デヴィッド・リンチ監督とアート

デヴィッド・リンチ監督の『マルホランド・ドライブ』を観ました。シュルレアリスムを思わせるような、不可解極まりない作品です。部分と部分がどう繋がって全体が構成されているのか、いや全体なんてものすらないのかも知れません。この解釈をすれば全て分かるのでは?と期待したとしても、すぐに裏切られる。もうお手上げです。

ちょっとでもヒントを得ようと、彼が自身の人生を振り返るドキュメンタリー『デヴィッド・リンチ:アートライフ』も観ました。これで分かったのですが、彼は抽象絵画のアーティストであり、映画にその技術を応用しているということです。ピカソの絵が分からないのと同じく、この映画も分からないのも頷けます。ただ、もちろん両者とも解釈や感じ取ることは自由です。そこが厄介ながらも面白いところです。

本作はまさに現代アートです。軸としては人間の無意識、夢の世界を映しているのでしょうが、僕はその先にある無意識の中の無意識、あるいは現実にも誘われている印象を受け、もう時空の感覚すら判然としませんでした。

ところで、彼はドキュメンタリーの中でこんなことを語っています。

″I needed to burn through. I needed to find what was mine and the only way to find this is to keep painting, and keep painting, and keep painting. And see if you catch something. ″

私は(創造に)完全燃焼する必要があった。何が私自身なのかを探す必要があり、とにかく絵を描き続けることで、何かをつかむしかなかった。

アートはアーティストの強い個性から生まれ、広く理解されるのは難しい芸術だと思います。ゴッホやフェルメールなんかを考えると、死後に評価された画家は少なくないでしょう。ゆえに、彼ら彼女らは社会からは隔絶され孤立する。だが、孤立を極めた先の表現には必ず普遍的価値が存在し、その表現こそ芸術なんだと僕は思います。

デヴィッド・リンチもその一人でしょう。結婚して子どもができたのにも関わらず、汚くて暗い場所でアーティスト活動を続けたために離婚。リンチは結婚以前に父親から「お前は子どもをもうけない方がいい」と勧告を受けており、まさに的中というわけです。彼の父は芸術がいかに創造されるかを直感していたのでしょう。これは芸術と孤独が強い結びつきを持っていることを示すエピソードの一つです。

『マルホランド・ドライブ』もそういう芸術です。決して人々には理解され得ない孤独が生み出した作品です。そしてまさにここにこそ、普遍的価値とは何かが示されているのでしょう。

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