2つの世界が同時進行しているという考え方

人間は社会的な生き物であり、自分が他人に影響を与え、また同様に他人から影響を受けて生きています。
ここでは、自分と他人という2人の登場人物がいます。
何か物事を進めたり、人間関係を構築したりといった場面でこの2人の登場人物を考える人は多いでしょう。
さて、ここでもう1人の登場人物、自分(内面的な自分)を明確に加えて考えてみると何か新しい気づきはあるでしょうか。

目に見える世界と目に見えない世界

もう1人の登場人物、内面的な自分を加えてみましょう。

2つの世界が同時進行しているという考え方.001

誰もが当たり前のように認識していて、目に見える世界、他人と向き合う世界があります。
加えて、目に見えない世界、自分と向き合う世界ができました。
自分が関与する世界には、自分と向き合う世界と他人と向き合う世界の2つがあると考えることができます。

マズローの欲求五段階説にもあるように、人間は誰しも生まれながらに少なからず承認欲求を持っています。誰からも認められない、褒められないという環境を喜んで受け入れる人は極めて少数と考えられます。
そのため、無意識の内に他人と向き合う世界を重視する傾向があるでしょう。承認欲求の存在を認めるなら、ごく自然のことと考えられます。
この世界では、社会に対して生み出せる自分の相対的価値は何か、社会に迷惑をかけないためにはどうしたらいいか、他人から自分はどう思われているかということを考え、言語化し、行動することを繰り返し行う世界と言うことができるでしょう。

一方で、内面的な自分を1人の人間として明確に認識すると、自分と向き合う世界が浮かび上がってきます。この世界では、本当に自分が好きなことは何か、自分が大事にしているものは何か、自分はどうなりたいのか、自分はなぜ生きるのかということを考え、言語化し、納得することを繰り返し行う世界と言うことができるでしょう。

2つの世界のバランス感覚

2つの世界があることを明確に認識しました。
どちらの世界も平等に重視しているという人は少ないのではないでしょうか。
私は、人間の内面的な問題はこれら2つの世界のバランスが崩れることによって起こると考えています。
内面的な問題とは、不安、怒り、失望、悲しみ、恐怖といった感情が生じることです。

意識が他人と向き合う世界に偏重した場合を考えてみましょう。
この時、他人と協調し、空気を読み、和を保ち、自分の主張は最低限に控えるといった意識を持ち、行動を取るでしょう。
また、他人を攻撃せず、他人から攻撃されることを嫌い、他人が求めることを理解しそれに自分を合わせようとするでしょう。
他人と接する場面においては、このような行動は自分の周りの環境を安全に保つことに効果的です。
しかし、ふと1人で落ち着いた時に、内面的な自分が自分を責めてくることはないでしょうか。
「本心ではこう思っているのに、なかなかそれを口に出して言えない」という悩みは誰しもが持っているものです。
言えないということがなぜ悩みという負の側面を持つのか。
それは、他人と向き合う世界で生きている自分のことを、内面的な自分が否定してくるからです。
人間は自己否定を嫌いますが、ここではまさに自己否定が起きています。
これが良いとか悪いとかではなく、なぜ自分が負の感情を持っているのかをはっきりさせておくことで、自分について冷静に考えることができます。

逆に、自分と向き合う世界に偏重した場合を考えてみましょう。
この時、自分の確固たる納得した考えを持ち、周りのノイズに影響されず、ためらうことなく自分の主張を伝えるといった意識を持ち、行動を取るでしょう。
また、時として他人を攻撃し、他人から攻撃されることがあり、対立することがあるでしょう。
人からは強い人だと見られるかもしれませんが、実のところそうではないかもしれません。
人間は承認欲求を少なからず持ち、その欲求が満たされないと不安を感じたり、孤独を感じる可能性があります。
人は社会的動物であり、他人と向き合う世界に存在する自分を消去することに恐怖を感じるのです。
アリストテレスは、「人間は自己の自然本性の完成を目指しつつ、他人と協調することを目指す共同体を作ることで完成に至るという独特の自然本性を有する動物である」と言いました。
自分と向き合う世界が満たされるだけでは、人間は満足な状態にはまだまだなれていないということが分かります。

どちらの世界がより重要なのか

もしかすると、この2つの世界は比較する価値がないのかもしれません。
しかし、あえて比較し、現時点での何かしらの結論が欲しいと私は思いました。

他人と向き合う世界で登場する「他人」は時間の経過とともにその実体・数が変化します。
自分を産んだ親はいつか死に、学校で会った友人とは散り散りになり、会社で会った人もいずれいなくなり、結婚した人と離婚するかもしれません。
一方、自分と向き合う世界で登場する「自分」は不変です。
「他人」は有限なものであり、「自分」は無限です(人生という期間においては有限です)。
「自分」は、自分の好き嫌いや意思と関係なく、一生を共にするパートナーでもあります。
そういう意味では、人生において最も大事にする価値があるとも考えられそうです。
また、頼れる他人がいない、誰も正解を知らない、新しい領域を開拓するような場面では、「自分」が唯一の拠り所です。
つまり、いざという時には、どれだけ自分と向き合う世界で戦ってきたかという経験値が試されるのです。
辞める理由、諦める理由というのは誰でも簡単に見つけることができます。
しかし、腹落ちした納得感のある続ける理由を見つけるのは簡単ではなく、時間と負荷がかかり、かつ重要であるように私は思います。

順番についてはどうでしょうか。
自分と向き合う世界を充実させ、その後で他人と向き合う世界を充実させるという順番、またはその逆があります。
所謂成功者のエピソードには、前者が多いように感じます。
初めは周囲から認められず、馬鹿にされ揶揄されたが、否定できない成果を社会に証明し、手のひらを返したように周囲から賞賛される。
自分が成し遂げたいことがあるなら、誰に何と言われようと突き進み、結果で証明するしかない。
このような話は一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
私は、これは真実だと思います。
では、逆はどうでしょうか。
他人と向き合う世界を重視し、その後で自分と向き合うという考え方。
私は、これは現実的ではないと思いました。
他人と向き合う世界は常に変化し、また人のもつ価値観は多様性を増し、万人に認められるということはほぼ不可能な世界です。
この世界でどれだけ頑張ったとしても、その成果はすぐに飽和するでしょう。
いくら努力をしても、過去の状態とそう変わらない状態の現在にいる、という状況が予想できます。
ハムスターが回し車を一生懸命漕いでいる様子に見えます。
その時ふと、「何のために生きているのか分からない」と思うことがあるのではないでしょうか。
これは、自分と向き合う世界で戦わなかったために、自分とは一体なんなのかということの足がかりさえ失ってしまった状態ではないでしょうか。
過去の楽しかった記憶、興奮した記憶、感動した記憶も薄れ、なにを大事にしていたのかが分からなくなり、残された時間を淡々と消化する日々。

さいごに

テクノロジーの進化により、私たちは今、常にオンラインな状態にあります。
それによる恩恵は計り知れないでしょう。
同時に、「他人」と接するポイントも飛躍的に増加し、無意識の内に他人と向き合う世界に首まで浸かっているのかもしれないと思うことがあります。
それは、間接的に自分が他人に簡単にコントロールされ得る危険性もあります。
2つの世界を明確に認識し、常にバランスを意識しながら、自分と向き合う時間を意識的に作りたいと私は思いました。

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