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ルビー・ザ・キッド Bullet:16


 叩きつけるようなスコールでサービスエリア全体が煙ってる。シボレー・カマロのフロントガラスを滝のように雨が流れ、窓の外ではドカティ・レッジェーラが雨粒に激しく叩かれてる。
 助手席のシートに体を沈めて濡れた顔を僕は拭う。
 売店で買ってきたコーヒーを先生がホルダーから取って飲む。黒桃暗殺のミッションを投げ出して僕が美猟と逃げたことや、瞳や髪や皮膚の色が元に戻っていることや、平井耀ヒライ・アカルという架空の人間に成りすましてることには一切触れず、ずぶ濡れの僕が落ち着くのを待たずに、シビアな口調で話し出す。
「先週、啓司ライトナーがアメリカ本国から戻ってきた。解体された『ファクト』が組織名を変えて再編されることになった。三日前に国家安全保障担当補佐官が来日してオフラインで黒桃に接触した。元首就任式の日程表が内閣府からライトナー宛に送られてきた。草彅マリオと接触した痕跡をすべて消しておくよう、昨日ライトナーから指示された」
「・・・けっこう色々動きましたね」
 それらが何を意味するのか、僕には全然分からない。
 そのニュアンスを拾おうともしないで事務的に一方的に先生が続ける。外見だけでなく僕への態度もがらっと変わってしまってる。
「国家元首に選ばれたことで、アメリカにとっての黒桃の位置づけが、暗殺すべき独裁者から、操るべき傀儡くぐつへと更新された。黒桃が何らかの政治的な提案───新しいメリットをアメリカにもたらすプランを持ちかけた可能性が高い。アメリカのバックアップを取りつけた上で、黒桃は元首就任式の日に何かを仕掛けようとしている。おそらくは大規模な自作自演テロだろう。そのための駒としてマリオはプランに組み込まれてるだろうし、黒桃のための生贄として屠られてしまう恐れすらある」
 アメリカの傀儡?自作自演テロ?
 僕が生贄?
 いやいやいや。
 そんなこと今の奴にできるわけない───そう言いかけて僕は止める。先生が僕サイドの人間じゃないことをすぐ忘れそうになってしまう。
 先生が僕の方を見る。
 僕は先生から視線を外してコーヒーを飲む。まだ熱い。
「・・・教えてくれてありがとう。帰って美猟と相談します」
「信じてないな」
 そう言って先生が眉をひそめる。
「アメリカの政府高官が黒桃にコンタクトしたのが、大事だってのは分かります。水面下で何が起きているのか、彼女に調べてもらいます」
「言う通りでも逃げないんだろ?」
「はい。美猟が日本にいる限り」
 先生がため息をついて前を見る。
 話してあげたい気持ちを、僕はぐっと抑え込む。
 黒桃が美猟に青い拳銃で洗脳されてることを先生は知らない。もう一度僕を道具に使って政変を起こすなんて不可能だ。でもそれを先生には教えられない。洗脳の件を啓司ライトナーに知れられるわけにはいかないし、そもそもこうして会ってること自体がペンタゴンの罠かもしれないのだ。
「今月いっぱいで大使館を辞めて、ロサンゼルスへ移住する」
 唐突に先生がそう言って、紙片を取り出し僕に渡す。
 アメリカの固定電話の番号だ。
「海外へ逃げたくなったら電話して。出た人間があたしに繋げてくれる」
「・・・ペンタゴンの支局番号じゃないでしょうね?」
 先生がクスリと小さく笑う───今日初めて見せる微笑み。
 今だ、と思って僕は訊く。
「どうして僕を助けるんです?」
 フロントガラスを流れる雨をしばらく見つめて先生が言う。
「責任」
「・・・」
「昔の君の知り合いで、また大量殺戮を起こしてしまう可能性があることを知っているのは、あたしと近藤ハルの二人だけで、近藤ハルはここにいない。だからあたしには草彅マリオの安全装置になる責任がある」
 ああ、
 そっか。
 なるほどな。
 自分が大量破壊兵器であることを、僕はすっかり忘れてた。
 車内をしばらく沈黙が流れる。
「ハルはどうしてます?」
 気持ちを切り替えて訊いてみる。
「知らない。『ファクト』が解体された後、スマホに電話したら解約されてた」
 行方不明か。
 黒桃暗殺ミッションの夜、雪に覆われた山道の端に立ってたハルの姿が脳裏に浮かぶ。もう日本にはいないかもしれない───。
「黒桃はどうして君と都知事を好きにさせてるの?」
 不意を突くように先生が言う。
「言えません」
 僕は即答する。
「一番問題のないかたちで安定してるのは確かです」
「・・・まさかあの女に、黒桃もマリオも喰われてる?」
 良い勘してる。ほとんど当たりだ。
「今、拳銃を持ってるのは誰?」
 僕はもう答えない───先生が大使館を辞めた後もペンタゴンと切れてないことを、今の一言で見抜いてしまう。髪型や雰囲気や僕への態度が大きく変わった理由にも気づく。
 雨が小降りになってきて雲の切れ間に青空がのぞく。
 ここまでだな、と僕は思い、先生もそう思ったことを感じる。
「新しい髪型、似合ってます」
 色んな意味を込めて僕は言う。
「サンクス」
 と先生が答える。
 新しくなった武市来未子を檸檬色の朝日が染める。遠くにあるものを見るときみたいに僕はちょっと目を細める。
 雨が上がり切る前に僕らは別れる。
 レッジェーラに跨がってエンジンを暖気していると、向きを変えて旋回してきたカマロが隣りで停車する。
「じゃあね───生き延びるんだよ」
 窓から左手を出して先生が言う。頷いて僕は右手を伸ばす。
 ぎゅっ、と強く握り合って放す。
 雨粒をまとったカマロがきらめきながらサービスエリアを出ていく。見えなくなるまで見送ってから、僕はヘルメットをかぶり、ギアを落として、レッジェーラを走らせる。駐車場から路上に出てアクセルを開いて加速する。
 先生はペンタゴンのエージェントにスカウトされたんだ、
 そして、その過程の中で、啓司ライトナーと関係を持ったんだ、
 スパイであり、ライトナーの女であり、僕の理解者でもある先生は、すべてのニーズを満たすためにわざわざ僕に会いに来た、
 僕を逃がそうとすると同時に、仕事と自分の男のために取れる情報を取ろうとしたんだ、
 あの人らしいな、
 変わってない、
 武市来未子としてブレてない───。
 車の流れに乗ってアクセルを緩めながら、僕はにんまり笑ってしまう。
 もらった番号がプライベートなものでも、ペンタゴンの罠でも構わない、そのとき僕が生きてることを、彼女に伝えるために使おう、と決める。

 朝食を作って美猟と食べながら先生から聞いた話を伝える。
 美猟が表情を曇らせる。
「わたしたちの知ってる黒桃との落差がすごく引っかかる───本当に黒桃が虐殺イベントを補佐官に提案したのかも」
 僕は驚いて食事の手を止める。
「まさか。ありえないだろ」
「黒桃のテロ計画に穴はないか、駒として計画に組み込まれてるマリオはどんなコンディションか、他に隠されてるカードは無いか、諸々チェックを入れるために啓司ライトナーが先生を動かした───そういうことなら筋が通る。だったら、現実が見えてないのは、わたしたちってことになる」
 あっ───。
 ある可能性に気づいて僕は息を呑む。
「もしかして、黒桃の洗脳が、解けている?」
「もしくは、ずっと演技してたか」
 演技。
 目の前にいる僕を認識できなかったあの朝の黒桃を思い出す。
「いや・・・あれは演技でできるものじゃない」
 美猟がちょっと考えて言う。
「そうだね。洗脳は効いている。なのに彼は政変のプランをアメリカ政府に提案した。この二つを両立させることができる何かが、わたしたちの死角で動いてる」
 僕らの死角。見えない何か。
「すぐに調べさせるから。マリオも外出する時や電話やSNSには気をつけて。漫然と監視されてる状況は三日前に終わってるはずだから」
「わかった───青い拳銃、部屋の金庫から移した方が良くないか?」
 うん、と美猟が頷く。
「新しい隠し場所をすぐ見つける」
 登庁する美猟を見送って、食器を洗い、掃除をしてから、アトリエへ行って美猟の肖像画の下絵をパネルに転写する。今の生活が変わってしまう前に何としてもこの絵だけは描き上げたい。
 サンドイッチとコーヒーで昼御飯をすませて、すぐに荒描きの段階に入る。音楽が邪魔になってラジオを切る。沈黙の中で色を置く。
 あっという間に夕方になる。
 シャワーを浴びて神経を緩めてキッチンへ行って夕食を作る。
 早めに帰ってきた美猟が、食事をしながら青い拳銃の新しい隠し場所について話す。
「浅間山の山荘の地下室に、耐火と防盗の両方に特化した重量二トンの金庫があるの。今、物件の状態を確認させてる。問題なければ明日の夜にでも、わたしと拳銃を瞬間移動で運んで」
 祖父が残した不動産の中には、同じクオリティの金庫のついてる物件がいくつもある、定期的に隠し場所を変えれば、奪われる可能性はゼロに近づく、と美猟に言われて僕は頷き、しばらくはこれで大丈夫だな、と思う。
 洗い物を美猟にまかせてアトリエへ行って荒描きを続ける。吸い込まれるように集中する。呼吸を忘れて筆を動かす。飛ぶように三時間が過ぎてしまう。
「・・・ちょっと疲れたな」
 ソファに座って、絵を眺めて、塗りのバランスをチェックしながら、僕はうとうと眠り込む───そして不気味な夢を見る。

 真夜中の玄関で、修理したばかりのドアが、みしり、と軋む。
 大きな人影が家に入ってくる。
 顔も服装も分からない。光を吸い込む真っ黒な影だ。
 玄関を上がり、廊下を歩いて、寝室の前で立ち止まる。
 ドアを突き抜けて、大きな影が中へ入る。
 ベッドで美猟が眠っている。
 影が美猟の脇に立って見下ろす。
 屈んで顔を覗き込む。
 影の頭が溶け落ちるように伸びて、ずぶり、と美猟の頭に潜る。
 ぐねぐね動いて何かを探す。
 動きを止めて、ぐ、ぐ、ぐ、と笑う。
 影が美猟から頭を引き抜く。
 口に白いものを咥えている。
 指だ。
 美猟の人差し指。
 その指をぼりぼりと噛み砕いて影が食べる。
 眠ったままで美猟が叫ぶ。
 サイレンのように悲鳴が響く。

 全身をびっしょり汗に濡らして、僕はソファから跳ね起きる。
 鳥肌を首と腕にびっしり浮かべ、ばくばくと心臓を鼓動させつつ、今見た夢を思い返す。時計は四時を回ってる。アトリエを飛び出して中庭を走る。
 今のはただの夢じゃない、ていうかきっと、夢じゃない。いつもの『ヴィジョン』とも感触が違った───たった今、実際に起きてることを、夢のかたちで僕は見たんだ!
 バイクと料理と絵にのめり込み、美猟とずっと生きたいと願いつつ、飢えが愛に裏返る瞬間が見たくて、彼女を殺すことを望み続けた、半年間の蜜月の記憶が、走馬灯のように頭の中で回り始めて僕は焦る。
 終わらせたくない、まだ早い、
 肖像画だって描き出したばかりなんだ!
 廊下を抜けて突き当たりのドアを開け、寝室の中へ僕は飛び込む。そして、ああっ、と声を上げてしまう。
 パジャマ姿の美猟がベッドの横の床の上に転がされている。指静脈認証式の金庫の扉が開いてる。気絶させられて指を使われたんだ───だから、夢の中で美猟の人差し指を、影が探して食ったのか!
 金庫の前に人影が立っている。青い拳銃を右手に持っている。
 僕は目を凝らす。
 目をみはる。
 黒桃だ。
 洗脳のコマンドを打ち込まれていて、美猟には害を及ぼせないはずの、僕を認識できないはずの男がそこに立っている。
 なぜだ、どうして───ありえない!
 どぎぃん、
 と全身が脈動する。
 右手から血が吹き出して一瞬で紅い拳銃になる。
 グリップをつかんで振り上げて躊躇ちゅうちょせずに僕は黒桃を撃つ。絞り込んだエネルギーラインが壁に小さな穴を開ける。
 黒桃の姿は消えている。
 瞬間移動。
 どこだ───後ろか!
 左の脇の下を通して紅い拳銃を背後に向け、引き金を引く。
 撃てない。
 引き金が動かない。
 撃鉄周りをがっちりと手で掴まれてしまってる。
 きゅっきゅっきゅ、と喉で笑う声が、僕のすぐ後ろで響く。
「言っただろう。この洗脳は僕に利するし、君を骨まで利用すると」
 背後からのしかかってきた黒桃が、左耳に顔を寄せてささやき、青い拳銃の銃口を僕の後頭部に押し当てる。
 僕は固まる。
 動けない。
 この現実が信じられない。
 倒れている美猟の横顔が視野の隅にある。
 僕らの生活、僕らの未来、僕らの絵が、終わってしまう。
 うそだ、うそだ───ああ、ちくしょう!

アディオス。

 と右耳の横でガルシアの亡霊の声がする。
 死角でうごめく、見えないもの───。
 ずぶり、と青い拳銃のバレルが、頭蓋骨を貫通して、脳に刺さる。

 カーテン越しの淡い光に目蓋をくすぐられて目を覚ます。
 時計を見るとまだ六時前で、隣りで美猟が眠ってる。
 欠伸をしながらベッドを出て、トイレへ行って用をすませ、顔を洗って歯を磨いて、キッチンで朝食の準備をする。ベーコンとアボガドとトマトと卵とレタスの厚切りサンドイッチにコーンポタージュスープを添えて、テーブルの上に並べていると、美猟が起きてきて、おはよう、と言う。いつも寝覚めがすごく良いのに今朝は珍しく眠そうだ。食べながら肖像画の荒描きに入ったことを伝える。二週間で仕上がると思う。楽しみ、と言って美猟が微笑む。
 登庁の支度を済ませた美猟が送迎車を待っているとスマホが鳴る。短く話して通話を切る。山荘の管理人からだった、内部の確認が済んだ、問題ないって。そう、と僕は答えて、それきりその話を忘れてしまう。
 美猟を見送り、食器を洗い、キッチンとリビングを掃除してから、アトリエへ行って作業着に着替えて荒描きの続きをする。バリリ四重奏団のベートーベンを聴きながらひたすら丸筆を動かし続ける。赤が凝り固まったような闇の中で椅子に座ってる美猟の体に、刷り込むように陰影をつけていく。
 夕方の五時まで描いてから一人分のパスタを作る。美猟は会食の予定があって帰ってくるのは深夜になる。国家元首就任式の会場になるオリンピックスタジアムの改修工事が終ったというニュースがテレビで流れる。震災で実現できなかった祭典に匹敵するエネルギーをこの式で国民に与えたい、と瞳を輝かせて黒桃が語る。ボロネーゼを食べながら僕はそれをぼんやり観る。その後赤ワインを二杯飲んでシャワーを浴びてベッドに入る。
 次の日も、その次の日も、就任式の準備と調整で美猟は帰りが遅くなる。僕は夕食をスキップして深夜までアトリエで作業する。肖像画の美猟の肌に青と緑をまぶし、明るい部分にシルバーホワイトを乗せて、その上から薄く赤を塗る。その工程を何度もくり返す。同じようにして服にも厚みを足す。
 就任式当日の交通規制のスケジュールがネットとテレビで告知され、一万人の警察官が動員されると発表される。首都圏の高速料金が当日だけ倍になるけれど、ワイドショーでもSNSでもそれについての文句は出ない。
 八月に入って大手メディアのポテンシャルはさらに高まり、黒桃を主人公にしたテレビドラマとドキュメンタリーが連日放送され、妻である美猟との出会いとなった(そして僕が濡れ衣を着せられた)甲斐グループ令嬢誘拐事件の映画のCMが打たれまくる。ずっと地下に潜伏していた反政府組織の残党が就任式当日にスタジアムで大規模なテロを起こす、という出どころ不明の怪文書がネットにまかれて大炎上し、警備は万全なので安心するよう記者会見で黒桃がコメントする。
 肖像画の完成が近づくにつれて、この絵は違う、こうじゃない、という感覚がどんどん強くなる。セオリー通りに描けてはいるけど、デッサンや下絵では強烈だった「ここにいる」感が薄すぎる。
 煮詰まってきたので絵から離れてスーパーベローチェで都内を走る。頭の中を空っぽにして明治通りをゆっくり流す。交差点ごとに警官が立ってて、通行人の表情に高揚感があって、何だか祭りみたいだと思う。西池袋で首都高に乗ってノンストップで三周する。もやもやしていた気持ちが吹っ切れ、同じ肖像画をもう一枚、違うスタイルで描こうと決める。
 次の日の午前中で一枚目を仕上げる。肌に薄く青味を足して、目と唇にハイライトを入れ、全体を整えて終わりにする。午後から地塗りが済んでいる市販のキャンバスに下塗りをして、夜に二枚目の下絵を写す。ちょっとだけ眠って、夜明け前から厚塗りで一気に描いていく。何度も何度も重ね塗りして作ってきた一枚目の色味を、パレットの上で絵の具を混ぜて再現してからキャンバスに移す。頭の中に見えている絵に、描いてる絵がどんどん追いついてくる。自分の意志を追い越して目と手が絵を作り出していくので、フルマラソンを走るランナーみたいに、止まったり休んだりすることができない。ミネラルウオーターとエナジージェルでエネルギーを補給し続けながら、半日で二枚目の肖像画を描き上げる。座り込んで放心して眺めながら、この絵の中の美猟は生きてる、彼女の分身を作り上げることに成功したぞ、と思って笑う。
「技術的にはまだまだだけど、すごく力のある絵だと思う。特に二枚目。自分で自分をじかに見ている感じがする───この絵はマリオにしか描けないよ。二枚目の絵の方向へどんどん進めばいいと思う」
 都庁から戻ってきた美猟が二枚の肖像画を見てそう言ってくれる。
 嬉しい。
 ありがとう、そうするよ、
 と答えて空腹と消耗で僕はよろける。美猟が受け止めて支えてくれる。
「絵を一生、続けられそうだ」
「じゃあ『呪いのバトン』の連鎖は切れるね」
 僕らはそっとキスをする。
 夕飯は美猟が作ってくれる。食べたいものを訊かれてオムライスと答える。バターをたっぷり使った半熟の厚焼き玉子で、チキンとタマネギとガーリックの入ったケチャップライスを包み込み、濃口のウスターソースをかけてキノコのサラダを添えてくれる。二人で食べる。すごく美味い。あっという間に食べてしまう。
「ごちそうさま」
 と僕が言う。
 美猟が嬉しそうな顔で頷き───そしてぽろぽろ涙を流す。
「どうした?」
 びっくりして僕は訊く。
「・・・わからない・・・何だろう。おかしいね」
 そう言って美猟が涙を拭う。
 笑おうとしてまた泣いてしまう。
 僕は席を立ち、美猟の肩に左手を載せて、右手でそっと頭を抱く。すると僕の胸も強い切なさと悲しみで満たされる。あれあれ、なんだ、と思ってるうちに、ぱたぱたと床に涙が落ちる。正体不明の底なしの喪失感に襲われながら、僕らは互いを強く抱きしめ、声を出して泣き続ける。
 そして八月八日になる。
「行ってきます」
 スーツ姿の美猟が玄関で僕に向かって言う。
「行ってらっしゃい」
 僕は見送る。ドアを開けて美猟が出ていく。
 キッチンに戻って食器を洗い、リビングと廊下を軽く掃除し、コーヒーを煎れて飲みながら、ソファに座ってテレビを観る。どのチャンネルも国家元首就任式が行われるオリンピック・スタジアム前からの中継だ。
 真夏にこんな大きなイベントを打つのは本来危険なことで、十年前なら熱中症で倒れる人が続出したでしょう、大震災を経ることで気候の変動がさらに進み、大変な冷夏になったことが今日の開催に味方しました、黒桃元首は本当に天運に恵まれていますね、とスタジオの気象予報士が興奮気味に語り、それを受けて現場のレポーターが、甲斐都知事を始め、著名な方が大勢スピーチされますし、人運に関しても強力ですね、と話を広げる。
「・・・美猟のスピーチ見たかったな」
 と残念な気持ちで僕はつぶやく。
 それから一時間ほどして、黒桃を乗せたセンチュリーが、警護のパトカーとサイドカーの車列に守られて会場に着く。黒桃が会場に入ったことを確認してから、僕はテレビを切って立ち上がる。
 コーヒーカップをシンクに置き、洗面所で歯を磨いて髭を剃り、自分の部屋のベッドの下から小ぶりのトランクケースを出す。ベッドに置いて蓋を開ける。イヤホン型のトランシーバーと、通信アプリがインストールされたスマホのセットが入ってる。僕はスマホの電源を入れて、トランシーバーを耳にかけ、ひと通り動作を確認をしてからバッテリーをチェックする。それから一旦電源を切り、ジーンズのパンツとライダー用の黒いメッシュのジャケットに着替えて、クローゼットからガンベルトを取り出し、ウエストポーチを通して腰に巻く。トランシーバーと、アプリ用のスマホと、自分のスマホをポーチに入れて、ヘルメットを持ってガレージへ行き、VMAXを外へ引き出す。
 雲ひとつなく晴れている。
 ガレージのシャッターを閉めてから、VMAXに乗って走り出す。
 松濤を出て、渋谷の駅前を通過し、ヒカリエの駐車場にVMAXを駐める。それからスクランブルスクエアへ行ってスカイステージのチケットを買い、四十五階までエレベーターで上って、展望台行きのエスカレーターに乗る。オリンピックスタジアムのドームがそう遠くない場所で光ってる。僕はその輝きをしばらく見つめ、腕時計で時間を確かめる。
 就任式が始まる十時まであと数分───黒桃本人のスピーチまで四十分だ。
 それまでに僕は、このスカイステージの屋上からスタジアムの天井まで飛んで、数百人の政治家と、六万人の観客ごと、紅い拳銃で黒桃元首を撃って溶かして蒸発させる。
 日本と、美猟と、僕自身のために、僕はこれから大量殺戮をするのだ。


(続く)

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