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雨の日、父の豚汁 【ショートショート】

東大阪市、近鉄長瀬駅。
駅から近畿大学に向かうまでの道なりには、小さな商店街がある。その商店街の中にある定食屋の息子として育った俺は、毎日休みなく店に立つ親父が嫌いだった。

子供時代、親父と遊んだ記憶はほとんどない。

親が子供に店を手伝わせるというのはよくある話だが、親父は頑なに俺が働くのを良しとしなかった。俺が少しでも店を手伝おうとすると、「そんなんええから、友達と遊んでこい」とよく追い出された。

そう、親父は多分いい父親なのだ。
でも、いい父親だからと言って、好きになれるかどうかは別問題だった。

ある日、中学の友人らと同級生宅に集まった時に、なんとなく親の話になった。周りが親への不満を言い立てる中、俺も便乗するように親父への小さな不満を漏らした。今思えば、彼らの輪に入るために少し誇張して話してしまったかもしれない。
するとリーダー格の桐山という男が、「ああ、あの定食屋の親父やろ」と悪い笑みを見せた。

「俺、その定食屋行った事あるで。俺らが騒いどったらお前の親父が注意してきよってな。あん時むっちゃ腹立ったわ」
「ああうん。親父そういうのうるさいねん」
「お前、ほんまに親父の事嫌いか?」
「え?」
「俺、おもろい事思いついたわ」

桐山は携帯を取り出し、皆の目の前で親父の定食屋に電話をかけた。そして部屋にいた4人分のメニューを注文し、家の住所を伝えた後、最後に「後藤」と名乗った。
俺が戸惑っていると、桐山はにやりと笑った。「復讐や」

窓の外は雲行きが怪しくなり、次第に強い雨が降り始めた。しばらくして、どしゃぶりの雨の中、バイクに乗った親父が現れた。野次馬のように窓からその様子を眺める友人たちを尻目に、俺はだんだん憂鬱な気持ちになっていった。

「あははは、おい、表札確認して首かしげとるぞ、お前の親父」
「……」

ピンポーンとチャイムが鳴り、下の階では「はーい」と玄関を開ける音がした。親父が注文を確認する声と、明らかに戸惑ったような桐山のお母さんの声が聞こえてきた。くすくす笑う友人の声を背中に受けながら、俺は今すぐこの場所から逃げだしたかった。

「ほんなら、もう少しこの辺り探してみますわ。奥さん驚かせてしもて、えらいすんません」
「いえ……」

再び打ちつけるような雨の中へ戻って行った親父は、それから15分程度、周辺の家一軒一軒の表札を確認して回っていた。俺はそれを見る事が出来なくて、ただただ桐山の実況を聞いていた。

「あーあ。帰ってもうたわ。おもろかったのに」

桐山の声は上手く聞き取れず、ずいぶんと意識から遠く離れていた。俺は自分を責めた。最低だ。何てことをしてしまったんだ。

「俺、帰るわ」

桐山の家を飛び出し、雨の中自転車を走らせた。一秒でも早く家に帰りたかった。そして親父に謝りたかった。

定食屋に戻ると、雨のせいか客が一人も入っていなかった。

「ただいま」
「何や修司、びしょ濡れやな」
「あのさ、親父」
「早くシャワー浴びてき。あったかいもん作ったるわ」

そう言うと、親父は背中を向けてキッチンに入ってしまった。よく見ると親父の髪の毛はまだ湿っている。

シャワーを浴びて戻ってくると、親父は温かい豚汁を出してくれた。俺はそれを一口食べる。桐山の家でぎゅっと強張っていた身体が、少しずつほぐれていく感覚を覚えた。そしてキッチンにいる親父の背中に向かって、話しかけた。

「あ、あのさ」
「ん?なんや?」
「やっぱ親父のご飯、一番おいしいわ」
「それ母ちゃんの前で言うなよ。飯作ってくれんようなるぞ」
「うん」

俺は、かきこむように豚汁を口に運んだ。
悔しい。何で俺はこんなに子供なんだろう。何でこんなに不器用なんだろう。悔しい悔しい。早く大人になりたい。親父、ごめん。

気が付けば、涙が出ていた。
豚汁はやっぱり美味しかった。
そんな俺の様子には全く気付かず、親父は口笛を吹きながらキッチンで料理を作っていた。