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アーリア系宗教の特異点:𐬢𐬆𐬨𐬋 𐬵𐬀𐬊𐬨𐬀𐬌

 柄にもなく比較宗教学のような文を書いてしまった(汗)。というのも、久しぶりに伊藤義教の『アヴェスター』を読んだが、ヒンドゥー教との類似点に改めて気づかされたからだ。
 しかしながら、なぜアーリア人の宗教はヒンドゥー教では「内向的」になり、ゾロアスター教では「外向的」になったのだろうか。

ゾロアスター教の牛の比喩

 ゾロアスター教の『アヴェスター』では、一般に知られているヒンドゥー教の牛の崇め方に負けないくらい、牛への言及が激しい。伊藤の原典訳から下記に引用する。

「太陽の光、日々の逞しい牝牛は...」
→74p 16行

「諸水よ、御身たちの妊れる牛として、また御身たちを母として、御身たちを乳牛として...」
→90p 8行目ー9行目

「このようにわれらは牛の魂と牛の造成者なる両者を崇める、ついでにわれら自信の魂とわれらを養う家畜どもの[魂]とを...」
→90p 13ー14行目

乳酪を持つ堅固な教朋にながく育つように、牧養者らを[してください]。」
→92 12-13行目

乳酪を有し給うものよ...
→93 11行目

 このように『アヴェスター』の中では牛への言及が目立つ。これらから見るに牛はゾロアスター教において富や反映、豊穣のシンボルとして敬い奉られていたと考えられる。そしてそれはゾロアスター教徒の崇める神の一柱であるウォフ・マナフにゾロアスターは帰せている。そしてウォフ・マナフの高徳は最高神アフラ・マズダーへと還元せしめられる。アヴェスターによれば、牛は神の力の発露と考えてもいいかもしれない。そういう意味で牛はゾロアスター教において、神格に近い位置にいると言える。
 その意味で考えるとヒンドゥー教徒の接点が見えて来る。ヒンドゥー教の神話において、牛はシヴァの乗り物であり、神の乗り物である牛は現代においても神聖な生き物として崇め奉られている。
 確かにオリエントや西アジアで耕作や移動、食料調達において重要な役割を担ってきた。元来はオーロックスという動物だったらしいのだが、各地で家畜化が進み、現在の牛の形になったと考えられているようだ。

アヴェスター語とヴェーダ語の近縁性

 ゾロアスター教の経典アヴェスターに使われる古いイラン・アーリア系言語は通称「アヴェスター語」と呼ばれる。今回のタイトルで使用したアヴェスター文字と呼ばれる独自の文字を使用するユニークな言語である。
 タイトルはざっくりと"Nemo haomai"と読むらしい。厳格な発音記号を用いられず申し訳ない。これは野田の『後期アヴェスタ語文法』から引用してきたものであるが、野田や他のイラン語学者が指摘するように、古いアヴェスター語はインド最古層の言語と考えられるヴェーダ語と著しい類似性を示すとされる。
 さて、ここであえて野田の本からこの文を引用してきたのか、その理由について言及する。何故ならこの二つの単語は古いインド・アーリア系の言語で見られる著名な単語と語源的に関係していると考え、興味深い事例だと思ったからである。例えば"Nemo"はどうしても「南無阿弥陀仏」などに用いられる「礼拝」、「お辞儀」などを表す"Namo(Namas)"を思い浮かべる。そして面白いことに、意味は同じである。
 また、"haoma"は"haoma"が原型である。この単語は一種の飲み物を表しているが、ヴェーダ教で神々の飲み物、あるいはそれを人格化した神「ソーマ(सोम)」をイメージする人は僕以外にもいるはずだ。これも同じ語源だと考えられる。
 これを単なる偶然で片付けられるのだろうか。

ヒンドゥー教の内観思想

 上記で見てきたように、ゾロアスター教は文化・言語・宗教的発想においてある程度共通であったり、同種の傾向が見られることに疑いはない。しかしながら、ゾロアスター教が自己の外部にあるアフラ・マズダーや他の善神に対して加護や繁栄を求めるのに対して、ヒンドゥー教ではより内観的だと考える。
 例えば岩波文庫の『バガヴァット・ギーター』を見ると、聖バガヴァット(クリシュナ)が自信をモデルとしてアルジュナにこの世の理を説明している。しかしながら、その原理はクリシュナを最高の模範として念じさせつつも、自分の自己の中に傾注させられる。そして、そのクリシュナというものの本質は何によって成り立っているのかをアルジュナに説明している。

アルジュナよ、私に意を結びつけ、私に帰依してヨーガを修めれば、あなたは疑いなく完全に私を知るであろう。...努力して成就した人々のうち、稀に一人が私を如実に知るのである。地、水、火、風、虚空、意(マナス)、思推機能(ブッディ)、自我意識(アハンカーラ)。以上、私の本性(プラクリティ)は八種に分かれている。...万物はこれに由来すると理解せよ。私は全世界の本源であり終末である。
Kindle版 1153/9417 9% 2-10行目

この差は何故生じたのか

 前年ながら、この差異が生じた原因について述べる資料も学識は私にはない。例えばアーリア系世界観をベースに現在のインドで発達した神話・宗教がヴェーダ/ヒンドゥーだとしたとしても、ゾロアスター教やズルワーン教、ミトラ教などと比べて精神構造や物質について見方が分析的になった理由には結びつかない。また、仮にインド・アーリア人のインド侵入説を前提とした場合でも、内観的になったのは先住民として考えられているドラヴィダ人の宗教に影響を受けたのかと勘ぐることもできるが、裏付けるものは何もないのが実状である。
 しかしながら、ゾロアスター教のように古代のアーリア人の神話的世界観をベースとした宗教が各地でシステム化され、別の民族に伝播していったという考え方・歴史観は可能性があると見ている。例えば青木健の『アーリア人」ではイラン・アーリア系と思われるマッサゲタイ族がゾロアスター教に類似する崇拝を行っていたとの言及がある。ソビエトの学者はゾロアスター教の一種が広まっていた可能性が指摘しているが、下記の青木の意見に私も同調する。

...慎重を期するなら、イラン系アーリア人に一般的だった太陽崇拝や拝火儀礼がマッサゲタイ族の間でも見られ、それらは部分的に現在知られているゾロアスター教と一致するといったところではないだろうか。
Kindle版 371/3117 13% 10-14行目

シンギュラリティーとしてのアーリア系宗教

 別の観点から言えば、太陽崇拝や拝火儀礼のようなゾロアスター的行動は古代のアーリア人は多かれ少なかれ共有していたという考え方はできないだろうか。宗教以前の自然崇拝や動物崇拝を共通要素としてアーリア系の遊牧民や騎馬民族が紀元前に一定、共有していたという考え方は可能なのだろうか。
 後世に名前が残るような規模でシステム化されたのはゾロアスター教やズルワーン教、ミトラ教であったりしただけであった。そして、それをシステムとして確立させたものの中でインド・アーリア系のヴェーダ系の宗教だけは異なる思想傾向を持つに至った、と。即ち、それらはアーリア系民族の神話観・世界観の発達における特異点ではなかったのだろうか。
 いずれにせよ、これは考古学的にも言語学などにも立脚しない直感的な意見だ。しかしながら、このように推測し、それを裏付ける資料を探し読み解いてパズルを完成させて行くのが歴史や論文作成の楽しみだろう。


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