noteを始めたもうひとつのわけ

「好きなものごと、嫌いになりたくなかったから。」

私がnoteを始めたもうひとつのきっかけとして、今まで気持ちを吐き出していた場所から離れたため、それに代わるものが必要になった、ということがあります。

私の場合、それはツイッターでした。

最近ツイッターとの距離のとり方がめっきりわからなくなってしまったのです。

日々タイムラインを眺めることによってあらゆることが気になり始め、マイナス方向に思考が傾くとわかっていながら、ツイッターに時間を費やし、ですが見終わった後に、果たして自分の中に何が残っているだろうと考えました。

見てはいるんです。でも見たり読んだものはその場限りですり抜けて、なぜかあとにはもやっとした感情ばかりが残る。

タイムラインの流れ、雰囲気をどうしても気にしてしまう。呟こうと思っていたことを押し留める。

通知が来ても、他のかたのツイートや作品へのいいね通知の嵐…でも自分の作品は…

何より一番は、そんなことばかりにとらわれてる自分が嫌で、ツイッターと距離を置くことに決めました。(一応ツイッター歴は2011年からなので、もうすぐ10年だったわけですが)

自分を嫌だと思い続けるのはしんどくなります。自分に実力がないのだと知っていても。自分の作品に他のかたの目を引きつけるものがないのだとわかっていても。

ただ、紛れもなく私が何かを好きだという気持ちはどこかに残しておきたくて、noteに書いていこうと思いました。好きなものをそのまま好きと書ける場所として。

また、これはツイッターから距離を置こうと決めたところから始まるオタクの変遷を綴るものにしようとも思っています。

ツイッターから離れることで私が一番心配になったのは、この先もオタクでいられるかということでした。

オタクとして、ツイッターを通して得たものもたくさんあって、楽しいこともうれしいことも、たくさんいただいていたので。

そして、好きなものを書くことをやめたくなかったのです。それこそ生涯オタクでいたかったので。ツイッターにいなければ、オタクとしての気持ちも薄れるんじゃないかと不安でした。

ですが、それに関しては心配ないというのは、ふたりのかたが教えてくださいました。ツイッターから離れてもオタクで居続けることができると知りました。

こちらの文章を読んだことで、いきなりアカウントを凍結するのではなく、まずタイムラインを見るのをやめて、いろいろ見つめ直そう。そう思いました。

今まで多くのことをツイッターを通していただいたと思っています。ですが、このまま続けていると、そのいただいたものごと、まるごと嫌いになりそうで、好きなものごと嫌いになりそうで、嫌でした。それなら一度距離を置いてみるかと、そんな感じになりました。

もしかしたら一年後はツイッターに何ごともなかったかのように復活しているのかも。それはそれでもいいかなと思います。

ただ気持ちがどう変わっていくのか、または変わらないのか、それを書いていくのもおもしろいんじゃないかと思いました。

それから、ツイッターがすべてで楽しいならともかく、しんどくなっているかたへ、こういうふうに現在進行形で模索している姿をお伝えできれば。

今のところ考えているのは、そんな感じです。もちろんツイッターが嫌いになったわけではないので、ツイッターは悪だと言うつもりはまったくありません。ただ、ツイッターをやってなくても、ここに好きなものを好きと書くことで、こういうふうにオタク生活満喫してる人もいますよと。そんな話を書いていきたいです。

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