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ウクライナ侵攻とロマ文学

外国人だからこういうこと言えるのだろうけど。最近のウクライナ問題と自分の専門領域について思いを巡らせることが多い。それはロシアとウクライナに知り合いがいることもあるし、少数民族とその言語の研究をしていたということも強く影響していると思う。特に人間性が脅かされる状況下において文学は何ができるのか、それを形成する言語とは何かについて考え込んでしまう。

ウクライナの人に言われたことがあるのだが、「私たちにとって国の帰属が変わることは歴史的に当たり前だった」。その歴史的な教訓からロシアの侵攻に対してウクライナは歴史を繰り返したくないと考える。ウクライナをはじめ、ロシアの周囲の国々はロシアがどんな手段で周りの国を蹂躙し、占領し、併合してきたかをよく知っているからだ。徹底抗戦は当たり前だ。

しかし、フィンランドロマ協会が報じているようにドネツクやルハンスクに取り残されたロマ/ジプシーたちは、結局また多数派社会に取り残され、放逐されてしまう可能性がある。少数派は大国に翻弄されることしかできないのか。

私たちに何ができるか。それを考えるために、ロマ文学は今の時代に問題提起してくれるのではないか。

ロマ文学とは何か


まずは「ロマ文学とは何か」から振り返ってみたい。ロマ文学は言語か作者の民族性を強調するかによって二つに分かれると考える。つまり、書き手がロマ/ジプシーの出自の「広義のロマ文学」とロマニ語やジプシーの言葉で執筆された「ロマニ語で書かれた文学作品」の二つである(ここでは一括してロマニ語とする)。

ロマニ語文学はルーマニアの評論家、活動家のデリア・グリゴレ(Delia Grigore)によれば「ロマ言語の最高形」であるとされる。しかし、文学の母体となる言語、すなわちロマニ語の文字言語化や芸術が出現するのは専ら、二〇世紀初頭でその歴史はまだ浅い。

文学も同様だ。例えばルミニツァ・ミハイ・チョアバ(Luminiţa Mihai Cioabă)の詩集『今日と明日のうた(Poemurea dă arateara thai ades)』がルーマニアのシビウで出たのが二〇一二年である。他にもロマ二語で執筆している作家といえば例えばコソボのアリヤ・クラスニチ(Alija Krasnići)が七〇年代から『ロマの血塗られた結婚式(Rromano ratvalo abav)』など数々の作品を執筆しているが、ロマ/ジプシーの生まれであっても必ずしもロマ二語で執筆しているわけではないという現状がある。むしろロマ二語ではなく自分が生まれた国の言語で執筆している作家の方が多いのではないだろうか。

それはまずロマ二語が現代まで口語の言語であったことが大きい。文字を持ちはじめた時期が遅いのである。例えば一八九三年にはフィンランドのラペーンランタでLindh Adamによる辞書"Aapis liin romane dsibbah : ranijas A. Lindh sigijinosgero are foras"が出版されているが、どちらかといえばまだ単語集の領域と言える。

次に「どこのロマ二語をどう綴るか」という問題がある。ロマ二語はヨーロッパ中に分布しているが、全てのロマ二語が全く同じ言語ではないことが事態を複雑にしている。同系列の方言であっても国が違えば当然言語政策も異なるし、お互いの
ロマ二語で会話が成立しない場合もあるのだ。

例えば標準語も決められて正書法もしっかりと定められている国といえばフィンランドが挙げられる。フィンランドでロマ二語は国内で伝統的に使われてきた言語「内国語(kotimaiset kielet)」の一つとして認められているが、フィンランドの
ロマ二語が他のロマ二語と相互理解度があるとは言えない。それはフィンランドのロマ二語はフィンランド語やスウェーデン語から強い影響を受けていることや他の
国と同様に独自の造語法や正書法を持つことなどさまざまな要因がある。

ソビエトのロマ文化


国家的なロマニ語の発展の先駆者としてソビエトに注目しよう。グリゴレによれば例えばモスクワで一九二五年にロマニ語のラジオ放送やロマニ語のアルファベット教本が出版され、一九三〇年(あるいは一九三一年)にはモスクワで初のロマニ劇場「ロメン」が作られた。またロマニ語で初めての雑誌「ネヴォ・ドロム」が出版された。

また、ウクライナとロマ二語は縁がある。ロマニ語にとってウクライナはロマニ語教育誕生の地の一つだ。今日ウクライナ東部のウージュホロド(2)に一九二六年、ロマ/ジプシーの学校が設立されたのである。ただしのノヴァーコヴァーによれば学校設立の理由には「自分の子供を薄汚くてノミだらけのジプシーと同じ机で勉強させたくない」との多数派社会の人種差別的な理由もあったようだ(1)。これはソビエトの事例であり、他の国々の歴史を含めた総括的な振り返りやロマの歴史の連動に関しては更なる研究が待たれる。

ホロコースト経験

言語問わずロマ文学の中で一定の位置を占めるテーマがある。それはロマ二語で「絶滅」や「皆殺し」を意味する「ポライモス」「サムダリペン」、つまりホロコースト期の体験を綴った経験である。フィロメナ・フランツは一九八五年に『愛と憎しみの狭間に(Zwischen Liebe und Hass)』をドイツ語で執筆した。下記はその冒頭部分を筆者が単純に訳したものである。

そして痛みが来た。金槌でガツンと殴られたかのような。それも顔の真ん中を。一生忘れられないくらいに強く。私は多分、一生このことを忘れない。
一九四三年五月二七日の朝早くだったらしい。私は工場で働いていて、一九四〇年から就労が義務づけられていたの。労働条件は最低で、二一歳だった。
私は連行された。
SSの人たちは私を丁重に扱った。でも私は全身がガクガクと震えるのを感じた。一人のSS隊員が、多分三〇歳くらいだと思うけれど、私から手錠を外してくれた。タバコが欲しかった。彼の瞳が何が私を待ち受けているか教えてくれている。今日でもまだこの青年のことを考えることがある。彼を通じて私は何も咎がないことを知った。
しんとした部屋。私はしてもベンチの上に座って窓を仰ぎ見る。空はどんより。大きな雪の塊が地面に落ちる。でも私はこれしか考えられない:「ちょっとした間に私は死刑宣告を受けるんだ」。普通の裁判ではない。私の死刑宣告の名前はアウシュビッツ。

Philomena Franz
Zwischen Liebe und Hass : ein Zigeunerleben
https://www.romarchive.eu/de/collection/zwischen-liebe-und-hass-ein-zigeunerleben-1/

彼女の文体は説明的でなく、過去のことのはずなのに現在的に記述されていることが特徴だ。文も完全な文章になっているものものあればぶつ切りのようになっている文もあり、主人公の"ich(私)"の精神状況を表しているのではないかと考える。

フィロメナのように自らの筆を持って多数派社会にホロコースト体験を訴えたロマは少数であるが、ロマたちが直面した悲劇的な歴史を文学で訴えたという手法がドイツ語圏の文学ならびにロマ文学の領域において、彼女を光はなかなか当てられないが見捨ててはいけない作家にしている。

さて、ここで分かるのはロマであれなんであれ、極限状態に置かれた人間に差はないということである。ロマたちのホロコーストは文学で取り上げられる。しかし、ウクライナで戦火に巻き込まれるロマをはじめとする少数派の人々の声は誰が取り上げるのだろう。誰が記録するのだろう。誰が今回のナラティブになるのだろう。
そのため、今回のウクライナへのロシアの侵攻は文学の力も試されている気がしてならないのだ。

脚注

(1)PP.21, Roma In the Educational System of Central and Eastern Europe https://www.opensocietyfoundations.org/uploads/a2df402a-43e1-48bb-9ac4-ce5cdd5cd9bc/romaed1_1999.pdf

(2)当時チェコスロヴァキア。その後ウィーン裁定でハンガリー王国に帰属。その後、ウクライナSSRへ帰属。

写真

「フィンランド・カーレ・アーカイヴ」トップページより
借用 https://www.finlit.fi/fi/arkisto/perinteen-ja-nykykulttuurin-arkistoaineistot/suomen-romanien-arkisto-finitiko-kaalengo-0#.Yh2hpi33KgQ

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