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「かわいい」が苦手

人の見た目を褒めることが苦手だ。

女子の友達と一緒にいるときにこれでもかと耳に入ってくる「かわいい」というワード。

もちろん、人の容姿だけに使われているわけではないけれど、特に友人の中で、特定の人に向けて発せられる「かわいい」に対して私はちょっとした「アンチ」みたいな気持ちを持ってしまう。

たしかにその子がかわいいことは百も千も承知だ。

人にはそれぞれ親から受け継いだ遺伝子があって、それが上手く環境や人格と結びついて「かわいい」という形象を生み出す。

与えられたものだけでうまくそうなるわけではない。もしかしたらすごく努力をしているかもしれないし、それを蔑ろにするつもりはない。

だけど、どんなによい環境や人格があったとしても「かわいい」が生み出されることは難しい。

愛嬌美人と呼ばれる人も存在するけれど、「愛嬌がある、親しみがわく」ような容姿を持っていることが前提条件なんじゃないかと思っている。容姿におけるなんらかの「かわいさ」がないとやっぱり「かわいい」人にはなれないんじゃないかな、なんて。

この気持ちをことばにすることには、抵抗があった。

いつからかなんとなく感じていた僻み、みたいな、表には絶対出てこないけれど奥の方でくすぶっているようなグレーな感情。コンプレックスとも呼ぶかもしれない。

人に見せるには汚くて、できればそんなの持っていないふりをしたほうが幸せかもしれないもの。

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かわいいという言葉は特に女子には大きな力をもつ言葉だと思っていて、その力はふつうプラスのほうに働く。

たかが四文字の単純なものだけれど、もらうだけで気分のあがることば。

だからこそみんなが平等に、幸せになれるパワーを浴びてほしいなと思う。生まれ持ったものに関係なく。

容姿に自信を持てないガールの思考回路としてあるあるかなあ、と思っているのが、褒められても素直に喜べないっていうこと。「君かわいいね」って、あんた下手なお世辞かよ。どこがやねん、って。

そう思っちゃうこと自体「かわいくない」んだけど、仕方ない、自分のことをそう思ったことない以上は相手の感性が理解できない。疑心暗鬼、負のスパイラルに入ります。

だけどここで私が言いたいのは、どんな人も容姿を抜きにしてかわいい瞬間があるってことだ。

たとえば、美味しいものを口に入れたときのとろけそうな顔とか、好きなものを見つけて目を輝かせてるときとか。

こういうのって無条件に良い表情をしていると思っていて、素直にかわいいと思う。誰目線だかわからないけど、人類全般に共感してもらえるんじゃないかなあ。

自分自身が、ひとの容姿を褒めるのが苦手だからっていうのもあるけれど、その人がした行動を、かわいいと言うようにしている。こうすれば誰に言っても、自分の気持ちにも、言う相手にも角が立たないはず。

自然な行動にその人らしい心の動きだったり、気遣いなんかが表れたりして、そこにかわいい瞬間が見いだされるのって、お互いが幸せなんじゃないかな。

≪だから、私はそんな瞬間を逃したくなくて、菩薩をやってたりする。≫

「かわいい」は相手も自分もまぁるくなれる、

合言葉なのかもね


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