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キリスト教の"アッラー"

「私たちも普通に『アッラー』って使いますよ」

そういうのはレバノン人の知り合いのAさん。彼は典型的なレバノン人であり、マロン派のキリスト教徒です。

最近は見なくなってきていますが、以前はイスラム教についての説明を見ると「イスラム教は『アッラーの神』を崇めている」という、妙な表現を目にすることがありました。おそらく「アッラー」という単語に日本人が馴染みがないので、修飾的に「アッラー」という単語を神の前につけたか、あるいはアッラーという言葉をイスラム教独自のタームとして誤解しているかだと思います。

しかしながら、上記のAさんが言うように、中東のキリスト教でも「アッラー」という単語は普通に使われます。

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そもそも多くの人が忘れがちですが、キリスト教はヨーロッパやアメリカの宗教ではなく、本来はユダヤ教とイスラム教と同じく、中東や沿地中海文明の宗教です。

イエスが亡くなった後、弟子たちは散り散りになり、キリスト教を伝道していきました。アルメニアやエチオピアがキリスト教を国教として掲げるようになりました。ローマ帝国内でも徐々に信者を増やしたキリスト教は皇帝のネロやディオクレアヌスなどから迫害を受けつつも、380年には皇帝テオドシウスがローマの国教にするなど大きく飛躍しました。

一方、中東でもイエスの弟子が伝道を続け、今日のコプト正教、シリア正教と言った中東キリスト教につながる古東方正教会の教派群が発生します。例えばコプト正教はマルコが(1)、シリア正教はトマスが始祖であると考えています(2)。

さて、アッラーという単語の話に戻ります。

まずキリスト教と関連したところで見ると、アラビア語の聖書でも「アッラー」という単語は頻繁に用いられるとされます(Islam.ne.jp)。

また、日本語では数が少ないのですが、コプト正教や修道士の生活をとらえた数冊の本でも、現地のアラブ人のキリスト教徒たちが「アッラー」という単語を使っていることが描写されています。

例えばエジプトのキリスト教徒との交流を記録した『コプト社会に暮らす』という本では、お葬式の際に牧師が次のようなことを言っています。

「ヘナ ベート アッラー、ヘナ ベート アッラー。サラーム マーナ。ヤー ビント エスコト!」(ここは神の家なんだ、平安が我々にあるじゃないか。もっと静かにしなさい!)
ラビーブ牧師も必死になってマイクで叫んでいる。それでも婦人たちの叫び声はとどまることを知らない。とうとうラビーブ牧師は聖書をふりあげて、机の上に叩きつけて絶叫した。
(※太字は筆者によるブログ記事作者による加筆)
p65. 村山盛忠『コプト社会に暮らす』岩波新書(1974)

アラビア語の賛美歌でもアッラーという言葉が使われれます。

従って、「アッラー」という単語は、三大世界宗教揺籃の地である中東・地中海地域ではキリスト教とイスラム教の共有財産と言えるでしょう。解釈や崇め方、啓典などが違うだけで一応、同じ神様を崇拝していることにもなっています。「アッラー」という単語がイスラム教の独占物であるということは中東ではないのです。

一方で、マレーシアのようにキリスト教系の教会紙で神の呼び名に対して「アラー」という単語を使い混乱を招いたということで、この教会紙に対して「アラー」という単語を使わないように裁判で判決が出された、ということがありました。

現在、オンラインで見ると「Allah」ではなく「Tuhan」という単語を同紙は使用しているようです。

別にキリスト教徒が「アッラー」の名前を使って、神様や宗教を冒涜しているわけではない上に、「アッラー」はキリスト教の神様でもあります。その歴史的な背景を考えれば、ある宗教のみの独占物として、信心深い人々が神という単語を独占することに努力することは妙なことではないでしょうか。

そして、「神様(の権威)を独占する」、「独占しよう」と人間が考えることこそが、個人と神様との関係において最も大それた行為ではないかと私は思います。

(1)P67. 村山盛忠『コプト社会に暮らす』岩波新書(1974)
(2)P11. 菅瀬昌子『新月の夜も十字架は輝く』山川出版社(2010)

Photo:ID 81659180 © Teguh Jati Prasetyo | Dreamstime.com
Photo 177091074 © Thomas Wyness | Dreamstime.com


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