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長いトンネルを抜けるとそこは晴天だった

鬱だった日々は、真っ暗で曲がり道のたくさんある長いトンネルをずっと走っている気分だった。途中は穴だらけの道もあったし、後ろから突然誰かに突き飛ばされることもあった。
もうここで、終わりにしよう。何度もそんなことを思ったが、途中から伴走者が加わり、天井には照明がつき、わたしはやっとこのトンネルを抜けた。

「そろそろ薬を減らしていきましょうか。」

主治医からそんな提案をされたのは昨年の秋ごろのことだった。わたしが鬱を発症してから今年で4年になる。軽快と憎悪を繰り返し、今ではかなりの量の向精神薬を服用している。

わたしは元々、鬱とは程遠い性格をしていた。自分のことが好きで、常に自信に満ち溢れ、積極的で好奇心旺盛な人間だった。
そんなわたしが鬱になったきっかけは『離婚』だった。
20代前半、ADHDによって借金を作ってしまったわたしは昼の仕事をしながら風俗で働いていた。元夫とはその時に出会い、結婚した。
その数年後に子供が産まれ、マイホームを新築中の最中、元夫から突然離婚を言い渡された。
あの時元夫が言い放ったことは今でも忘れない。「離婚して自由になりたい」「もうお前を女として見れなくなった」と。当時のわたしは頭が真っ白になり、元夫が何を言っているのか全く理解できなかった。
それから離婚の話し合いは難航した。それもそうだ。わたしからすればまさに青天の霹靂だったからだ。そこから更に、不倫をしていた事実も打ち明けられたわたしはストレスのあまり毎日吐き続け、数日で5キロも痩せてしまったのだった。
当時子供は0歳で、産後から鬱状態になり育児以外のことが何もできなくなってしまっていたわたしはさぞ醜かったに違いない。若くて可愛い愛人に会っていたら、わたしが女に見えなくなるなんてことは当然の結果だった。
その時にはすでに肉体関係は解消していたようだったが、「友達になった」という意味不明な言い訳をされて連絡は取り続けていたようだった。家でわたしと子供がいる時に嫌がらせのように不倫相手からテレビ電話がかかって来たこともあった。ここまででも十分なストレスなのだが、さらにわたしを追い詰める出来事は続いていく。
当時は元夫も悩んではいたのだろうが、毎日の話し合いの中で「離婚したい」「やっぱりやり直そう」と何度も意見が変わるため、振り回されっぱなしのわたしは次第にそれらのストレスから心身のバランスを崩していった。
夜中に突然家を飛び出して行ったり、クローゼットで首を吊ろうとしたり、希死念慮に取り憑かれたわたしは何度も自殺未遂を繰り返した。
とうとう元夫から家を追い出され、実家に身を寄せてたわたしは両親や妹、姪たちがいる前でも「死にたい」と泣き叫ぶようになっていた。元夫を見るだけでパニックを起こし、過呼吸で倒れるなんてことは日常茶飯事だった。わたしは完全に気が狂ってしまったのだった。

子供と寝ていたある夜、「子供の寝顔を見ながら死にたい」そんなことを思ったわたしは子供が寝ている横で電気コードを首にかけていた。意識が飛びそうになる直前に我に返り、自分が何をしようとしていたのかを理解した。わたしは両親の寝室へ行き寝ていた母親を起こすと「もう自分で何をしてしまうかわからない。病院に連れて行ってほしい。」と泣きながら話した。
翌日、精神科を受診したわたしはそのまま閉鎖病棟に入院となった。入院後10分で過呼吸を起こし、ホリゾンを打たれ病室に運ばれたのは今ではいい思い出である。
そんなこんなで、わたしは重度の鬱となった。

社会復帰は容易ではなかった。仕事に復帰しても仕事中にパニックを起こして倒れることは普通にあったし、何度も短期間の休職をした。そこから良くなったり悪くなったりを繰り返し、色んな能力を失い、現在に至るのである。出来なくなってしまった事はたくさんある。だがそれを悔いても仕方がなく、出来る事だけで努力して生きていかなければならないのだ。

今わたしはもう嵐の中にはいない。雨が降ったら傘をさせばいいし、風が吹いたら一旦立ち止まればいい。晴れの日を楽しみながら、わたしは生きていけるのだ。

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