかもしれない。女がもしトリを追いかけていてここに行き着いたとしたら。それに気づいたとき、ポケットのケータイが一瞬震えた。全身が震えた。急いで電話を取ったときにはもう遅かった。女が振り返って、屈託のない笑顔をしている。

暖かい感覚。足元が、硬いアスファルトから、柔い絨毯の毛になっていた。毛が植物のように蔓を伸ばし、脚が絡め取られる。体重が下に沈み、足が挙げられなくなった。膝が折れ、身体から力が抜けていく。腕から力が抜けたとき、女が目の前にいた。両手を突き出している。口が動き、「はじまりがあれば、終わりも」と言った、気がした。身体が解放される気がした。首の硬さ、腕の関節、肋骨。性器のもどかしさ。目玉の渇き。喉の痰。赤く分厚い布が蝶の羽ばたきのように、波うつ。うつ。僕は鬱だった。何もがどうでもいい。美しいものも、何とも思わなくなった。目を引くような光りも、暑さも、興奮も、力も、金も、どうでも良かった。ただ、ナカで眠りたかった。心地よさだけが欲しかった。赤い布は僕の背中に回り込み、それは翼になり、赤いトリに変わった。羽が胴を包む。ナカに包まれ、ナカが溢れていく。丸い泡がが体内から溢れていくのを感じた。トリは女に変わり、トリに戻った。トリは大きくなる。見上げても見えない。身体が沈み、巻き込まれ、強い鼓動が打ちつける。暖かさは暑さに変わった。喉が焼ける。痛さに変わる。全てが痛く暑く冷たく憎い。

「せまい」

腕を突かれて目が覚めると、女が開いていない目で口を尖らせていた。顔が誰のか分かると、視界がボヤけた。涙が滴る前に身体に抱きつき、体温を確かめた。目の前に、よく知った壁紙があった。白い。どうしたんだよ、と女は言った。長い髪の毛を触っていると落ち着いた。煙草の匂いがした。

「俺さ、煙草やめるからさ、」

何言ってんの、と彼女は笑った。顔洗ってきな、と言われて廊下に向かう。廊下は短い割に広かった。立ち止まっていると彼女が後ろから抱きついた。

「終わらないよ」と彼女が囁いた気がした。

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