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手紙を書く

今日、友人から手紙が届いた。うれしい。
友達と文通しています。というと
古風だなツイッターとかインスタグラムが速くていいじゃない。と言われるが、葉書や手紙のほうが具合がよい。ちょうどよい。

そんなにあわてることもない。
パソコンにうちこむより、手で絵を描いたり、文字を書いたりするほうが、慣れていて早い。
愉快な切手を見つけたら小さく嬉しくなる。
この切手はあの子にぴったりだなあと思う。

生活の形態も、育った環境も違う。好きな洋服も違う。
2人とも、言葉少なだが、なぜだか気が合う。
なんだか戦争のニュースに慣れてきた自分がこわいと書いた私に、都会では、戦争もコロナにも慣れてきたよと書いてあった。

彼女は本当に、繊細なものを作る。
作る仕事の場合、ときに、言葉は意味をもたない。
あの時出会えてなかったら。
本当に出会えて良かった!という人がいるのは、しみじみありがたいことだ。お互いに、ここはあなたと感じ方が違うんだけれどね、うんうん、とやりとりしあえる。

お互いに最近読んだ本や、みた映画の交換をして。(時々封筒はふくらんでいて、文庫本や小物が入っている。私からは、木の実や、山で拾ったきれいなものや、作ったお菓子をおくる。)

書いた文字から、声がきこえてくる。

車で走ると、あー桜が満開で桃色だなーとか一瞬だけど、自転車で走るともっとゆっくりいろいろ見えて、あっこんなとこにフキノトウがあったんだ、とか気づいて、さらに歩行し山道をゆっくり歩くと、お花のつぼみや虫や鳥のすみかにきづくことがある。
そうして立ち止まったら、さらに、細かくつぼみの形状を観察できたり、石のまるみに気付いたり、スケッチしたりできる。

便利は危険なところもあって、
思ってもないような解釈をしたりされたり、
文章だけがあるきだしたり、事実が事実でないようになることもある。本当の気持ちが隠れてしまうこともある。

不便だけど、時間をかけて、ゆっくり変化したりきづくものもある気がする。

戦争についての、色々な思考をやめない。
自分の弱いのやずるいのやもじっと見るけど、
自分の面白い部分にも目をむける。こどもは、面白い。すごくわがままで、はればれしている。もう、笑い声から形から、感触から、なにからなにまで、わたしから出てきたのに、わたしとは全く別人だ。
「ママは小さい時、どんなだったの?お母さんやお父さんと遊んだの?」
私は暴力を受けて育ったのを、これっぽっちも見せずに、へらへら笑ってこどもに嘘をつく。
「うん。大切にされたよ。とっても。」
こどもが、そっかあ、わたしたちと一緒だね。おんなじだね。と言う。寝転んで、ぴったりくっついてくる。好きなものに手で触れると安心するのかな。ほっぺたとほっぺた。

戦争にどうかこどもたちは巻き込まれないで育ってほしいと思う。今日みたニュース。
ウクライナのお母さんが「私のこどもが2人死にました。もう帰ってこない。どうして。」と泣いていた。なぜ、暴力は終わらないんだろう。自分はいったい、何なんだろう。答えを急がないで、ずっと悩んだり、自問していく。悩むのも、後悔も、嘘も、悪いことばかりじゃない気がする。
毎日、ニュースを見てる。想像する。
想像するのを、やめない。

#習慣にしていること


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