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絶歌を読まずに思うこと――他人事と許せない社会

(本記事は2015/7/22に書いた本文に、さらに細部修正追加を加えたものです。)
 この記事は書く事にもちろん葛藤がありました。しかし、日本テレビの7月19日放送の「NNNドキュメント'15 “元少年A”へ ~神戸児童連続殺傷事件 手記はなぜ~」を見たので、書いてみました。記事タイトルは複数の意味がかかっています。
 ※ちなみに投げ銭記事にしているのは、どうせ払う人なんていないだろうという事と、無料記事との差別化が理由なので、払わなくても大丈夫です。

 自分の住んでいるところから一番近い所にある書店では、この本は売られていませんでした。僕はそれを確認し、どこかホッと胸を撫で下ろしつつも複雑な感情も正直覚えた記憶があります。
 僕はこの本を読んでいません。読んでいないのは単純に金銭的な都合ですが、仮に誰かにあげると言われたら、迷いながらも貰うかもしれません。そしてその後読むかどうかはまた時間との兼ね合いなので別の意味で読むかどうか分からないのですが、やはり読む可能性はあるような気がします。というより、この種の本は読んでおくべき本なのではないかという感情もあるからです。

 僕のスタンスとしてこの本は支持でもなく、かといって安直に否定でもありません。読んでいないのだから、どちらとも言いようがない気がします。しかし読んでおくべきではないかというのは、元殺人犯でしかも当時少年であった身の心理と変遷については、良くも悪くも価値があるというのは感情論を超えて間違いのない事実だと思うし、自分の記憶が間違っていなければ著者の元少年A(以下、A)の犯罪は少年犯罪の始まりの事件でもあったようにも思います。少年犯罪(といっても一括りにできないほど種類は多様で、Aの事件はその中でも特異ではあると思うけれど)を未然に防ぐ意味でも知っておいて損はないように考えられるからです。

 刑務所の収監者のカウンセリングを定期的に行っている方の話を聞いた事がありますが、麻薬取締法違反で収監されている人物のカウンセリング時、初めは悪態をついていたその人物も話を聞いてみると、麻薬に手を出してしまった心理的な理由があり、そこまで陥ってしまった理由を突き詰めて聞いてみると、幼少時に母親との不和があったのだという事が分かったそうです。
 これからも分かるように、多くの人は生まれながらに(体重などの違いはあれど、ほぼ)同じ状態で生まれてくる。その後の人格や価値観を決めてしまうのは、人が育つうえでの人や場所などの環境が大きいのではないかと思えます。

 しかし、中には障害を抱えて生まれてきてしまう人もいる。
 昔は差別的風潮もあったけれど、今は障害に対してバリアフリーとして完全ではないかもしれないけれど理解は少しずつ進んでいるようにも思えます。
 ただ、目に見えない障害に対してはどうでしょうか? 認知すら進んでいないのが現状かもしれません。
 中には、普通の人と同じように複雑な思考ができて、流暢な言葉で意見を述べたりもできるが故に、他人どころか自分ですら障害として気づかないような、一見分かりにくい精神障害もあります。
 精神障害も精神病も(定義が分からないのでこの2つを一緒に見ていいのかどうかは専門家ではないので分かりませんが)物理的な物ではないので、障害・病気と認めない人もいますし、認めたとしても一緒くたにして「精神障害・精神病はみんな危ない人」と偏見を持つ人も多い。実際はその中でも多種多様にあるはずですが、物理的でないぶんマトモな人間じゃないという感情が先立つのかもしれません。
「頭のおかしい人間はずっと閉じ込めてろ」というのは、よく聞く言葉です。
 しかし、むしろ物理的ではないぶん、周囲の理解が治療や支えとして必要であったり、不可欠であったりします。
 僕はAの本は読んでいないのでハッキリとした情報は分かりませんが、反応を見聞きしてみると、そんな事を感じます。

ぶつかり合う出版の意義と責任と是非

 個人的には、誰に非があるかと言うと、順番的に真っ先に来るのは出版社である太田出版である事だろうとは思います。
 事件は犯行を犯した本人だけの事ではない。被害者がいるのだから、被害者遺族の方々にやはり了解は得るべきだっただろうと思います。そして売り上げは印刷にかかった諸経費とトントンくらいにするか、経費を引いた余りは被害者遺族(受け取らないとは思いますが、それならば犯罪被害者支援団体への寄付など)に回すべきで、売り上げについて行き先がどうなのか調べても出てこないところを考えると、通常の書籍と同じように出版社と著者への印税として振り分けられるのではないかと思えますので、それはどうだろうかと言えます。
 太田出版の社長は批判の絶えない現状について以下のようなコメントを掲載しています。

『絶歌』の出版について


 おそらく出版について葛藤の末に、意義があるとして出版に踏み切った事は本当ではないかと推測しますが、売り上げの行き先については明確にされていないので、結果的に詭弁になっているように感じます。

 そして、著者であるAに非がないのかと言うと50%50%くらいではないかと個人的には推測しています。
 半分はブレーキ役である太田出版が持つべき部分であり、Aが既にできていた原稿を見せたといっても、それを「出版すべきではない」と感じなかった太田出版側に責任があるように思えます。
 「ご遺族の心情を考えると難しいかもしれないですが、一応聞いてみて了解が得られれば出版します」くらいの手順は踏むべきですが、それをしなかったのは「意義があると思うけれど、おそらく反対するだろう(だから了解確認する訳にはいかない)」という考えが透けて見えます。(国民投票が必要である憲法改正をせずに、解釈変更で安保法案を通す安倍さんもみたいな)

 読んだ人の感想から見聞きするに、おそらく著者であるAには心の余裕がなかったのかな、とも推測できる気がします。
 だから何をしてもいいという訳ではもちろんなくて、そして「そんな人間ほかにもいくらでもいる」と言う人もいるだろうと思います。しかし「過去に人の命を奪ってしまった過去を持つ」「そんな人間」は、ほかにいくらもいなくて、一緒にできるものなのだろうかとも考えられます。
 その人生の経緯を持つ上での心の余裕の無さは、他の人間の心の余裕の無さとも少し違うように思えます。
 それゆえに、自分の事でいっぱいいっぱいで、自分が生み出してしまった被害者遺族の心情を察する事ができずにいた。
 いまだに本人の出版後のコメントがないのでどうしているのかは察する事はできませんが、世間の反応に苦悩している可能性もあるかもしれません(し、そうではないのかもしれない。世間がどう思うかは関係なく自分の心情を吐露したかっただけかもしれない。それはAの周りの関係者以外知り得ません。)ただ、Aについて、「今も冷酷な殺人犯」というマスクをかぶせてしまうのは単純すぎるのではないかという疑念も払拭できないのです。

賛否に見え隠れするもの

 絶歌の存在自体について賛否が問われている。
 出版については前述のとおりだと考えていますが、その賛否に関係なく本の中身自体の評価はどうだったのでしょうか?
 僕はここで気をつけなければいけないと考えているのは、「この本は批判があって当たり前であるという事実」。ご遺族の了解を得ていない、犯人による出版なので、初めからマイナスイメージでスタートしているという点です。これを踏まえて反応を見なければ多分、正確な評価なんて見えてこないような気がしました。

 特にこの本は不買運動もあるくらいで、「読む人がどうかしてる」という考えを持った人も多い。読まない事で道義的な意義を唱えています。
 僕はそれこそどうかと思っています。読まずに批判している人って、中見見ていないのになぜ批判できるのだろうと思う。少なくとも読んで感想を言うべきだと感じます。

 しかしながら、Amazonのレビューを見ても、評価は酷いものです。
 でも前述のとおり、この本はマイナスイメージでのスタートなので、言わば「先入観」を持って読む人が読者の過半数以上なのではないかと考えています。「読んで、おもいっきりボロボロに言ってやる」と。そんな感情で、こんな深刻な事件について読んで、深い所まで読む事ができるのかどうか、僕は懐疑的に見ざるを得なかったりします。前述のとおり見た目で分かりにくいマイノリティの存在もあまり知られていない現状で、人格形成に幼年期や少年期が大事な時期であるとたいして知られていない現状で、本当にみんな拒絶反応を持たずに読めると断言できるかな?……と。表面的な見方で済むなら、多分あんな事件は起きないのではないかな、と。
 そう感じるのは、批判的な感想が多い中でも、「意義があった」と価値を見出した感想がチラホラあったからです。
 Amazonで言えば★5などの高めの評価をつけているレビュー(5をつけながら批判しているレビューもあるので、そういうのは除く)、それ以外のブログなどで言えば以下のような記事が参考になりました。

http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/archives/44422709.html
http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/archives/44447913.html

(文章の言葉遣いがストレート且つ挑発的で、ちょっと乱暴すぎるところがあるのが懸念されるところですが……。あと、「ご遺族も読んだ方がいい」はいくらなんでも言い過ぎだと思います;)

http://ameblo.jp/selftreat/entry-12042602957.html
(この人の記事は本当に参考になりました。他にも同テーマでいくつも記事を書かれていて、参考になる部分が多いです。
http://ameblo.jp/selftreat/theme-10090974193.html

 この本については、何が悪いのかを一緒くたに見ないで、1つ1つ切り離して考えるべきではないかと思います。
 出版はNGだったでしょう。それについては僕もとても支持できないし、支持している人もほとんど見かけません。でも本の内容は別で考えるべきだと思います。
 ただ、くどいですが、僕自身は読んでいないので評価できません。実際読んでみたら、僕も不快感を覚えるのかもしれません。それは読まないと分からない。しかし世間で言われている評価が本当にそのままなのだろうかと思っていたので、前述のような意見を見つけ出せたのは、それだけでも良かった気がします。

溢れる潜在的な殺意

 何が「良かった」だ!? あいつは2人も殺してるだろ!

 Aは許されない事をした。だから更生なんていらない。死刑にすべきだ。反省なんてしてる訳がない。あいつは危険な奴だ。こんな本は悪魔の本だ。これを読む奴もクズだ。狂ってる。世の中狂ってる――。
 被害者や被害者遺族の気持ちを考えないのか。遺族の事を思うなら、なぜ読むのか。読む奴は人の心がないんじゃないのか。どうかしてる。どうかしてる。どうかしてる……。

 と、怒りを覚えた人もいると思います。
 被害者遺族の気持ちを考えないのか……?
 遺族の気持ちを考えるなんて、当たり前の事です。
 そして、当たり前の事以上の事に焦点を当てる人が、どれだけいるのだろうかとも思います。
 なぜ被害が生まれるのか、根本的な事にはなかなか焦点が当たらない。
 ストーカー殺人も、ストーカー被害者の保護ばかりに焦点が向いて、根本的なストーカー加害者へのケアが行き届かないから結果的にレッドゾーンまで行き着いてしまったりします。
 安直に、単なる「危ない奴」で済まそうとする。
 でも人の心が組み上げられるのって、自分で組んでいるようで、実はいろんな他人がちょっとずつ部品を組んでいるようなもので、ちょっとネジが足らなかったり、歯車が噛み合わなかったりするだけで、どんどんおかしな形に組み上げられてしまう。
 ちょっとした事でも、それが積み重なっていくと、故障の大元を辿っていくと、ずいぶん前の方の小さなミスだったりする事も十分ありえます。

 僕は今ここまでの自分の人生振り返ってみて、運よく今も生きているし、運よく警察のお世話にならずに過ごせてきていると考えています。
 高校生の頃、生涯で一度だけ、他人に対して明確な殺意を覚えた事がありました。
 その気もないのに「殺すぞ!」と叫ぶような、世間でよくあるような言動ではなく、頭の中で瞬間的に沸き起こった「衝動的な殺意」でした。
 今はすっかり丸くなってしまい当時の面影もなくなりましたが、今振り返ってみると小学生の頃から僕は尖った側面を持っていた気がします。弟とケンカした時、弟の勉強机の棚にあるガラスをおもいきり割ろうかと考えた事もありました。でも堪えて実行せずに感情を内に納めたので、そんな僕の一触即発の内面の葛藤は表になる事もありませんでした。(だから親も弟も、そんな事があったとは今も知らない。)
 でも高校ではその時、蓄積した感情が臨界点に達したのか、爆発してしまいました。学校の廊下でもみ合いのケンカになってしまった。あの時周囲にもたくさん生徒はいたけれど、皆唖然として止めなかった。殴る蹴るにはならなかったけれど、僕も相手も目の前の感情に身を任せている状態で理性はなく、激しくもみ合い、あちこちに体を振られながら動いた。
 その時、階段際まで来て、相手が階段に背を向けた状態になった瞬間があった。
 その一瞬、(それで死んだかどうかはともかくとして)「こいつを突き落して殺す!」という考えが頭の中に沸き起こった。間違いなく、確実に、心の底から「殺す」と、決意した瞬間。後にも先にも、そしてほぼ間違いなく今後も含めて、それが唯一の確かな殺意、しかも衝動の殺意でした。
 もちろん実行しなかったので、僕は運よく警察のお世話にならずに今も生活できています。
 殺意を覚えた瞬間のその次の瞬間に、僕の頭に両親の悲しむ顔が浮かびました。(妄想ではなく本当の話です。)それがなければ、僕は相手を突き落とし、多分死にはしなかったとしても、刑事的措置を受ける事になり、平凡な人生とは違った道を歩んでいたのではないかと思います。
 (自分としてはそれほど両親の愛情という愛情を目立つ形で受けたような印象もなかったのですが)実行直前のほんのわずかなその一瞬に両親の顔が浮かばなかったら、どうなっていたか。その時、その一瞬、ほんの少し感情のぶれがどちらかに傾いたかだけで、誰かの生涯が大きく変わってしまう。場合によっては生涯を閉じる事だってある。
 それは顕在化していないだけであって、潜在的な瞬間はいろんなところに十分ありえます。

集団的イメージに隠れる本質

 少年法について撤廃すべきだという声も多いですが、僕はそうは考えていません。少年法はやはりあるべきだと考えています。先にも述べたように、被害者ご遺族の気持ちを含めても、やはりそれは間違いないと思っています。
 年齢で完全に区切るからおかしな論説になるのであって、少年法を盾に意図的に犯罪を犯した少年(通称つまようじ少年など)がいれば、個別例外として少年法を適用しないようにすればいいのではないでしょうか。(法律は杓子定規的なところがあるので、そういう発想に至らないのが溜め息の出るところですが……。)
 Aの事件時は少年が事件を犯すという事もありませんでしたが、Aの場合にその観点で少年法を見てみると適用すべきであったと思うし、僕がなぜ本を読んでもいないくせにAについて今も冷酷な殺人鬼の印象を持っていないのかと言うと、本が出版されるよりもだいぶ前に、事件のその後のAについて取材した記者の方の話で、施設での更生の様子を聞いていたからです。それよりその後については知らないので、出所後に気持ちの変遷があったのかは分かりかねますが、少なくとも、おそらく施設内では本当に更生した――というより、自分のしてしまった事について理解する普通の人と同じような感覚になったのではないかと思っていました。

 なので、本が出た時はさすがに驚き、「なぜ出したのか?」という事に個人的に注目していました。
 人の命を奪った事実は大きい。自分の家族がもし殺されたら、(家族と険悪状態でない限り)途轍もない感情を覚えると思います。多くは誰だってそうだと思います。もしこれが殺人でなければ、また少し違っていたのではないか。でももう話す事も息をする事もできなくなってしまった。そうしたのはA自身であり、取り返せない。当時とは目の前の見える風景の色が違って見えるのだとしても、元に戻す事ができない。戻したくても戻せない。せめて生きていれば――。

 必死に変わって必死に謝って、難しいかもしれなくても、もしかしたら赦してもらえたのかもしれない。
 でも、もう今はいない。だから赦してもらえない。本人はいない。
 だから赦してもらえない。
 せめて命があれば。あの時、欲望を抑え込めてたら。施設のような人たちと早く会えていれば……今は違っていたのだろうか……。

 ご遺族は家族を奪われたから、赦せないのは当然です。
 しかし、「自分もご遺族と一緒」というような正義の仮面を被って「だから読まない」は、どこか違う気がします。(もちろん、売り上げが出版者や著者に行くからという理由であれば納得はできるのですが……。)
 ちょっと考えてみて欲しいと思うのは、事件について人が考えなければいけない時、被害者や加害者ではない、つまり当事者ではない身の人間は、一歩引いて見る事ができる・感情が阻んで出来ない領域にも踏み込めるという事です。
 それはもちろんマスコミ取材などのように「傷ついている遺族にマイクやカメラを向けるなどの事」とは違い、「資料だとしても読む事ができないようなものでも、当事者でなければ感情を抑えて読む事ができる・知る事ができる」という意味です。読む読まないは別として、読まずに批判している声はイメージだけで物事を決めつけているのと同じではないでしょうか。
 多くの声が「人の心がないのか」と批判しつつ、どこか他人事として捉えていないかな……という気もします。「自分は違う」「うちの子は違う」という。
 大人と子供の考えている事は違うし、子供同士でも違う事もある。
 僕はもちろん子供なんていませんが、(というか現実感もないですが、)子供を持つ人ほど尚更、アンテナを広げていないと潜在的な感情を掬い取れないのかもしれません。
 感情的になるのは誰でもできる。この本の事に限らず、何においても、大事なのは感情と論理の両方で物事を考える事じゃないかな、といつも思っています。

 一番ベストなのは犯罪を未然に防ぐ事=犯罪を起こす気にならない社会。そして残念ながら犯罪を犯してしまった人が、罪を償った後、社会に貢献しやすくなるような社会ではないかなと考えています。

ちょっと趣旨が違いますが、この映画も関連して想起しました。

誰も守ってくれない」(君塚良一監督)(2008)

#記事 #社会 #少年犯罪

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