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kotobaのちから

言葉ってすごい力が宿っていて、
それ自身がエネルギーだから、
悪い言葉やネガティブな言葉は発しない方がいいよ。
というような話を聞くことがあります。

たしかに。。。🏹

私も それはそうだな..と思っていて、

言葉もそれぞれひとつのエネルギーだから、

その使い方によっては
大きな力を動かしてしまう。(ことだま)

わたしもしていたことがありますが、

目の前の出来事に、
こころがすっかり巻き込まれてしまうとき。

ありがとう。だいじょうぶ。

などのポジティブな言葉を
沢山ノートに書くとこころが洗われるのも、

すごくよく分かる気がします。

そして誰かがどこかで、

ネガティブな言葉を選んでしまったことに、

駄目だめ!これ修正!なしなし。✨

としている姿をみせてもらったりするとき。

きっとここではいま、精神的成長が
大きく促されているんだなと感じて...

そっと応援したくなります。。

では、今日の日記はここからが本題。

ことばの力は、確かに本質的には、そうなんです。

だけどね、

どうしても苦しいときに、

苦しい。もう無理。って

発せられない世界って、どうなのだろう。

わたしはそんな風に思っています。

というのも、

言葉選びだったりする数々の
エネルギーを高める方法が、

良い影響となるか、悪い影響となるかのどちらかだけに
ワーキングするかというと、

それは、ちょっと違うように感じます。

『 いま、ひとつのステップ(精神的成長)にある誰かが、

自身のエネルギーを高める過程として、
ネガティブ要素を取り入れない一定期間を設けている。』

としているのが、

言霊に委ねる等の良さであって、

敢えてネガティブ要素を取り込んで、
自身のエネルギーを突き動かす過程。

そしてこの反対に、

ネガティブ要素を出来るだけシャットアウトすることで
自身のエネルギーを高める過程。が、それぞれにあります。

なので、これが出来たから良い、悪いかの判断ではなく、

個エネルギーのランクアップの意味で使うこともできる
という理解でいると、

数々の素晴らしい手法などの良さを、
もっと使い慣らせるはずです。

これを別の表現で伝えるのならば、

“それらの行為にはとても意味があるけれど、

例えそれが今出来なかったとしても、
何にも触れない世界線もあるんだよ。”
ということ。


例えばわたしは、

疲れたとき。難しいとき。とても苦しいとき。

もう、絶対に無理。

これ以上は、進めない。と、

敢えてはっきりした言葉のエネルギーを借りることで、
マイナスエネルギーが中和されて、

苦しいという感覚から距離を持てたり、

新たな視界が開けたり、

さあ、頑張ろうと前向きになったりします。

あと、どうしても受け入れられない状況や人が
現れたときなんかも、

これは、絶対に無理。

この人はどうしても好きにはなれない。と。(笑)

はっきりした宣言を先にしてしまうことで
そこにあったマイナスエネルギーが解けだして
まあ、どうでもよいか。という状態を生み出します。

もうやめたい。もうだめだ。

その言葉も、使いようだ。ってことなんですね。

マイナスエネルギーをわるいものとして扱っているときは、
この活用はむずかしいかもしれませんが、

ひとたびマイナスとプラスが調和されてしまうと、

2つは、ペアで一つなことの気づきが落ちます。

このどちらをとっても、同じ。っていう世界観が開けると、

どちらかを選ぶ必要はなくなるので、
( もしくは、どちらを選んでもその効力は
自分が決められるので )

“いまの自分で、それでいい。それだけ。”

となります。

すでに、完璧。なんです。

判断の無い世界。これぞ正に、この地球で再現できる
最高の場所、天国という位置なのでは..と、私は思ってます。

なぜって、

どんな素晴らしい景色が広がっていても、
そこに判断を起こす行為が生まれてしまうことが、

その景色を狭く息苦しい霧のなかへと誘ってしまうから。

なので、言葉においても...

もうだめだ。もうやめたい。と

話すことが、放す- 離すことを可能にし、

時には使うことで超えられる世界線も、あるよ。と書いてます。

ひとそれぞれ、ほんとに違うんですこの世界は。

それがおもしろいし、みんな違って良いんだってことをね。
自分自身に伝えてあげてほしいと思います。

良いか悪いか。の判断を中和する為にすることは、
何もありません。

唯一見晴らしのいい今という場所に、
どんな判断も無効になる世界がある。という気づきを、
ただそっと置いておくだけです。

するといつの間にか、目の前の出来事のすべては、
宝物になります。🌟


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