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No!ライフプラン! 【ショートショート】

会社でライフプランに関する研修が行われた。要は研修の最後に「保険に入りましょう」と勧められるやつだ。研修中マキエちゃんは、男性講師の鼻毛がずっと気になっていた。目の前で男性講師は「ライフプランを考えましょう。人生設計はとても大切なのです。いざという時のために…」と唾を飛ばしながら熱弁していた。

「では、二列目のあなた」
「え?」

鼻毛を見ていたマキエちゃんは、熱心に話を聞いていると勘違いされて、講師に当てられてしまった。

「あなたのライフプランを聞かせて下さい」
「えっ、特にないです」
「昇進、結婚、出産、子育て……考える事はたくさんありませんか?」
「いやあ……」

研修後、マキエちゃんはとぼとぼと屋上へ向かった。秋の空は少し曇っている。屋上のベンチでは、同僚のカヨちゃんが街を見下ろしながら黒酢を飲んでいた。

「カヨちゃん、研修サボったでしょ」
「マキエちゃんどした?顔ゲッソリ」
「さっき辱めをね……」
「何それ。いやらしいやつ?」

広告代理店で働く二人。カヨちゃんは営業で、マキエちゃんは制作だ。
他の営業と違って、カヨちゃんはノルマや成績に全く執着がない。お客さんとの電話も緩いもので、この前も「犬飼ったんですか?名前は?ザビエル?名前めっちゃかっこいーですね。ザビエル、広告に使っちゃいません?犬写ってると好感度上がりますよ」と話していたかと思えば、犬を真ん中にして広告を作ってくれと原稿を発注してきた。
マキエちゃんは、カヨちゃんから依頼された原稿を作る時間が好きだった。カヨちゃんの原稿は、なんとなくお客さんの顔が見えるような気がしたのだ。

黒酢を飲み終えたカヨちゃんは、スッキリした表情で背伸びをする。

「マキエちゃん。うちらって何歳まで若者って名乗っていいと思う?」
「今27でしょ。けっこうギリじゃないかなあ」
「私はさ、何歳になっても若者って名乗っていいと思うんだよ。30でも、40でも、50でもさ」
「それはどうかな」
「でもさ。保険とかライフプランとかさ、そういうのを考え出したら若者じゃなくなると思うんよ。だって若者って、そういうものに縛られず、自由に今を生きている人達を指すと思うのさ」
「……今日のカヨちゃん哲学者っぽい」
「うそ。私無意識に哲学しちゃってる?」
「してるしてる」

カヨちゃんは手すりから身を乗り出すと、No!ライフプラン!と叫んだ。
叫んだどころではない、それは絶叫に近かった。そんなに高いビルではないので、通行人たちが声に反応して、怪訝そうに屋上を見上げた。

「マキエちゃんも叫ぼう。若者の証明だよ」
「うん、叫ぶ」

マキエちゃんも真似をして、No!ライフプラン!と叫んだ。
二人とも、将来の事とか、いざという時の事とか、ライフプランとか、そんな事は一切考えたくなかった。屋上で、二人でこうして叫んでいる今この瞬間が楽しくて、途方も無い自由を感じていた。


「……というわけで入籍は来月の予定です。皆さん今までありがとうございました」

ぱちぱちぱち。花束を持ったカヨちゃんの言葉は、マキエちゃんの耳にぼんやりとしか入ってこなかった。カヨちゃんの隣には、望月という40過ぎの男がニコニコしながら立っている。望月主任、年の差婚ですねえ。どこに惚れたんですかー?とヤジが飛ぶ。

「彼女を見て、この人しかいないって思ったんだよね」

きゃーお熱いですねーと社員たちが囃し立てる中、カヨちゃんとマキエちゃんの視線がぶつかった。マキエちゃんは般若のような険しい顔をしていた。カヨちゃんは周りにバレないように花束で顔を隠して、こっそり変顔をして見せた。

「ひっ」

マキエちゃんは険しい顔のまま変な笑い声をあげた。そして表情を緩めると、「おめでとう」と口パクで伝えた。

カヨちゃんが退職すると、マキエちゃんは原稿を作るのがつまらなくなった。原稿を作るのがつまらなくなると仕事が一気に嫌になる。定型文だらけの原稿と睨めっこしていると、段ボール箱を抱えた望月がやって来た。

「これ、妻が年間契約してたみたいで」
「え?」
「黒酢の詰め合わせ、どうする?って聞いたら、マキエちゃんにあげてって言われて」
「あ、分かりました」
「助かる。俺、黒酢嫌いでさ」

望月は段ボールを置くと、手で腰を揉みほぐしながら自分の席へと戻って行った。マキエちゃんが箱を開けると、1ヶ月分の黒酢が入っていた。その中からまだ冷えていない黒酢を一個取り出すと、それを持って一人屋上へと向かった。

屋上で黒酢を一気に飲み干し、ぷはーっと白い息を吐きだす。マキエちゃんは思いっきり空気を吸い込んで、No!ライフプラン!と叫んだ。しかしマキエちゃんに続く者はいなかったので、もう一度大声で、No!ライフプラン!と叫んだ。
すっきりした顔で空を見上げたマキエちゃんの瞳には、澄み切った冬の高い空が映っていた。マキエちゃんは飲み終えた黒酢を握り締め、頬をたたくと、軽い足取りで屋上を後にした。