翻訳と想像力

あの人やこの人。僕は人をどう捉えているのかと考えてみたときに、誰の、何の輪郭も捉えられてないと気づく。ほろびてで出演者と一緒に時間を過ごして、台本を一緒に読み解いていったり稽古をして本番を過ごしていく間にも、僕は作品ばかりを見ているのでぽろぽろとこぼしてしまう。

誰かのことを考えるとき、僕はその人のことを何も知らない。

先日、ジュンク堂池袋本店で、鴻巣友季子さんの『翻訳教室―はじめの一歩』が文庫になっているのを発見した。直感で「今読みたいやつだ」と思った。読んだ。

翻訳というのは、外国語を自国語にただ書き換える単純作業ではなくて、本文を読んで読んでうんざりするほど読んだ超精読の上に現れる一本の道(意訳)だという。訳出されたものは、原文にない、根拠のない文は存在せず、本文をあらゆる角度から検証した結果、最後に“翻訳者が選んだ”文章が残る。翻訳者によって文章が変わることはあり得るが、それは人が訳す以上確実に起こることで、原文の内側に入り込んで訳されたものであるなら、どれも正解、ということだった。

演技に似てる。そもそも台本の文字を“そのまま演じる”ことなんて所詮無理で、必ず誰かの肉体を通るんだから、その肉体の個性が出てしまうし、人によってはうまく言えるセリフやどうしてもうまくいえないセリフも出てくる。ある程度訓練をしていれば滑舌上は言えるセリフもあるし(滑舌の訓練は俳優ならマストだと思うけど)、感性が豊かな俳優が発するセリフは情報量も多いだろう。精読というか、台本を読み込んで導き出したものならたぶん、全部正解。だけど、いい、悪い、届く、届かない、は、ある。届く演技を、台本を精読しながら検討しながら探していく。

『翻訳教室』では想像力の重要さが強く書かれている。言葉に対する想像力。他者に対する想像力。他の動物に対する想像力。モノに対する想像力。消えゆく言語に対する想像力。異文化に対する想像力。想像力はでっち上げとは違う。自分のもっている想像力の枠を超えようとすることは、あらゆるものごとに対して受容性を拡げることにもつながる。

翻訳をする時に大切なこと
 それはずばり言うと、想像力の枠から出ようとすること。少なくとも、出ようとする意識をもつことです。言い換えれば、人間は自分の想像力の壁の中で生きている。そのことを忘れないことだと思います。
引用:『翻訳教室ーはじめの一歩』(鴻巣友季子)12p

想像力、大事。翻訳でも、演技でも、人間関係でも。

そう思っているけど、なかなか他者の輪郭は見えてこない。ふるまいも言葉も表情も、見ているつもりではいるんだけど。難しいなぁ。

『翻訳教室』では、想像力から東日本大震災の話にもつながっていく。想像力。可能性。たとえ実行できなくても、少しの間でも思いを馳せるだけでも違うはず。今日は2011年3月11日→10年。想像の枠。現実の枠。自分も、誰かも、なにもかも、今ある枠に収めないようにしたい。

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