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長嶋茂雄の発言から説明的な言葉使いと非説明的な言葉使いの色合いを探る




・始まり

 Youtubeに投稿されている『長嶋茂雄 語録集 1』という動画が、私のアカウントにおすすめとして表示されたのは2024年の3月末頃である。この動画は9年前に投稿されていて、その内容は長嶋茂雄の発言を取り扱ったいくつかのTV番組を切り抜き繋げ合わせたものだ。そこで切り抜かれるTV番組の放送年や番組名は記述されておらず、いつのどの番組なのかはわからないが、動画内で切り抜き転載されている番組たちには共通した態度が見える。それは長嶋が使う言葉の独特な擬音表現や感覚的すぎるともいえる言葉の使い方を、字幕で強調し、笑いの効果音やスタジオの笑い声を映像に乗せる編集だ。標準的とされる言語表現からズレたと思えてしまう言葉の使い方を理解不能な”おもしろ発言”として笑いましょうよ、と世間に送り出す。

 昼過ぎに起床した私は同居人と一緒にリビングで朝食を摂る。起き抜けの頭で、テレビに接続してあるfire TVからYoutubeのアプリを開き、おすすめに表示されていた『長嶋茂雄 語録集 1』を再生する。長嶋茂雄の現役引退は1974年で、その24年後に生まれた私は長嶋茂雄の現役時代も監督時代も知らない。2021年の東京オリンピックにて王貞治、松井秀喜と共に開会式の聖火リレー終盤に登場した老人、という記憶が一番新しい。つまり、他人事として再生をした。
 荒い映像と音声に、編集態度に、今ではない過去を感じながら朝食時間のついでとしてなんとなくで観ていたが、動画3分10秒あたりから始まる映像の、長嶋の言葉の使い方に気持ちがときめく。

・『長嶋茂雄 語録集 1』3分10秒〜 監督就任初年度の長嶋茂雄と入団初年度の定岡正二の会話

 ここに書くために動画を見返すと、3分10秒の冒頭ナレーションが「これは今から24年前」と発言している。Wikipediaにて調べたところ、長嶋の監督就任と定岡のドラフトはどちらも1974年のオフシーズンであり、逆算すると1998年に放送された TV番組と推測できる。

 映像は二人の人間が土手の川縁に腰を掛けているところから始まる。川縁に腰を掛けている二人、長嶋と定岡の表情が映る画角に切り替わる。そこで女性の声のナレーションが「入団したての初々しい定岡投手。緊張する彼を見て、ミスターが長嶋流のエールを送りました」と状況を説明する。
 「今度、おい、定岡。あれだろう、詰め襟から、今度あれだなあ、おい。洋服着るんだなあ」と長嶋(当時38歳)が、横に座る定岡(当時18歳)の表情をまじまじと伺いながら、決して威圧的ではない声色で語りかける。質問の意図が見えないのか戸惑いながらも「はい」と答える定岡の表情は綻んでいる。続けて長嶋は「初めてか?洋服を着るのは」と定岡に問いかける。ここでの定岡の表情は緊張に近い困惑の表情をする。「そう?」と長嶋は押し込むように言葉を続ける。それに対する定岡のリアクションは小さく頷いたように見える。「いいか?嬉しいか?洋服を着て」と長嶋は更に続ける。(ここで、定岡の頭上に青いクエスチョンマークが浮かぶ編集が入る/視聴者の心持は定岡と同期する。口には出さないが「洋服?服なら今着ているんですけど。練習着ですが、裸に見えますか?」のようなクエスチョンだ。)長嶋「洋服どんなやつ?」少しの沈黙。長嶋「ブレザー?」定岡「ブレザーです」(ここで定岡と視聴者は、どうやらスーツの話をしていたらしいと勘付く)長嶋「ブレザーのやつ、ふーん」(画角は変わらずカットが入り次につながる)長嶋「作ったの?こっちで作ったのか?」定岡「いえ、もう、あの、、、買ったんです!」それまで俯きがちに喋っていた定岡は、買ったんです、の瞬間に長島の顔を見る。長島も定岡の顔を見て「買ったのか。ようあったな、お前のこの、いわゆるリーチにようあったなあ」と嬉しそうに返す。「はっ、なんとか」と答える定岡も嬉しそうである。ここでこの映像は終わり、次の切り抜き動画へと移る。

 私は「いいか?嬉しいか?洋服を着て」「お前のこの、いわゆるリーチにようあったなあ」という言葉の、初めて耳にする響きというか意味の繋がり方にときめいたのだ。しかし、初見時の私がした瞬間的な反応は、笑うことだった。嘲笑の笑い。普通とされない言葉の使い方をする人間を”笑い”に変換することで視聴者に受け入れさせる、そのような番組趣旨に則った良い視聴者として笑ってしまった自分への違和感。(これでよいのか?という嫌悪感)その違和感を連れながら、もう一度言葉が聞きたくて動画を巻き戻す。やっぱり面白い言葉だな、と思いながら何度も巻き戻して見るうちに、この言葉の面白さに対する感情の発露が”笑う”という行為だったことが恥ずかしくなる。

・繰り返し見て気がついたこと

 長嶋と定岡には世代のギャップがある。長嶋は1936年生まれで、第二次世界大戦終戦時は9歳だ。定岡は1956年生まれで、長嶋とは20歳の差がある。
 長嶋が18歳の時にスーツは簡単に手に入るものだったのだろうか。スーツを買うとはどういう意味合いがあったのだろうか。と、繰り返し視聴したことで長嶋の言葉の背後を考え始める。だけれど、長嶋の言葉は背後の文脈共有を求めている訳ではない。(背後が気になってしまうのはどういうことなのか。視聴時から書く段階に移り、Wikipediaを閲覧していると、長嶋は大学入学の年に父を亡くしている。母が家計を支えるため都会へ野菜売りの行商をして生活資金を稼いでいた。などと、平気で出てくる。大学を卒業し巨人へ入団。契約金で初めて買ったスーツはどんなに嬉しかっただろうか、と考えてしまう。しかし、長嶋の言葉はその文脈を眼前の青年定岡には伝えず、一見では私のような視聴者には伝わらず、文脈の先にある喜びだけを共有しようとする。)

  少し離れて二人を捉えるTVカメラを長嶋は意識しつつも、これから自身の監督下になる選手に切り出した話題がスーツ談義。もちろん他にもたくさん喋ったのだろう。バラエティとして切り取られた箇所がここなのだ。
 長嶋が眼前の坊主頭の野球青年を見る眼差しの中に、18歳だった時の長嶋が映り、その世代間の感覚の違いを話題にしているようだが、長嶋は「俺の時代は」とは切り出さず、定岡の感情だけを知ろうとする。もし「俺の時代」を長嶋が語れば、この話題の背景が瞬時に共有され、定岡からはその文脈に沿った返事があるのだろう。しかし、その円滑に行われうる会話のもたらすものは、長嶋の気持ちにどれほど誠実でありえて、定岡との関係性を(充実したひとときを)築くことになりえるのか。説明的に編集した言葉の響きは定岡に伝わるのか。
 引っ掛かりの無い円滑な情報交換のためだけに言語があるのだとすれば、長嶋の問いかけは十分な情報を相手に与えられておらず、引き出せもせず、会話下手、理解不能、長嶋流と表現されてしまう。だが、ナレーションが「エール」であることを認めたように、ただ洋服の有無とそれに対する心情を確認しただけではない「エール」が伝達されている。もちろん、表情や声色は大きく関係する。だけれどここでは、言葉選びとその繋げ方に焦点を合わせたまま次へ進む。


・『長嶋茂雄 語録集 1』2分08秒〜 長嶋が自身の練習について語る

 映像的に監督時代、もしくは2001年以降の監督引退後の長嶋茂雄が自身の練習方法について喋ったインタビュー映像。
 映像内容を説明するナレーションと共に、木々が茂る場所を駆け抜けている現役時代の長嶋が写るモノクロ写真が画面に表示される。

 写真は切り替わりもう一枚のモノクロ写真が表示されると共に長嶋は喋り出す。
 切り立った大きな山の剥き出しになった岩肌の所々に木々が生えている。急勾配に見えるその山を足で登り切るイメージが湧かないけれど、登山道や獣道でもあるのだろうか。その山を写した写真の画を舐めるように垂直方向へ降りて行くと、松が生えた庭が映り、庭には構えたような姿勢を取っている青年の顔付きの長嶋が居る。

「この山をねいつも、朝、早く、早朝でね、ぶぅわ〜ってね登って行くんです」長嶋の話し方は単語と単語の間に間隔が空くことが多い。適当に思いつくままに、というよりは、言葉を選んで話している。(勢いの良い擬音が出るときはノッているのか早口になる)
「そして、汗びっしょりにかいてねぇ、そして朝風呂でプッァーと、やって(ここから満面の笑み)、それで朝ごはんを食べる」
 短いカットの編集で次の言葉に繋がる。
「美味しいものをまず食べる、ね?(満面の笑み)、美味しいものを食べてそれが体内の血液がねぇ、っもう本当にしっとりとしたねぇ(会場の笑い声)、その活力を生むのね、その細胞をねぇ、細胞を作っていくのよ!」
トンチンカンッと間抜けな鳴り物のSEが入り「長嶋は、朝飯で細胞を作る」という男性のナレーションが流れ映像が終わる。別の番組切り抜きへと移る。

 この映像を初見したとき、私は朝食の最中で笑いもせずぼんやりと見ていた。嘲笑を反省したことで再見し、ここでの言葉にも引っかかっていく。

 このインタビューで、長嶋は自身の体内に流れる血液を「しっとり」と表現する。ぼんやり朝食をとっている私には理解ができない研ぎ澄まされた体内感覚だと感じる。そしてその感覚を一般の言葉で誤魔化さずに正面切って「しっとり」と表現し、しっとりしている(いた?)自身の血液(万全なる体?)を話しながらに思い出し(もしくは感じ直し)恍惚の表情を浮かべる。

 血液の粘度について、一般的な言葉で表現すると「サラサラ」その対義語として「ねばねば」、説明的にするなら「血流が良い」「血流が悪い」などの言い方になるだろう。
 「しっとり」はシフォンケーキなどの食べ物に多く使われる形容だ。または適度に保湿された素肌。他に「しっとり」はあるか?と考えると、生まれたての子犬のイメージが浮かぶ。しっとりとした産毛の下には薄い皮膚が透け体内を流れる血液が肉眼でも見える。子犬に限らず、生まれたての動物は大体しっとりとしているのではないか?猫、人間、キリン、象、サイ、鳥、などなど。
 つまりは、生まれたて=しっとり、のイメージが存在する。長嶋の発言をこのイメージで考え直すと、「しっとり」は血液だけにかかっているわけではなく、活力や細胞という単語にも反映されている。生まれたての生き物が、自然環境に適応するべく、血液を廻らせて全身全霊の活力をもって細胞を作る。というようなイメージだ。
 長嶋は、人を説得するために言葉を使ったのではなく、自身の体のイメージを捉えるべく言葉を使った。という前提で受け入れる。
 話の構成上「しっとり」というイメージを引っ張ってきたのではなく、内臓に正直な言葉を選んだ結果として、血液の状態説明に収縮されない「しっとり」が出た。

 血液を「しっとり」と感じられる繊細な体内感覚には憧れるが、それは超一流のアスリートやダンサーや俳優の領域であって(5歳からバットを振って35歳まで野球選手として生活をするような身体との付き合い方)、朝飯をおろそかにする人間が一朝一夕で論じられるものではないのだろう。ここで考えられるのは、説得のために言葉を使わない、ということだ。

 長嶋の場合、ことバットスイングに関するインタビューや若手に対する指導などを見ていると、擬音ばかりで殆ど説明をしていない。それは他人に説明していないばかりではなく、自分にも説明をしていないのでは無いだろうか?つまり、彼は、大事な野球を言葉で表現してしまうと、その途端に身体イメージが崩れてしまう、とも感じていたのではないか?
 バッティングの指導で使った「腰で打て」という言葉は説明的なようでいて、イメージの伝達だ。言葉<イメージ という感覚はブルース・リーが台詞として「Don't Think, Feel!」と言ったことの周辺にあるのか。(ブルース・リーも気になってくる)
“階段ダッシュ”ではなく“早朝山ダッシュ”のスケールは言葉にするのは大変だ。ガスケ著の『セザンヌ』の中で若いセザンヌが自然に圧倒されるように、自然のスケールを表現するのは簡単ではない。山ほどまでに身体イメージのスケールを拡張していたとしたら、擬音以上の言葉はなかなか出ない。長嶋はプロ言葉選手ではないのでそこまで言葉に付き合う必要はない。


・現役選手、近本光司の場合 

 長嶋の話に留める必要はなく、ここでの考えはどんどんと使える形に変形させていきたい。
 感覚外の言葉にしてしまったらイメージが崩れるという考え方がある一方、イメージを言葉で固めたり固めたものを更に作り替えていくという考え方もあるだろう。

 阪神タイガースで現役選手の近本光司は打撃理論や自身の身体把握において、あえて他者にはなかなか理解しきれない言葉を使用する。
 インタビューなどを聞くと一般的な受け答えの上手な選手であり、決して言葉を知らないということではない。だけれど、彼は時にチームメイトから「近本の打撃理論は理解不能」と言われたり、ネットに近本語録なる記事が出るような、説明からは遠くはなれた言葉でバッティングを語る。

 2024年2月放送のNHK『スポーツ×ヒューマン』という密着取材番組で近本が特集された際に、近本はバッティングに対して「腰は早く回転しない」「ヘッドをピッチャー側に倒す」「上げた足は踵から地面につく」といった言葉で説明可能と思われる表現の他に「地球に対してすっと立つ」「投球を骨で捕まえにいく」「自分の認知を超えて打つ」ともを表現した。

 近本は打率や安打数を重視したバッターであり、ヒットを沢山打ちたい。自身の対戦成績を全て記録しており、タブレットを開けばどのピッチャーとどの打席でどの球を打ったのか、というようなデータを試合の復習や予習に活用する。しかし、データを使った身体把握だけでは自分の認知は超えられない。近本は自身の認知を超えたヒットを打つために言葉を考える。

 試合後に彼はオンラインミーティングを開きその日の打席を振り返る。そのミーティングは、近本、近本の大学同級生で一緒に野球理論を研究していた植松、スポーツトレーナーの木村の3人だけが参加。信頼関係の上で意見を交換する。つまり、友人関係の二人と自分自身に向けて言葉を使い思考する。
 番組中にあったミーティングでの会話を引用すると、彼がどのように認知を超えるべく言葉を考えているのかが少しわかる。

 木村がその日の打席で違和感があったシーンについて近本がその瞬間にどう考えていたのかを尋ねる。具体的には、スイング時に出かかったバットを無理やり引っ込めてストライクを見逃した場面だ。「あの場面で、わっーって顔してたけど、言葉にするとどういう感じだった?」と木村に聞かれた近本は「手が出なかったっていうのもあるし、出さなかったっていうのもあるんすよ。ラインで捉えようとしたらちょっとフライ上がりそうやなって感じやったんで」と答える。
 (ここで出てくるラインという言葉のイメージが伝わりづらいので補足する。彼がラインで捉えるというときに表現していることは、相手投手から放たれたボールがキャッチャーミットに収まるまでの軌道のことだ。軌道を”ライン”と表しており、それを”捉える”というのはボールの軌道に受身的にバットを合わせに行くということだと思われる)
 そして、その見逃しの次のボールからバットの出し方を変えた近本は、どのようなイメージでスイングをしたのかを二人に説明しようと言葉を尽くす。
 「うまく骨で(ボールを)捕まえに行く方が、こっちからのラインが出せるのかなと、ラインを捕まえに行くんじゃなくて、ラインを作りにいけるって感じですかね、、、橈骨(とうこつ:ひじから手首までの2本の前腕骨のうち、前腕の親指側にあり、尺骨と平行している長管骨)で捉える方が(スイングの)ラインを作っていけるのかな。わお、なんか凄いね、ラインを捉えるというよりも、ラインを作るっていう、(言葉が)出てきたっすねえ、なんか」
(ここでのラインを作るというのは、ラインを捉えるという受身とは逆の、能動的に出したバットの軌道があり、その軌道にボールが吸い付くように当たる感覚のように思われる)

 ここでは近本は言葉を使い思ってもみなかったイメージが降りてきたことに、わお、と自分で驚いている。ラインを作る、という言葉の能動性が新たに試したスイングのイメージと一致したことで理想のスイングは再現可能なものに近づくのかもしれない。
 近本は信頼している仲間に自身の感覚について言葉を尽くして”説明”をすることで、自身も驚く言葉と身体イメージのつながりを発見した。自身をも驚かす言葉が出てくる瞬間は認知を超えたとも考えられそうだ。この言葉を”説得”されたい人や”納得”を求めている人が聞けば「理解不能」となるのかもしれない。


・体を流れる言葉の練習。近本流に認知を超えた言葉を目指し、長嶋流の内臓に寄せた言葉を考える。

 最後に自分の身体感覚を自分や他者に説明する練習をしてみる。

1 まずは、初対面の人に説明するように

 私は夜ベッドに入っても眠れないことがあります。大抵の場合は考え事をしていて、目を閉じても脳が興奮状態のまま、寝付けない。そのような時に、目を閉じたまま二時間三時間と過ごしていると、PCの電源が切れるように寝落ちをする。PCで開いていた画面のウィンドウが一つ一つ強制終了で消えていくみたいに、と言ったら伝わりますか?頭部と顔面の神経感覚が少しずつ認識から外れていく。顔のパーツがなくなってしまう間際に、つまり眠りに落ちる瞬間には独特の感覚があり、それを言葉にするのは難しい。ですが面白い感覚だと思っています。

2 次は信頼できる仲間や自分に伝え感覚を掴むために言葉を使う

 考え事を止められなくて眠れない日の寝落ちは、PCの強制終了処理のイメージが説明しやすい。詳しくすると、眠れなくておでこの表面でビリビリしていたものが強くなりその痺れが顔の各パーツに移動していく。閉じた瞼の暗い世界で痺れたパーツが反響し、反響を追いかけるとそのパーツは認識から外れていく。
 消えていく順番は思い出せないけれど、最後には大体鼻の下と前歯の感覚が残っていて、電流が鼻の下から歯茎を通過して前歯の先で消える瞬間に顔がのっぺらぼうになる。のっぺらぼうになった私の顔の中に、うどんの平打ち麺のようなヒラヒラしたものを認識する。その途端私の顔は大気になっていて、暗い空気の中をうどんが紐や板に形を変えながら、大気に抵抗を与えつつ滑空している。私の顔は大気になっているから、この風の抵抗に美味しいという味覚を感じている。
 このうどんの滑空と今表したものは寝落ちの瞬間にしか現れないから、いつもメモしよう覚えておこう、と思っても記録を取れない。この感覚は味わっている瞬間にしか現れず、言葉では再現できないでいる。十全に表現できていないけれど、「私の顔は大気になっているから、この風の抵抗に美味しいという味覚を感じている」というニュアンスにあの恍惚感の欠片を見ることはできる。

3 自身の感覚再現にのみ重心を置いて、可能な限りの恍惚感を目指す

 黒い影になっている電柱も見えなくなって、夜を滑空するうどんの平打ち麺たちと抵抗しあう大気は摩擦が美味しかった。


練習振り返り


1「うどんみたい」という感覚はこれを書く以前からあったが、1にはうどんの感覚の説明は入れにくかった。しかし、「うどん」が出ないことで印象が限定されておらず、これを聞いた人が「その感覚わかります。私の場合〜」と求めている答えの外から面白いイメージを共有してもらえるのかもしれない。

2 考える際には、感覚と説明が交互に思考されるので、展開がしていきやすい。のっぺらぼうのイメージから大気の抵抗というイメージに変化してより実感に近い言葉になった。

3 後半部は感覚に近く恍惚5割ほどの再現度がある。前半部は寝落ちする間際のまだ視覚優位の感覚で、視覚優位から無に落ちていく文字を並べたかったがこれ以外に思いつけず再現と呼ぶには遠く感じる。3のやり方だと、他者からの指摘やアドバイスをもとに修正することが難しい、という欠点を感じた。ただ、書き直しを繰り返すことで変化は得られる。

p.s.
これを書いてしばらく経ち、電車に乗りながら練習で書いた内容のことを考えていた。
「あのさぁ、昨日ほんっとに眠れなかったんだよね〜!」と、ひとこと心を預けられるような相手に言えてしまえば、それが本当に自分の中での長嶋的なのかもしれないとおもった。

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