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山頂の静かな朝 【ショートショート】

標高3000メートル。北アルプスの一番高いところにある山小屋で、美鈴は静かな朝を迎えた。時刻は早朝5時。
窓の外を覗くと山一面に雲海が広がっていて、美鈴は急いでジャンパーを羽織って布団から飛び出した。洗面台で顔を洗うと水があまりにも冷たくて、一気に目がさめる。寝床は二段ベッドになっており、まだ寝ている人達を起こさないよう、美鈴はそーっと小屋の外へ出た。

外はまだまだ薄暗くて、吐く息は白かった。空気はひんやりとしていて、歩き出すと土と朝露の匂いがした。遠くで湧き水が流れる音が聞こえる。
外にあるテラスでは数名の登山家が日の出を待っていた。
美鈴は適当なベンチに座り、眼下に広がる山々を眺めた。
この小屋は山頂のちょうど真下に建てられており、北に槍ヶ岳、東に常念岳、南に穂高連峰、西に笠ヶ岳と360度の展望が広がっている。どれも今は霧の中に隠れてよく見えなかった。

隣に座っていた初老の男性が、小型のガスバーナーに火をつけ、インスタントコーヒーを準備し始めた。ガスで温められたお湯と、コーヒーの香りがこっちまで漂ってきて、美鈴は思わず顔を向けた。視線に気付いたのか、男性は「飲みますか?」と声をかけてくれた。お言葉に甘え、美鈴はコーヒーが入った紙コップを受け取った。
まだ少し寝ぼけた頭と、冷え始めた身体に温かいコーヒーが染み渡る。「あ、おいしい…」と美鈴が思わず声を漏らすと、男性が笑った。

「僕は、山頂で飲むこのコーヒーが楽しみで」
「ええ、凄く美味しいです」
「一人で登山ですか?」
「はい」
「若い女性が一人で、珍しいですね」
「子供の頃、両親とよくこの山に登ったんです。それで……」
「ああ、今回もご両親と一緒で?」
「いえ…」
「すみません、もしかして失礼な事を」
「いえいえ、とんでもない」
「……。あ、もうすぐ日の出ですね」
「そうですね」

日が昇ると、立ち込めていた雲が流れていき、山がくっきりと見えるようになった。コーヒーがなくなるまでのんびりその景色を眺めてから、美鈴は小屋へと戻った。

併設されている小さな食堂はずっとクラシックが流れている。山頂で聴くクラシックというのも妙なものだったが、居心地は良かった。
空いている席に座ると、テーブルの上にはささやかな朝食が用意されていた。大皿には目玉焼きとソーセージ。小鉢には昆布とちくわ、高野豆腐。そしてネギとワカメの味噌汁に、茶碗一杯のご飯。
ゆっくりと味わいながら、美鈴はぼんやりと両親の事を考えた。

30を過ぎた辺りから、以前よりも両親の老いを早く感じるようになった。今回の登山も本来であれば三人で来る予定だったが、直前になって父の持病が再発し、母親は看病のために残ることになった。二人は随分前から山を登ると意気込んでいたが、ベッドでくたびれたように眠る父と、看病疲れしている母を見ると、そもそも無理だったんじゃないかと思えてきた。
つい最近まで何も意識していなかった両親の老いを、突然意識させられる瞬間と言うのは、どうも暗い感情にさせるものがあった。

朝食を食べ終えると、美鈴は軽めの荷物を持って、歩いてすぐの山頂へ登った。ここから30分もかからないらしい。
朝早いせいか誰も来ない静かな山頂で、美鈴は一人じっと立ちつくした。人影もない。動物もいない。目の前にあるのは、ただ雄大な自然だけ。
ふと、この世界には自分しかいないような錯覚に陥った。そして酷い孤独感に襲われて、しゃがみ込んだ。

「大丈夫ですか」

顔を上げると、先ほどの初老の男性がいた。

「高山病かな、立てますか」
「あ……いえ。ちょっと立ちくらみをしただけです」

美鈴は男性の手を借りて、ゆっくりと起き上がった。そして持ってきていた水を一口飲んだ。

「私もね、登山をしているとたまに自然の中に一人取り残されたような気持ちになる事がありますよ。自然を前にすると人間は無力ですからね」
「……」
「もう大丈夫ですか?」
「はい、どうもすみません」

そのまま小屋に戻り、美鈴は早々と山を降りた。

ひたすら山を下っていくと、少しずつ、人の営みが戻って来る。山頂で出会うような、少しだけ生命の危機と隣り合わせの緊張した登山家たちとは違って、低いコースを登っている人達の表情は比較的穏やかだった。
ほっとした気持ちで、どんどん下っていく。
山頂で感じたあの孤独感は一体なんだったんだろう。
美鈴は山を下っている間、ちょうど秋風といっしょに下るような感じを受けた。
山の入口は、もうすぐ目の前だ。


――――――
実家で写真を整理していたら、子供のころに両親と登った北アルプスの写真が大量に出て来たので、懐かしくなって書いてみました。
登場する山小屋は「北穂高小屋」という日本でいちばん高い場所にあると言われている実際にある山小屋です。本当に絶壁のような所に建っていて、ここから見える景色は圧巻です。:)
http://www.kitaho.co.jp/