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●人新世の「資本論」を読んで 平成元年生まれの私が思うこと。

○ 20代の自分が加担してきたもの

寝る間も惜しみ、仕事を楽しみ勤しみ、経済成長に加勢していた20代がある。

多忙は一種の麻薬のようで、何もすることがないほうが不安だった。限られた時間で最大の成果を出す方法を常に考えていた。渦中にいる間、自分の生産や消費が「遠いどこかの国」の、資源・自然・労働力の搾取で成り立っていることに真正面から向き合う余裕はなかった。

「転職」「仕事」という人の人生を扱う業種だったので、クライアント1社1社が世の中にどう役に立っているか。企業や経営者との対話の中から社会正義を見出し、自らの原動力としていた。

ご縁あった組織に成果で貢献し、企業の経済活動を後押しし、「また一緒に仕事してほしい」と求められ、仕事が増え続けていく。周りの分業化が進む中でぶらさず磨いたコンセプチュアルスキルのおかげか、会社員時代からフリーの現在に至るまで仕事が途切れることはなかった。

だが、当時わずかに見え隠れしていた「企業の経済活動の背景に隠れているものについて、見えないふりをしていたことはないか?」と問われると、まったくないとは決して言い切れない、と振り返って思う。

○ 人新世の「資本論」(著者:斎藤幸平) を読んで

本書は、グローバル・サウス(資本主義のグローバル化により、負の影響を受けている場所や人々)からの労働力の搾取・自然資源の搾取なしに、私たち日本に住むすべての人の豊かな生活が不可能であることに言及し、それらの「どこか遠く」の人々や、「どこか遠く」の自然環境に、負荷を転嫁する生活様式から脱却する道のりを示している。

そのキーワードとなるのが脱成長 。減速主義(deaccelerationism)だ。

旧来から脱成長派として社会に警鐘を鳴らす人たちは存在していた。

「資本主義の矛盾の外部化や転嫁はやめよう。資源の収奪もなくそう。企業利益の優先はやめて、労働者や消費者の幸福に重きを置こう。市場規模も、持続可能な水準まで縮小しよう」、と。

だが筆者は、資本とは価値を絶えず増やしていく終わりなき運動であり、この定義・性質ゆえ「資本主義」と「脱成長」の両立は不可能との立場。

最晩年のマルクスの研究を引用して筆者が訴えるのは、無限の経済成長から脱し、大地=地球を〈コモン〉として持続可能に市民が主体的に管理する社会、コミュニティを作ること

このようなコモンの実現に向けてはゲルマン民族のマルク共同体やロシアのミールのうちに西欧が学ぶべき要素が存在しているという。

例えば共同体では、同じような生産を伝統に基づいて繰り返している。つまり経済成長をしない循環型の定常型経済 が存在していた。共同体は、もっと長く働いたり、もっと生産力をあげたりできる場合にも、あえてそうしなかった。権力関係が発生し、支配・従属関係へと転化することを防ごうとしていたというのだ。

このように貨幣や私的財産を増やすことを目指す個人主義的な生産から、協同的富を協同で管理する生産へと変えていくことがコモンの思想である。

また資本主義に挑むときにセットで必要なのは、「潤沢さ(=ここでは豊かさと表現する)」を「資本主義の消費主義」とは相容れない形で再定義することだとある。生活そのものを変え、その中に新しい豊かさを見出すべきだ、と。

経済成長と豊かさを結びつけるのをやめ、脱成長と豊かさのペアを真剣に考えることに解決の道がある という筆者の主張は大いに納得できる。自分が移住して暮らしてきた2年半、生活のあらゆる場面で「脱成長」がもたらす「豊かさ」を享受させてもらってきたと感じる。

○豊かさをもたらすのは、資本主義なのか、コミュニズムなのか?

房総に移住して2年半。豊かさをもたらすのは、資本主義ではなくコミュニズムである と一片の迷いもなく思う。そしてコミュニティに属する多くの移住者は、同じように体感しているのではないかと思う。

つながりを支える仕組みのひとつ、地域通貨という仕組み。メンバー同士で必要なもの・不要なものをお金を介さずにやりとりできる。そこで生まれるのは、人と人とのつながりや、互いの近況を知る機会。誰かのあたたかいストーリーが詰まったモノは、新品よりも愛着が芽生え、愛おしくなるというおまけまでついてくる。

これまで譲っていただいたものは、ごはんを炊く土鍋、七五三用の着物、刈払機、グラタン皿、パタゴニアのウィンドブレーカー、子供用品など等、数知れず。譲ったものは、ヒーター、キャスター、折りたたみ机、等など。

“もらう譲る”、だけでなく、レンタルやサポートのつながりもつくることができる。たとえば0歳の娘の子育てと同時に仕事のオファーが入り、余裕がなかった時期。2~3時間だけでも助けてくださる方がいないかと呼びかけたところ、2歳のお孫さんがいる素敵な女性が手を差し伸べてくれた。

クリスマスソングを聴くために、クリスマスの時期限定でCDコンポが欲しくなったとき。地域通貨で貸してくださる方がいたおかげで、年に1回しか出番のないコンポを新品で買うことなく、あたたかなクリスマスタイムを過ごすことができた。

このように、譲る・もらう・借りる・貸すといったやりとりで生まれる効果は「お金を使わない」ということではない「人とのつながり・恩が生まれること」。そして「新品を作る・廃棄するのに必要な資源やエネルギーを社会に、自然に要求しないですむ」ということだと思っている。

○資本主義到来前の社会とは?

その昔、共同体は協同地をみんなで管理しながら、労働し、生活していた。人々は共有地で、果実、薪、魚、野鳥、きのこなど生活に必要なものを適宜採取していたのである。森林のどんぐりで家畜を育てたりもしていたという。

だがそのような共有地の存在は、資本主義とは相容れないみんなが生活に必要なものを自前で調達していたら市場の商品はさっぱり売れないからである。誰もわざわざ商品を買う必要がなくなるのだ。

だから囲い込みによって、コモンズは徹底的に解体され、排他的な私的所有に転換されなければならなかった

コモンズはもともと潤沢であった。共同体の構成員であれば誰でも無償で、必要に応じて利用できるものであったからだ。さらに共用財産であるからこそ、人々は適度に手入れを行っており、利潤獲得が生産の目的ではないため、過度な自然への介入もなく、自然との共存を実現していた

共同体が解体されたとき、かつての入会地は私有地になった。私有制のもとでは、貨幣を使っていったん土地を手に入れてしまえば、誰からも邪魔されることなく好き勝手にその土地を利用することができる。すべては所有者の自由となった。

その自由によって、その他大勢の人の生活が悪化しようと、土地が痩せ細ろうと、水質が汚染されようとだれも所有者の好き勝手を止められないそしてその分だけ、残りの人々の生活の質は低下していったのである。

コモンズを失った人々は商品社会に投げ込まれる。そこで直面するのは貨幣の希少性である。世の中には商品があふれている。けれども貨幣がなければ、私たちは何も買うことができない

貨幣があればなんでも手に入れられるが、貨幣を手に入れる方法は非常に限られており常に欠乏状態である。だから生きるために私たちは貨幣を必死で追い求める

こうして人々は理想の姿・夢・あこがれを得ようと、ものを絶えず購入するために労働へと駆り立てられ、また消費する。その過程に終わりはない

消費主義社会は、商品が約束する理想が失敗することを織り込むことによってのみ人々を絶えざる消費に駆り立てることができる「満たされない」という感覚こそが資本主義の原動力なのである。

だが皆が気づいているように、それでは人々は一向に幸せになれない。

○ではどうすれば?

著者は、旧脱成長派が訴える<消費の方向を変える>だけでは状況は変わらないと主張している。環境危機を乗り越えるために決定的に必要なのは、<労働・生産>の形にテコ入れをすること、という趣旨だ。

自然の循環に合わせた生産が可能になるよう、労働を抜本的に変革すること。それはどういうことか?本書では下記5つがあげられている。ここでは①②について触れる。詳しくは著書を読んでみてほしい。

①使用価値経済への転換
②労働時間の短縮
③画一的な分業の廃止
④生産過程の民主化
⑤エッセンシャルワークの重視

①使用価値経済への転換

無限に利潤を追求し続ける資本主義では、自然の循環の速度に合わせた生産は不可能。だから加速主義(accelerationsim)ではなく、減速主義(deaccelerationism)こそが革命的  との立場。

確かに私たちの固定観念から、最も実行の難易度が高い意思決定だと感じる。しかし不可能ではない。むしろいざ実行に移してみると「おお。やれば、できるのか…!」という新しい感覚に陥った

私の場合、「クライアントからのオーダーを受けない状態をつくる」ということを試みた。それにより気づけたこと、自由になった身で出来るようになったことは非常に大きかった。これのおかげで地域での「あおいやねのおうち」のプロジェクトに着手することをはじめ、地域活動・社会活動に参加する余白が生まれつつある

商品としての「価値」だけを重視する資本主義システム下では、売れ行きの良いものを中心に生産が行われるその場の欲求を満たすだけの商品・サービスや、環境負荷を無視した生産は、気候危機の時代には致命的となる。

企業・自治体・組織・個人が生産の目的を常に自問自答し、その目的を、商品として(お金になるかどうか)の価値に置くのではなく、それがもたらす効用(その場のニーズではなく、ニーズの裏のニーズを満たすのかどうか?)、商品・サービスの質(ニーズの裏のニーズを “満たし続けられる” ものか?)、そして環境負荷(生産工程で使うエネルギーや自然資源はどれ程か?それらは外部からの搾取によって成り立っていないか?持続可能か?他によりよい方法はないか?)を自問自答し続けること。

これらの問いに対し、互いに気付きを促しあうコミュニティが近くに存在し人と自然の繁栄にとってより良いものへと生産活動(個人の時間の使い方)を振り分け直している仲間が多く存在することは希望だと感じる。

②労働時間を削減し、社会活動に目を向ける


①が今より広い範囲で進んでいけば、生産現場の価値観・判断軸が大胆に変わる商品としての価値が伴う仕事(売れるものなら作る、受けるという仕事)を大幅に減少させるからである。

これまで「自分たちの商品・サービスは社会にとって必要だ」と大きな旗を掲げ、生み出し続けてきたモノの生産・仕事を “やめる” というのは大きな勇気と決断が必要だと思う。特に従業員の生活を担っている経営者にとっては、納得できる代替案なくできることではないと思う。

この部分について、世代を超えた新しい価値観の尊重 が鍵になると私自身は考える。自分より一回り若い世代の直感に委ねる。60~70代なら、40~50代の世代。40~50代なら、20~30代の世代、という風に。そして10歳未満から10代のこどもたちの直感こそ、社会が一番耳を傾け、尊重した上で意思決定を行なっていくこと が欠かせないと感じている。

これを実現するためには、日頃から感性や直感を開いておくことが求められる。本当に変革が求められるとき、「なぜそうなのか?」はまだ理論的に説明できないことが多いからだ。感性・感覚で、選択・意思決定できる準備を整えておくことがいまの大人たちに求められることではないかと思う。

○私のこれから

パンデミックが起こる前の2019年に次の拠点を探す旅に出ることを決め、勤め人の生活に終止符を打ち、フリーとなった。地方移住し、いくつもの繋がりが交差するなかで暮らし、旅の前に探し求めていた「仕事と地域と家族が分離しないコミュニティで、働き貢献していきたい」ということが現実になっている

本書のポイントとなる「生産の変革」という面において、今世界は変化の渦中にいるように感じる。移住してくる多くの人が、生産の目的を自問自答し、目的をお金になるかどうかに価値を置くのではなく、商品・サービスがもたらす効果、質、環境負荷への配慮について自問自答した上で、商品・サービスを提供しようとしている

自らの生産活動(時間の使い方)について互いに問いかけ、方向性を促しあえるコミュニティに支えられながら、周囲の人や自然の繁栄にとって、より良いかたちの生産へと切り替えを行なっている人の輪が、世界にも日本にもあらゆるところに今後広がっていくのだと思う

このような世界・日本各地の動きと呼応し合いながら、自分自身にできること、自分の時間の使い方を、自由で開放的で、自然の循環とできる限り調和した形であり続けられるよう、今日も未来も、日々の選択を問い続けようと思う。

減速主義をとりいれた当初、躓きそうになる。そのときに夫からもらった言葉をいまも掲示している。『必要なときに必要なだけ収穫する』

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