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夢とお別れするとき

人は若い頃は夢と人生が同化して感じる。夢を持ち、その夢に向かって努力し実現させることが人生なのだと。しかし歳を取りある日ふと気が付く。夢という名の願望と自分の人生は全くの別物だということに。そこで人は夢の贅肉を削ぎ落して人生との両立を図ったり、場合によっては夢の後始末をしなければならなくなる。そこで上手く夢と人生の折り合いをつけられなった時、それはコンプレックスとなる。

可能性を追いかけることは人生を豊かにするし、若いうちほど出来るだけ多くの挑戦と成功、失敗を経験しておくべきだという意見に異論はない。ただ夢の実現と日々の生活を送っていく人生が地続きになっている場合は実はとても少ない。

夢を追いかけている間も腹は減るし家賃は払わないといけない。そして何より歳を取っていく。夢には賞味期限があり、それを過ぎると徐々に熱は冷めていく。そしてついに消費期限を超えた夢は腐り始める。腐敗した夢は往々にして行き詰った人生の言い訳に変わる。そして夢だったものの残骸は人生の負債、コンプレックスとなって人生という器の底にこびり付いてしまう大きすぎる夢を抱えていた人ほど、消費期限の切れた夢の処分コストを前に途方に暮れることになる。

理想の学歴、恋愛、仕事、結婚、生活を手に入れる、音楽芸術芸能スポーツで大成する……夢を持ちそれを叶えるには豊かな才能と多大な努力、強い運が必要である。それを自分が持っていない、と気づいた時にどうするのかでその後の人生の幸福度は大きく変わる。いつまでも諦めずに努力し続けることは必ずしも正解であり、美徳であるとは限らない

ある程度歳を取ると「出来ること、したいこと」よりも「やらないといけないこと、やるべきこと」しか考えなくなっていることにある日気が付く。自分が何者なのか、何になれるのか、何者かになりたい、という思いに支配されていた10代20代からは想像もしていなかった変化である。若い頃の情熱というなのガソリンは個人差こそあれ年齢と共に少しずつ失われていき、それと反比例して増えていく仕事や家庭といった荷の重さに、いつしか人生という名のエンジンはガス欠してしまう。

夢を持つ情熱と同じぐらいに、夢の諦められる冷静さを持つことが人生では大切だ。世間が個人の夢や希望に口出しすることが余計なお世話となった令和の世においては、自分の夢の”見極め”も全て個人で行わなければならない。「もうそろそろ夢は諦めて地に足のついた仕事したらどうだ?」「いい歳になって若者に交じっていつまでそんなことをやってるんだ!」などといった容赦のない言葉で、腐りかけた夢に”止め”をを刺してくれる両親や親せきのおじさん、友人や先輩はすっかりいなくなってしまった。長年連れ添ってきた夢の介錯を自分自身の手で行うしかない令和は、ある意味昭和よりも厳しい社会なのかもしれない。

しかし夢への思いが強かった人ほど、夢を諦める決断をすることは辛いだろう。あと少しで夢を掴めるかもしれない、というところまで物語が進んでいた人たちは尚更だ。しかしどこかで線を引いて夢の可能性と向き合わなければ、残りの人生を棒に振ってしまう危険性がある。人生は夢を失ってからの後半戦の方が長く険しい。

30代になると人生の結果発表が始まり、40代になると人生の清算が始まり、50代になると人生のエンドロールが始まる人生100年時代と呼ばれてはいるが、伸びたのは夢を叶える時間ではなく人生を振り返る時間である。年老いたときに振り返って反芻できるだけの実りある人生を送れなかった人にとって、人生100年時代はあまりに長すぎる。医学がいくら進歩しても、実は人が何かを成すために与えられたタイムリミットは織田信長が敦盛の舞の中で”人生50年”と唄ったころから変わっていないのだ。

夢が趣味としても続けていける系統のものであれば、夢のスケールダウンして継続していくこともできるだろう。しかしもし夢がプロスポーツ選手や芸能、音楽、医者や士業など、人生をかけて取り組まなければならない大きさの場合、具体的にいつ頃から”夢の手仕舞い”について意識すればよいのであろうか?

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