仕事がどうでもいいのは、実は幸せなことだった。
私は、仕事が好きじゃない。
というよりも、どうでもいいと思っている。
ただ稼ぐために、生きるために、
自分が得意なことをやっているだけで、
そこに意義ややりがいを感じない。
少し前まで、この”何も感じないこと”にとても悩まされていた。どうせキツイ労働なら楽しみたかった。
だが、今はこれで良いと思っている。
別にこういう人間がいてもいい。
なぜそう思えるようになったか、そのプロセスを書き出してみようと思う。
社会的承認欲求が低い
私は社会的な承認欲求がとんでもなく低い。
0に近いと言ってもいいだろう。
上司や会社に功績を認められても、
私の能力に期待をして任せてくれた時も、
「あぁ、そうですか。あざっす!」
くらいにしか感じない。
(もちろん顔と態度では感謝は示します)
それに、評価をされるということにすごく違和感がある。
認められるような発言をされると
「気持ちはすごくありがたい。でも私はあなたが思ってるような人間じゃないかもしれないし、それが続くとは限らないよ。あなたの頭の中の世界の話かも。」
と思ってしまう。
私が何を考えて行動してるか、見えてるところだけしか見ていないはずなのに、それでいいのだ!と他人に決めつけられている気分になる。
それに、仕事での人間関係に情なんていらない。
仕事がスムーズに回ればそれでいい。
自分の代わりなんていくらでもいる。
だから、ここで役立っているんだ!自分は必要なんだ!という実感がまるでない。
なんともひん曲がっているが、
どうしても苦手なのだからしょうがない。
でも、社会的承認欲求があった方が働いていて楽しいだろう。なぜ自分はこうなのか。
うむうむ悩んでいたが、一つの答えに辿り着いた。
自分の存在意義は家族と友人でめいっぱい
なぜこんなにも社会の輪の1人になることに興味がないのか。
それはやる気がないからではなくって、
家族や友人のおかげで、私が存在していい理由がめいっぱい成り立っているからだった。
家族や友人に、持ちきれないほどの愛を与えてもらっている。
もうそこで私の心の器はあったかい愛情で満たされていて、仕事で満たされる必要がなかったのだ。
仕事がどうでもいいと思ってしまうことに罪悪感があったけれど、
めちゃ幸せな理由が背景にあると考えるとすごく安心してすっきりした。
やるべき仕事は頑張っているし、
お金を頂いてるそのお返しとしてしっかり対価を払っている。
なら別にそれだけでいいじゃない。
こんなふうに思えることができた。
ネガティブな罪悪感や悩みの裏には、実は自分の恵まれた環境が隠れているかもしれない。
そう考えられれば、いかに幸せなのかを実感できるし無駄なことで悩まなくて済むのかも。
そう気づけたエピソードでした。
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