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悪人と悪役は違う

 昔の会社に、嫌いな先輩がいた。本当に嫌いだった。
 上には阿り、下には罵声。口を開けば誰かの悪口か自分の自慢、他人の仕事のやり方はほぼ全て否定し、他人の好きなものはほぼ全て蔑む男だった。新入社員を何人も辞めさせては、根性が無いと笑っていた。彼が稼いだ売上は、彼が会社に与えた損害と合わせるとむしろマイナスなのではないだろうかとさえ思う。
 そして、僕にも当然その矛先は向き、いちいち棘のある言い方をするその男が大嫌いだった。上司に相談しても、その上司に対してゴマを擦りまくっているその男の事は悪く言わず、
「アイツも根は良いやつなんだよ」
などと抜かした。本当に根が良いやつは、言葉遣いを気をつけるはずだ。そうだろう?『これを言ったら相手はどう思うだろうか』と想像ができるはずだ。彼はそれが出来ないし、出来ているのなら分かってて人を傷つけているのだから尚更悪人だ。言葉を交わすたびに嫌な思いをし、顔を合わすのも嫌になった。デスノートがこの世にあって僕の手元にあったのなら、まず先にボールペン習字に通ってから丁寧に名前を書いてやりたいくらいだった。そう、悪人。彼は悪人なのだ。

 その彼が、がんを発症した。発見したときには既にステージ4であり、転移を始めていたという。彼は薬の副作用に苦しめられながら懸命に闘病した結果、40代と言う若さでこの世を去った。
 本当に死んでしまうとは思わなかった。デスノートに書いていないのに、死んでしまった。死んでほしいと願っていたのに、死んでしまっても喜べなかった。結局僕は、彼の死を喜ぶほど憎みきることもできず、かといって別れを嘆くこともせず、微妙な感情を残したままに終わった。

 振り返ってみると、僕は彼から何を学んだのだろうか、という疑問が湧いた。彼は確かに悪人だった。しかし、悪役ではなかったと思うのだ。
 悪人と悪役の違いが分かるだろうか。
 物語には、悪役がいる。居るし、要る。悪役は自己の欲や目標の為に強い行動力を示し、他者へ迷惑を顧みず、意見を押し付けて憚らず、加害の対象は主人公、もしくはその大切な人にまで及ぶ。主人公は悪役を激しく憎み、そしていつか、うち勝つ大きな力を手にして、裁くのだ。加害の対象が主人公自身かもしくは周りの大切な人に及ぶことで、悪人は悪役たり得る。逆にいえば、そうでなければ悪役にはなれない。主人公は、自分か自分の大切な人に害が及ばなければ、悪人を倒そうとは思わないのだ。『悪い奴だけど、自分には関係ない』が普通だ。
 つまり悪役は、自らの行いによって主人公に学びを与え、成長の機会を与える役目。憎む相手を超える力を手に入れられるように奮起させる。それが悪役なのだ。
 そこまで考えて、僕は思った。『彼が悪人だったのか悪役だったのかは、自分自身が彼をどう見るかによって変わったのではないか』、と。つまりは僕が、この人生の主人公であるこの僕が、彼から何某かを学ぼうという姿勢でいるかどうかによって、悪人か悪役かは決まるのではないだろうか。
 そういう視点で考えてみると、僕にとって彼は悪人だった。つまり、彼から学ぶことをしなかった。思考回路が理解できない。言動が許容できない。あんなに平然と他人を否定できる人間とは、分かり合えることはないと考えた。頭がおかしいやつだから言っても無駄だと思った。
 しかし、彼によって辞めさせられた新入社員たちにとっては、悪役だっただろう。当事者であり、多くの被害を受けた新入社員らは、退職して新たな道を歩んだ先で、ああはなるまいと学んだことを活かしていくだろう。自ら起業したものもいると聞いた。成長をしたのだ。
 対する僕は、彼を悪役として捉えることすら、拒んだのだ。真正面から彼と相対することを避け、関わらないようにしたおかげで特段精神に影響を受けるようなことは無かったが、彼からは何も学びを得なかったという事実だけが残った。僕はまた不快な気持ちになった。死してなお、ここまで考えさせ、長文を書かせてしまう彼のことが、やはり心底嫌いだ。どうせ地獄でも閻魔様に対して偉そうな口を利いているに違いない。安らかなる眠りなど、彼には似合わないのだ。だから祈ってやらないよ。

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