二つの

 からっ、と音がして机の下を覗くと、ボールペンの蓋が落ちて、くるくると回っていた。その回転が終わるまで眺めていた。回転が止まる時、からから、という音の分だけ静けさが再びやってきて、何故かその命が終わったような気がした。昨日帰りに見た、腹をつぶされ、死ぬまであがいていた蟻を思い出した。
 ふと顔を上げて、教室を見渡したが、先生も、クラスの誰も私を見てはいなかった。窓に目をやると、鳥が一羽通り過ぎていった。
 フタを拾おうと、机の下に頭を入れた。フタは近くでよく見ると、私のものだった。筆箱に入っているはずのボールペンの。装飾のない筆箱に手を突っ込むと、確かにボールペンがあって、蓋はついていなかった。ペン先が裸だったせいで、筆箱から手を抜くと、手首にボールペンの筆跡がついていた。手首に物が触れる、という感触、手を触られたり、身体の他のところを触られるのとは別の、独特な感じがした。くすぐったくはない。痛くはない。感覚は鈍く、そこに複雑な構造の物が当たったとしても、細部はちょっとわからないだろう。ただ、何かの存在はあることが分かるんじゃないかというくらいだった。筆箱の中のボールペンを持ち直し、手首についた線を延長し、一本の線を引くと、なぜだか安心した。線をよく見ていると、ポケットティッシュの口のようで、線の周りを引っ張ると、開くような気がした。ぐっと力を入れてみたが、やっぱり開かなかったから、裸のボールペンの先をフタに収めた。


 4:17。夜明けが近い。私の目は眠さというより、疲れによって目蓋を重くしていた。どうせ目を瞑っても眠れはしないし、頭の冴えた状態で目を閉じると、碌なことにならないのは、日頃の経験からよく知っていることだった。だから眠るに眠れなかった。明日はまた学校だった。
 無理矢理ベッドに横たわる。ディスプレイの白い残像が瞼の裏に残っている。目蓋はスクリーンのように、さっきまで見ていたポルノサイトの映像が断片的に流れた。女が、男が裸になり、肌を、その下の肉をぶつけ合っている。何度も同じように動き、繰り返している。それは音楽を奏でているように見えた。身体をぶつけ合うことで、音が鳴り、声が出る。それは歌ではなく、楽器の音のようだった。人に聞かせる美しい歌ではなく、自分が叩いて気持ちよくなる音、あるいは踊りのような。本人たちの自分勝手な快楽は、他人にとって不快でもあった。繰り返し、繰り返し行われる運動。男が女の身体にぶつかる様子に見覚えがあって、街灯に向かって飛んでいく虫だ、と思った。果てに何があるのか、数十分繰り返されると、やがて力尽き、ベッドに倒れ込んだ。最後は精液が女の顔に出されたりして終わる。わかりやすい終わりだった。音楽にしてもダンスにしてもつまらない、と思った。それから、イメージが切り替わり、さっきまで見ていた肉体がぶつかる音、女の口から出る音が見え、消え、視点が切り替わり、見ていないはずの男の喉元が見える。犯されている女の視点だった。身体の動きに合わせて視界が揺れる。身体が熱っぽくなり、脳がぐらぐらする。その中で、男の微かに隆起した喉元が激しく揺れていた。太った、豚のような首。肉が別のリズムで揺れている。醜い物だった。見ているだけで気分の悪くなる別の生物が喉元に住っている。私はそこに手を伸ばし、引きちぎろうと、引きちぎってあげようと、中身をぶち撒けてやろうと思う。手を伸ばし、手を。だが、身体が揺れすぎて、腕に力は入らなかった。
 顔に伝った涙のくすぐったさに目が開いた。息が荒い。喉元が暑かった。暗闇に薄らと自分の白い手首が見えた。手が震えていた。涙が流れていることに驚いて、目がまた冴えた。
 しばらく目を開いていた。また目を閉じると、同じ目に合う。無理に目を開けていた。暗闇の中で。目を開けた先に、昼間つけた手首のボールペンの痕があった。手術痕にも見えた。私の皮膚の一部に開かれないはずの、口があり、その下に、青黒い血が、赤黒い血が、さらさらと流れている。あるいは肉が、神経の走っているそれがある。奥には骨があるだろう。骨は、何かに当たると音を発して、私の頭蓋を揺らすだろうか。耳に、骨から伝う音が、血が巡る音が聞こえた。私の中に、私ではない何かが、蠢いている。血流、皮の下には、単なる肉、骨、内臓があるのではなく、不定形な、鯨のような、虫のような、流動があるようだった。手首に書かれたボールペンの筆跡は今にも割れて、別の何かが顔を表すのだ。叫ぶような生物が。私ではない生を持つ何かが、性を持つ何か。それはオスか?メスか?私ではない何か?
 ボールペンの蓋が回転している。それはゆっくりと、加速し、加速し、音が鳴る。モーターのような低い音が大きくなる。低い声は男の声だった。息の荒い声、喉をひっかくような、あの不気味な生物がなどで男を内側から食い破ろうとしている、男は動物用になり、内側の怪物の振動を、欲動を、行方を制御できなくなっている、ただの塊が、私に向かってこようとして、叫び声を出した。
 荒い息をどうにか落ち着かせ、私は目を塞ぎ、耳を塞ぎ、自分の中から何かが溢れるのも、入ってくるのも、全てを止めようとした。

 次に目を開くと、カーテンの向こうが明るくなっていた。私は夜を超えた。これから、何度も何度も訪れるうちの、一夜だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?