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子供を置いて旅行に行かれるか?母親の存在意義と自己価値

ライオンズゲートの日に箱根に行った


一緒に旅をした友だちが
「結婚してから友だちと旅行したの初めて!」
と言ったことに、わたしは仰天してしまった
お互い子供はもう大学生
20数年、家族と一緒か所要で1人でしか旅行したことがないという

よく見渡してみれば、わたしの周りにも同じような人はいる

ただ、わたしは子供が乳児の頃から友だちと国内も海外もよく旅行をしてきた
親も働いていたので、子供を預けることは殆どなくオットが子供をみてくれることが多かった

オットと子供を置いて旅に出かけることに全くブロックがない


わたしにとっては当たり前のことで、オットに悪いとか頼みにくいとかすら考えたこともなかった
オットも親なのだから面倒をみるのは当然だと思ってきた
子供が父親と留守番することを可哀想だとも思ったこともない

***

こういう考えになったキッカケをよく覚えている

中学の修学旅行で引率だった先生が育休から戻ったばかりだった
クラスメイトが「赤ちゃんはダンナさんとお留守番なんてママがいなくて可哀想」と言ったら、「あら、ちっとも可哀想じゃないわよ。2人の子だから2人で育てるのよ。母親だけが面倒みなきゃならないわけではないし、父親と留守番でも子供が可哀想なことは何もないのよ」と先生は答えた

たしかに全然可哀想じゃない!
子供の世話は2人ですればいいんだ!

概念がひっくり返った瞬間だったのをよく憶えている

この時から子供の世話は母親がするものという概念が無くなった

***

今回友だちの告白がかなり衝撃的でいろいろ考えるきっかけをもらった

我が家の場合、子供が【ママじゃないとダメ】ということがひとつもなかった
夜泣きもしない、添い寝もしないで1人で寝る、食事は何でもドシドシ食べる、初めてのベビーシッターでも泣かない、最高に手のかからない子供だった

だから後ろ髪を引かれることがなく出掛けやすかったのは大きい

オットに尋ねてみた
「もしママじゃなきゃダメって子でも一緒に留守番してくれた?」

「ママ〜と泣いてても気にしないならいいよと言ったと思う」とのこと

この言葉の裏に多くの背景を感じた

わたしたちは子供が泣いても屈しないというか、子供と親と根比べになるようなシーンはよくあると思うのだが、子供が泣いても折れないタイプ

まあ子供もあっさりしていたので、しつこく泣く子ではなかったが、泣いても思い通りにはならない親だというのは早々にに悟っていたからかもしれない

一方で子供に泣かれると弱いという親もいる
しつこく泣かれると面倒になり根負けしてしまうとママ友がこぼしていた
泣いたら思い通りになるのを子供が認知しているからしつこく泣くのだ

そしてボンヤリ思うのだが、母親の多くが子供の【ママじゃなきゃダメ】を受け入れてるというよりも
パパじゃなくてママがいい!というところに存在価値を見出し、母親側があえてその領域を手放そうとしないでいるように見えることがある

ママじゃなきゃダメと子供が泣く
それを受け入れる
父親では対応できないことが増える

という構図

オットが「泣いても気にしないならいいよ」と言った背景には色々な家族を見てきて、子供に泣かれることに耐えきれない、オットに任せきれない母親が多い、という感覚があるのだろう
しばらく泣いている子供を親が受容できれば選択肢は増えるのにそれをしない

だから母親しか出来ない子供の世話が増え、父親に任せられない、母親は子供を置いて気軽に出掛けられない
それが日常の当たり前になると子供が大きくなっても母親ひとりで友だちと旅行に行くという発想がなくなるのではないか

我慢してるとかいう感覚ではなくそれが当たり前
オットが子供の面倒を見てくれないと愚痴るけれど本当に不満なのか?
むしろそれを選択してきているのではないか?

わたしが旅行する友だち、誘う友だちは子供が小さいからとか妊婦だからとかが躊躇の理由にならない、自分と同類
子供をオットに預けることにブロックがなく
「行こ行こ!」と二つ返事が多いタイプ

一方で仲が良くても旅行に誘わない友だちは、過去に誘って断られたとかではなく、そもそも誘ったことがない
子供を置いて旅行には出掛けないだろうとわたしが無意識に認知している
自分でも気付いていなかったが無意識に選別していた


わたしは母親であることに自分の存在意義を見出してない
のだろうし、「ママじゃなきゃダメ」ということが極力発生しない子育てをしたのかもしれない

子供に尽くすことが悦び、自分がやってあげたくてあれこれする母親ではないことは確かなので、ママじゃなきゃダメ!が多かったら自己犠牲感が溢れて耐えられずに蒸発していたかも…

そう考えると、我が子が放っておいて欲しい孤独の傷に属していたのはわたしには非常に適していたことになる

母親とは子供に無償の愛を捧げ尽くすことが悦び
というイメージがあり、それとわたしとの乖離が大きく【ダメ母】と思うこともあるけれど、家族も周りも誰もわたしを責めないということは、鏡の法則をあてはめると、わたしも自分を責めたり否定したりしていないということ

まぁいっか


そしてわたしは自己犠牲出来ないタイプであることが改めてよく分かったし母親は向いていない
折り合いをつけながらもう子育ては終わりというところまでなんとか来れたということでヨシとする


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