肩書きが欲しいだけ?

休学前、外堀ばかりが埋まって、内面が空っぽな自分が嫌だった。

自分には何もない。ないのに、表面的なところだけを掬われて、「色々やってるね」「凄いね」とまとめられてしまう。そう褒められるほどに、益々自分の空虚さが際立って、どうしようもなく自分が情けなかった。

だから、休学は、「内面を豊かにすること」が自分の目標だった。

確かに休学1ヶ月目は、今まで触れたことのない世界に飛び込んで、新たな発見が大量にあって、満たされている感覚があった。自分が豊かになっていっている、これこそ求めていたものだと。

けれど、休学生活5ヶ月目の今、やはり「外堀だけ埋まっていること」に悩んでいる。

「休学して地方でインターンをしていること」
「地域おこし(っぽいこと)をしていること」
「超大手企業出身の人たちと働いていること」
「地方最先端の現場に身を置いていること」
etc…

本質はそこではないのに、外側ばかりを気にして、むしろ外側になる言葉を見つけにいっている自分に気づいて、「あ、これ休学前と一緒だ」となったわけである。

結局私は、〇〇したことがあるという、
肩書きが欲しいだけ?

4〜9月の予定はまだない。今、必死で探している。
でもこの「必死」というのも、要は検索バーに「住み込みボランティア」「リゾートバイト」「地方インターン」などと打っているだけ。
言い換えれば、自分が付けられたい肩書きを、自分から検索しに行っているだけ。

何がしたい、の中身は空っぽで、ずっと外側だけを求めていて、中身に興味がないから「なんでもいい」にいきつくんじゃないか。

その結果、「これは違う」となるんじゃないか。

自己分析が足りないのかもしれない。就活でよく言うように、「やったこと」ではなく「そこから何を得たか、何を感じたか」。その深掘りをひとつもしないままに、この歳になってしまっただけかもしれない。

内省の機会は沢山あったはずで、それを有効に使えなかったのは私。
でも、結局内省したところで、外堀の方面ばかりを掘り下げようとしていて、本質的なところに行きつかない。

自分は何が楽しいんだっけ?
外堀を得ること、褒められることはそんなに嬉しいもの?
そういう自分も受容すればいい、なんて思えない。

私は、私であることがしんどい。

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