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ルビー・ザ・キッド Bullet:28


 そして公開処刑日の四月一日がくる。
 大型台風が小笠原沖に接近していて、朝から強い風が吹き荒れ、灰色の雲が空を走る。
 紅い拳銃を渡された日とそっくりな天気だな、
 とトレーラーの荷台にセットされた強化ガラスのコンテナの中で、床に溶接した椅子に座らされ、両足首を鎖でつながれて、オリンピックスタジアム跡地の刑場へと運ばれながら、八年半前の『ブランカの夜』を懐かしく僕は思い起こす。
 護送の車列は二十号線を千駄ヶ谷へ向かってのろのろ進む。きっと黒桃の指示で僕の姿を都民に晒してるんだろうけど、警視庁に移送された時と違って、襲撃してくる人はいない。数時間後の処刑が決まっているので、当たり前といえば当たり前だが、それにしたって街の雰囲気があまりに静かで穏やかだ。要所要所にカメラを据えてる報道スタッフも殺気立ってない。
 国民全員で僕を殺せとずっと騒ぎ続けていたのに、当日になったらこんなもんか───とちょっと拍子抜けしてしまう。
 でも、そんな空気は、青山二丁目の交差点を曲がると一変する。
 スタジアムへ続く並木道の歩道を、一万や二万じゃきかない数の群衆がみっしり埋め尽くしてる。その背後に組まれた足場の上から数百台のカメラのレンズがじっとこっちを狙ってる。警備に立ってる警察官の数は千人を下らないだろう。強い風に吹かれながら人々は声一つ上げることなく、ただギラギラと目を光らせて、スマホを持った腕を突き出し、運ばれていく僕を撮りまくる。怒りと悲しみと憎しみが辺り一帯の大気を満たし、時間のスピードが遅くなり、重力が数倍に強まって感じる。
 街の雰囲気が緩かったのは、敵意を抱く人たちが一ケ所に集められてたからだったのだ。
「・・・国民的な儀式、国家規模のみそぎ、か」
 数百数千の腕とスマホが静かに流れていくのを見ながら、僕はつぶやき苦笑する。
『史上最凶最悪のテロリスト』に向けて圧縮された国民感情は、僕が銃殺されると同時に、爆発的に開放されて空へと昇華するんだろう。
 並木が切れて処刑場───オリンピックスタジアム跡地の外郭が見えてくる。歩道にいたのと同じくらいの群衆が周りを囲んでる。B‐GUNシステムで焼かれたドーム東側の大屋根と観客席の残骸は綺麗さっぱり撤去されてて、その跡に巨大な3Dスクリーンが設置されている。会場に入れなかった人たちにも処刑を楽しんでもらおうという配慮だろう。スクリーンの下には屋台が出ていて、どの店にも行列ができている。ホットドッグを食べてる子供たちを見て、美味そうだな、と唾を飲んでしまう。
 トレーラーがスタジアムの外周を廻る。車道に溢れ出した野次馬たちを警察官が押し戻して道を開ける。地下駐車場の入り口にさしかかると、フラッシュを外した報道カメラのシャッターが一斉に切られ出し、いくつもの空撮ドローンがコンテナに寄ってきてホバリングする。人のどよめきと風の音が混ざり合って強化ガラス越しにふおおおと唸る。
 スロープを降りて駐車場に入ると嘘のように静かになる。
 前後を固めたパトカーから、警棒型のスタンガンを手にした私服刑事たちが降りてきて、トラックの周囲を取り囲み、数人がコンテナに入ってくる。鎖で床と繋げられてる手錠と足錠の両方を外し、あらためて後ろ手に手錠をかけて、コンテナの外へ僕を出す。それから駐車場奥のエレベーターに乗せられ地下三階で降ろされる。配管剥き出しの広い廊下をどこまでも延々と歩かされ、アスリートの控室に使われてたと思われるがらんとした部屋に入れられる。真ん中に一脚だけ椅子がある。刑事の一人が、座れ、と促す。腰を下ろした僕の周りを十人の刑事が取り囲み、他の数人の刑事たちが部屋を出て外から鍵をかける。
 ひゅう、
 と僕は息を吐く。
 処刑の時間までここで待つのか。
 椅子の背にもたれ、力を抜いて目を閉じる。
 しばらくするとドアが開いて中年の刑事が入ってくる。紙袋を差し出して、これに着替えろ、と指図する。受け取って中を見る。アメリカの囚人服そっくりなオレンジの綿服の上下が入ってる。
「これじゃ駄目なの?死刑囚の服って自由なんだろ?」
 着ているフード付きのジャージの胸を指でつまんで僕は訊く。
 刑事は答えない。無視してる。
 きっと一般の人間が撃ち殺される印象にしたくないんだろう。
「わかった。着るよ」
 手錠を外され、十人の刑事たちに拳銃で狙いをつけられながら、囚人服に僕は着替える。
 思ったよりも悪くない。
 てか、オレンジけっこう似合うかも。
 中年の刑事がまた後ろ手に手錠をかけて部屋を去る。
 さらにしばらくたってから、刑事の一人のスマホが鳴る。はい、と答えて通話を切る。そして僕に向かって言う。
「立て。刑場へ移動する」

 すでに処刑の式典が始まっているスタジアムのトラックへ向かって、刑事たちと一緒に長々とした広い廊下をふたたび歩く。出口の光と風鳴りと音楽とざわめきの反響が近づいてくる。
 ゲートを抜ける少し前で刑事たちが足を止め、僕も止まる。アナウンスされるまでちょっと出待ちをするんだろう。
「───では、これより処刑の儀に移ります。日本国史上最凶の犯罪者、草薙マリオ容疑者の入場です」
 まるでメダルホルダーのアスリートであるかのように司会者が僕の名前をコールしたタイミングで、スタジアム内の巨大スピーカーからバッハのトッカータが流れ出し、刑事たちが歩き出す。
 ああ、ストコフスキーじゃん、これ好きだ、
 と思いながら僕も歩き出し、風の渦巻くスタジアムへ出る。
 真っ先に目に飛び込んできたのは───巨大な岩だ。
 メキシコの処刑岩に似せて作られた鋼鉄製のモニュメントが、トラックのインフィールドに組み上げられた祭壇の上に鎮座しており、そこへ向かって広々とした階段がゆるやかな角度で伸びている。祭壇の表面には細密な意匠がびっしりと刻み込まれており、かつての『飛頭蛮』の外壁の装飾を僕は思い出す。アステカのピラミッド───古代の生贄の祭壇に雰囲気が似せられてるのは、黒桃がデザイナーにそうしろと指示して作らせたからだろう。
 トッカータのリズムに運ばれるようにして歩を進める。
 パノラマが拓けるように刑場全体が見えてくる。
 スタジアム東側の観客席跡には、ねじ曲がった鉄骨や溶けた人体や液化した金属が流れ込み混ざって固まったマグマだまりが、手つかずのまま残されている。きっと公開処刑の劇的効果を高めるための演出だろう。処刑後にここを聖地にしたい黒桃のプランが透けて見える。
 無傷で残った西側の観客席は満席になっている。一万対を超える突き刺すような視線を全身で受けながら、全員テロ犠牲者の遺族だな、と直観する。
 直線レーンに並行してセットされてるレールカメラが、処刑台の階段へ向かって歩く僕の姿を撮影し、その映像が巨大ビジョンと3Dスクリーンに映し出される。すべての日本国民と世界の数億の人たちに、自分の一挙一投足をじっと見つめられているのを感じる。
 登り口で刑事たちが立ち止まる。後ろの奴が肩を押し、ここからは一人で行け、と促す。
 広くて緩やかな階段を踏みしめるようにして僕は登る。
 処刑岩のレプリカの前に着くと、そこで待ってた二人の男が僕の手錠の鍵を外す。それから岩の真ん中にある、大の字型に削り込まれた平らな部分に僕を押しつけ、両の手首と足首をストラップで縛って固定する。
 はりつけ───ルビーが銃殺された時とまったく同じ格好だ。
 びょうびょうと鳴る風に吹かれながら、顔を上げて正面を見、ぐぐぐ、と視野をズームする。
 北側のゲート上に新設された要人席の真ん中の、背もたれの長くて大きな椅子に、黒桃元首が座ってる。余裕しゃくしゃくの表情でゆったり僕を眺めてる。
 白装束の男たちが処刑台から立ち去るのと入れ違いに、ライフルを手にした男たちが西側ゲートから行進してきて、トラックの真ん中で三列横隊になり、磔られてる僕と向き合う。
 百挺の『紅いライフル』シリーズを作り出すための百人の銃殺隊だ。
 僕は啓司ライトナーの顔を探す。
 いた。
 警視庁の留置所で言ってた通り、最前列の真ん中だ。
 左の顎と目の周りが青い。殴り合った傷が治ってない。
 まあ二週間しかたってないしな、紅い拳銃が体に入ってる僕みたいにはすぐ治らない、と思っているうちにトッカータが終わって、最後の一音がちぎれたようにスタジアムに残響する。
 さあ───処刑の始まりだ。
 黒桃元首が要人席中央に設置されてる演台に立ち、銃殺前のスピーチを始める。
「極悪非道のテロリスト・草彅マリオを世界配信で公開処刑する前に、すべての日本国民に伝えておきたいことがある」
 スタジアム内の観客と外の群衆たちが静まり返る。
「拉致され殺害されたと思われていた甲斐美猟官房長官の生存が、一週間前に確認された。心身の健康を回復して、彼女は今この会場に来ている」
 要人席への入り口がクローズアップで巨大ビジョンに映されて、SPたちに両脇を護られ、ダークスーツを身にまとった甲斐官房長官が現れる。
 観客と群衆たちがどよめく。啓司ライトナーが目を瞠る。
 青みがかった黒髪、漆黒の瞳、陶器のように艶やかな肌、桜色に燃える唇───容姿にまったく変わりはない。二ヶ月前のままの美猟だ。『魂の部屋』という時間のない場所に囚われていたので当然だし、間違いなくガルシアの亡霊が憑依しているだろうけど、それでも僕は安堵する。彼女と再会できたことに深い喜びと安心を感じる。
 驚きに満ちた歓声がしばらくの間収まらない。黒桃が降りた演台に入れ替わって美猟が立つ。そして万雷の拍手が治まるのを待ってから、滑らかに喋り出す。
「・・・今日、この場に立てることを、本当に嬉しく思います。わたしが拷問され、殺害されるところを記録した動画が配信されましたが、あれは画像ソフトで加工された精巧なフェイクでした。監禁場所から逃げ出した私を探し出せなかったテロリストたちが、似た女性を捕まえてきて、その人を拷問し、殺害した映像に手を加えて編集したのです。公安警察に保護されたことをしばらく秘密にしていたのは、草彅容疑者が逮捕され、危険が完全に去る時を待っていたからでした。元首と公安当局の御心遣いに感謝します。身代わりに命を奪われた女性と、御遺族の方々に対しては、心から哀悼の意を捧げさせていただきます」
 情感を込めて言い終えてから、美猟が深々と頭を下げる。
 再び拍手が鳴り響く中、黒桃が近寄り、美猟からマイクを渡されスピーチを引き継ぐ。
「理不尽に命を奪われてしまった女性には、日本国民を代表してこの場で冥福を祈りたい。現在、警視庁が全力を上げて女性の遺体を探している。発見され次第、御遺族に対してしかるべき手当をさせていただく。なお、官房長官は本日から国政の職務に復帰する。これまで同様、私と政権をしっかりと補佐してもらう」
 女性の遺体は見つからないだろう、と神妙な顔つきで座席に着いた美猟=ガルシアを見ながら僕は思う。そんな人間はどこにもいない。あの動画は『魂の部屋』でガルシアが作ったフィクションだからだ。
 黒桃が高々と右手を上げる。銃殺隊の指揮官が号令を飛ばし、狙撃手たちがライフルを捧げ持つ。観客と群衆が静まり返り、凛とした声で黒桃が叫ぶ。
「では、これより、新生日本の明るい未来と、テロ犠牲者の魂の安寧を祈って、反政府組織のリーダーである、草彅マリオを処刑する!」
 マイナー調のファンファーレがスピーカーから鳴り響く。要人席の政治家や財界人たちが起立して、観客たちもそれに倣う。
 空の雲が走るように流れ、激しい風が吹きすさぶ中、二万対の瞳が処刑岩のレプリカにはりつけられた僕を見る。
 僕は視野をズームする。真摯な表情の美猟の背後に、青白くて大きな亡霊の顔が浮かび上がって笑ってる。
 本当にシナリオ通りの結末に、僕と、美猟と、世界のすべてを、集約させてたどり着かせやがった───さすがは世界の管理者だ。
 でもここからは先は、思い通りになるかどうか、分からないぜ。
 鼓動を高まらせ、呼吸を弾ませながら、凶暴に僕は笑う。
「構えっ!」
 銃殺隊の指揮官が号令する。
 百人の狙撃手がライフルを構え、銃弾を薬室に送り込み、三十メートル先の処刑台に磔られてる僕の体を狙う。
 瞳をギラギラ光らせた啓司ライトナーのライフルが、額の真ん中をしっかりポイントしているのが分かる。政治家や財界人や著名人たちが、二万人の被害者遺族たちが、3Dスクリーンを見ている群衆が、中継を視ているすべての日本国民が、息を詰めて僕の死を待ち望んでいるのが伝わってくる。
 あと数秒で百発の弾丸が僕を砕いてバラバラにする。それまでに美猟がアリゾナの湖のほとりで打ち込んでくれた洗脳のコマンドが、必ず発動するはずだ。
 バグン・バグン・バグン・バグッ、
 と爆発しそうに心臓が脈打つ。
 ハァ、ハァ、ハッ、ハ、
 と呼吸が速まるのを抑えられない。
 大声で叫んで暴れ出したい衝動に何度も襲われる。
 美猟のコマンド、ステルスコマンド。
 早く、早く、起動してくれ。
 毅然とした国家元首の表情を浮かべている黒桃、僕の頭を撃ち抜くことに意識を集中する啓司ライトナー、憑依されて憂国の政治家の表情を作らされてる美猟、その背後で揺らめくガルシアの亡霊───それぞれの顔が連続して巨大ビジョンに映し出され、続けて処刑岩のレプリカで磔にされてる僕の姿が、レールカメラで滑らかにトラックアップされていく。
 大写しになった自分の顔に死が刻み込まれてるのを僕は見る。
 それで頭と心のタガが外れる。
 いやだ、いやだ、いやだ、いやだ!
 メチャクチャに体をねじって僕は暴れる。激しく叫ぶ。
 うわがぐぉいやあぐ、があぁああああああぁぁ!
 両手両足を拘束している特殊素材のストラップはびくともしない。
「射撃、よおぉい!」
 僕の絶叫をかき消すように指揮官が号令し、銃殺隊に向かって腕を上げる。
 結局何もできなかったな、では約束通り命をもらう、という凶暴な喜びの表情を隊列の真ん中で啓司ライトナーが浮かべる。
 それを見た瞬間、僕の中で、どんなに危険な状況でも(森ビルの屋上で黒桃に撃たれて、右手と頭を溶かされた時にも)起きなかったことが起こる───記憶の走馬灯が回りだす。生まれてから今に至るまで自分が経験した全てのことが、パノラマのようにひとつながりになって、滑るように目の前を流れていく。
 びっくりして僕は叫ぶのを止め、体から力を抜いて、ああこれは駄目だ、と思う。
 すべての記憶の再生が終わって、頭の中が真っ白になる。
 誰か。
 自分が終わるコンマゼロ秒の刹那、心の声で僕はつぶやく。
 誰か、紅い拳銃で、
 代わりに僕を、撃ってくれ。

「わかった」

 そう答える声を、自分自身の中に僕は聴く。
 指揮官の腕が下ろされる。
 狙撃手たちの百本の指がライフルの引き金を絞り切る。
 百本のバレルから百発の弾丸が回転しながら発射される。
 それは僕には到達しない。
 空中で蒸発して消えてしまう。
 百発の銃声がスタジアムに反響して消えていく。
 黒桃も、美猟も、他の政治家たちも、中継スタッフも、啓司ライトナーも、他の銃殺隊員たちも、観客や外の群衆も、誰ひとり声を発しない。何が起きたか分かってない。
 僕も呆然と固まってしまってる。
 我が身に起きたことが信じられない。
 巨大ビジョンに映し出された僕の胸に、鮮やかな血の染みがゆっくりと広がる。それは撃たれた傷に見えてるだろう。中継スタッフが射撃時の録画をスローモーションで確認すれば、シャツを破って飛び出した拳大の血の塊が、空中で百発の散弾となり、発射されたライフル弾を撃ち落とすところを観るだろう。
 もちろんやったのは僕じゃない。
 僕の中で僕に返事した奴だ。
 そしてそいつが現れる。

びちっ───すぷぷぱっ。

 何かが切り裂かれる音を僕は聴く。そして巨大ビジョンの中で自分の顔がぱっくり裂けていくのを見る。
 額から鼻先、唇から顎の先へと、顔の中心にメスで切ったような切れ目が入り、ぷつぷつと血の球が浮き上がる。それは首で止まらず、胸からみぞおち、腹、臍、性器まで降りていく。両腕と両脚も真ん中で同じように縦に裂け、両手の甲と両足の甲、二十本すべての指の背にまですっぱり縦に切れ目が入り、そこから僕は裏返る。
 裂け目そのものがせり出してきて、顔や胴や腕や脚の新しい皮膚になり、それまでの皮膚が押しやられるように体の内側へ畳み込まれる。。
 完全に裏返りきった僕の体は真紅の血の膜で包まれてる。その血は液体化して体の中を巡っていた紅い拳銃だ。

「ぼくが、かわりに、うってあげる」

 長い間沈黙していた『三歳の怪物』───幼児期の僕の人格が謳うように無邪気な口調で言う。
 同時にアリゾナの湖のほとりで美猟に打ち込まれた洗脳のコマンドの封印が解除され、僕を守るために彼女が何をしてくれていたかを、僕は知る。

『マリオが殺されそうになったら、君が実体化して守ってあげて』
『マリオが決めたことをできなくなったら、
君が代わりにやってあげて』
『それまではマリオの奥で、存在を消して眠ってて』

 それが美猟が打ち込んでくれたコマンドだった。
 まるでハードディスクをパーテーションで切り分けるように、美猟は僕の人格を割り、『三歳の怪物』を緊急時のバックアップとして隠しておいてくれたのだ。
「これで誰にもマリオの命は奪えないから」
 あれは、こういう意味だったのか───。
 不敵に笑った彼女を思い出し、僕は胸が一杯になる。
 拘束されてる手首と足首を『三歳の怪物』がずるりと引き抜く。物であると同時に魂でもある紅い拳銃で覆われた肉体を、物理的に捕まえておくことはできない。はりつけを解かれて僕は立つ。オレンジの綿服とアンダーウエアが紅い拳銃のエネルギーに触れたせいで燃え上がるように溶けてしまって、真紅の体が剥き出しになる。それが巨大ビジョンとスタジアムの外の3Dスクリーンに映し出され、政治家たちや銃殺隊員や中継スタッフや二万人の観客たちやスタジアムの外の群衆たちやテレビやスマホで配信を視ていた数億人が精神に深いダメージを受ける。目に映る現実を理解できず、あるいは理解することを拒み、脳が停止し、魂が気絶する───黒桃とガルシアの亡霊を除いて。
 『三歳の怪物』が要人席にいる黒桃の姿をズームする。目を剥いてこっちを睨みながら、スマホで何処かへ電話している。奴が通話を終えると同時に、頭上にエネルギーの収束を感じる。渦巻いて流れる分厚い雲の二十キロほど上空に強烈な熱反応の塊がある。
 B‐GUNシステムのドローンだ。
 万一に備えてスタジアムの上空に配備させていたんだな、と僕が思うと同時に『三歳の怪物』が空へ向かって右手を伸ばす。掌にはすでに紅い拳銃のバレルが長々と生えている。
 うおおおおおおぉぉう、
 とトラックの中央から叫び声が上がる。
 おそらくは世界で一番最初に『三歳の怪物』と紅い拳銃に覆われた僕を現実として受け入れ、思考停止から抜け出した啓司ライトナーが、銃殺隊の最前列の真ん中で獣のように吠えている。
「ドン・レッ・ヒィィイム!シュウゥゥゥゥト!」
 叫びながら啓司がライフルを構えて『三歳の怪物』をセミオートで撃つ。飛んできた弾丸を左手で掴んで止めて溶かしてしまってから、『三歳の怪物』が高空へ向かって紅い拳銃を発射する。

ぢゅん、

 と細く絞り込まれた桃色のエネルギーラインが射ち出されて、発射体制に入っていたステルスドローンを直撃する。四散する機体の熱反応を渦巻いて流れる雲を透かしてクローズアップした視野で僕は見る。
 右手から生えた紅い拳銃のバレルが巨大ビジョンに映し出され、カットが変わって『三歳の怪物』の美しくもグロテスクな顔がアップになる。
 それでようやく数億人の人たちが「自分の視ているもの」を見る。思考停止が解除され、物でありつつ魂でもあるこの世のものならざる存在を、まともに認識してしまったせいで心が破裂してしまう。目を見開き、大口を開け、おおおおおおおおおおと絶叫する。スタジアムの観客席で、場外の3Dスクリーンと世界中の街頭ビジョンの下で、駅や空港やオフィスや教室や病院や地下街やショッピングモールで、電車の中や車の中で、自宅のリビングやバスルームやベッドで、おおおおおおおおおと感電したように叫び、棒立ちになるかへたり込んでしまう。
 啓司ライトナーと正気を保てた数人の狙撃手たちが『三歳の怪物』をフルオートで撃ちまくる。飛んでくる数百発のライフル弾を『三歳の怪物』がエネルギーラインの散弾を発射して空中で迎撃し、続けてもう一発散弾を撃って、百人の狙撃手が抱えている百挺のライフルを溶かしてしまう。
 やった!
 『三歳の怪物』の中で僕は震えて息を呑む。
 これで紅いライフルシリーズ───百本の新しい『呪いのバトン』が作られることはなくなった、公開処刑そのものを無意味化することができたんだ!
 『三歳の怪物』が要人席をクローズアップする。
 血の気の失せたどす黒い顔で黒桃がこっちを睨んでる。カメラが入っていなければ青い拳銃で溶かしてやるのに、と火を吹くような目で語ってる。その隣りに立つ美猟の頭から、炎のようにガルシアの亡霊の顔が吹き出してる。笑みが消えているだけでその表情に動揺はない。
 そうだ、まだだ、と僕は思う。
 黒桃の野望を砕いただけだ、まだガルシアのシナリオの中にいる。
 急げ、急げ、『三歳の怪物』。
 早く、早く、僕を撃て。
 『三歳の怪物』が紅い拳銃のバレルを顎に押し当てる。
「ワッ・ザ・ヘル・ドゥーユ・ウオォォォント!」
 ハンドガンを構えて駆け寄りながら啓司ライトナーが大声で叫ぶ。
 おお。やっぱこいつ凄いわ。
 心の底から嬉しくなって僕は啓司に笑いかける。
 『三歳の怪物』が紅い拳銃の引き金を引こうとする。
 その刹那、

「させるか」

 という声がしてガルシアの亡霊が『三歳の怪物』に憑依する。
 同時に、成層圏で地球の半分を覆っていたルビーの魂が、アリゾナの処刑岩で約束したとおりに僕の中へ収束し、『魂の檻』となってガルシアを捕らえようとする。
 頼むぞ、と僕は思う。コンマ数秒の間でいい、『三歳の怪物』が紅い拳銃で僕を撃つまでガルシアを抑えておいてくれ!
 しかし───ルビーは『檻』にならない。
 寸前でやめる。

「できない」

 え。

「君と『三歳の怪物』を切り分けているパーテーションを超えられない」

 ええ?

 「美猟の洗脳のコマンドが強すぎる。
 『檻』になるにはコマンドの解除が必要だ」

 そんな───嘘だろ!

「残念だったな、マリオ・クサナギ」

 洗脳のコマンドのパーテーション超しにガルシアの亡霊の意識が伝わる。

「『三歳の怪物』に憑依することで、
君の自殺とルビーの『檻』の両方をブロックすることができる。
こうなる確率は1パーセントもなかったが、
ゼロではないので準備はしていた」

 衝撃で意識が飛びかける。
 ルビーの『檻』のことだけでなく、切り札のコマンドの中身まで、全部読まれていたなんて───。

「この世界で起きるすべてのことは、
私のシナリオのバリエーションに取り込まれて調和する。
百挺のライフルを溶かされたなら、
銃殺隊が携帯しているハンドガンで君を撃たせて、
百挺の紅い拳銃を作り出せばいいだけだ。
物理現実が存在し続け、人間が人間であり続け、
君が君であり続けるかぎり、
生成と破壊の車輪の外へ逃れることは、絶対にできない」

 勝ち誇ったように響いてくる言葉に絶望的に打ちのめされながら、そこに恐ろしく重要な何か、この窮地を突破するための鍵が含まれていることに僕は気づく。でも一体それが何なのか、はっきりと掴むことができない。
 あああ、ちくしょう、しっかりしろ。
 今、奴は何て言った?
 シナリオの外へ、車輪の外へ、逃れられないのは、何故だって?
 人間が人間であり続け、君が君であり続ける限り。
 僕が僕であり続ける限り。
 もしも、僕だけでなく、すべての人間が、『檻』の中に閉じ込められてるとしたら───。
 雷のような閃きが落ちてくる。
 僕はルビーの魂に訊く。
「草薙マリオという人間のすべてを、僕から引き剥がすことはできないか?」
 ルビーとガルシアの両方が慄くような波動を発し、それで僕は自分の洞察が核心を射抜いたことを知る。
 ガルシアが瀕死の荒野で幻視した破壊と生成の車輪の回転、生前のルビーが心に抱いた世界と自分を同じにしたい渇望、死の瞬間に人間の中から溢れ出す愛を見たがる『三歳の怪物』───すべて、ガルシアがガルシアであったこと、ルビーがルビーであったこと、僕が僕であったことから紡ぎ出された物語だ。経験の物語を呪文のように心と体に刻み続けることで、僕は、僕たちは、自分という物語の『檻』に自分を閉じ込めてる。そういう意味ですべての人間は他の人間にとっての『呪いのバトン』だ。
 ガルシアはそのことを知っている。
 奴はシナリオを書いてるんじゃなく、僕が、僕たちが、すべての人間が、自分が自分であるために書いた物語を読んでるんだ。
 読んで、束ねて、取り込んで、バリエーションとして編集してる。
 だからガルシアのシナリオの外へは、どんなにあがいても出られない。自分を生きようとすればするほど、その物語をシナリオのページに書き加えて囚われることになる。
 ガルシアのシナリオの外へ出るには、自分の外へ出ないといけない。
 僕が、僕という物語を脱ぎ捨て、誰でもなくなってしまうことで、ガルシアのシナリオは無意味化する。
 理不尽で馬鹿げた話だけど、きっとそれで間違いない。
 はは、ちくしょう───ふざけやがって。
 怒りで腹の底を焼きながら凶暴な笑みを僕は浮かべる。
「どうだルビー、できないか?」

「できる」

 ルビーの魂が返事する。その声は慄きで震えてる。

「しかし、お前はすべてを忘れる。
紅い拳銃のことも、美猟のことも、自殺しなければならない理由も、
言葉や概念や記憶と一緒に、すべて引き剥がされてしまって、
何もすることもできなくなるぞ」

「でも、意志は残るんだろ?」
 僕は問う。
 百五十年も成層圏に浮かび続け、殺戮のメディアに成り果てたことで、意識と記憶を失いながらも、ブランカに逢いたい、もう一度いっしょに生きたいという気持ちが、ルビーの中に残ったように。
 ぱっ、
 とルビーの魂が輝き、震えを止めて、静かに答える。

「ああ。残る。残ってる」

「なら、記憶や言葉を失ったって、自分で自分を撃ってみせるさ───やってくれ、今すぐに!」

アルトゥよせ!」

 ガルシアの亡霊の激しい動揺が、洗脳のコマンドのパーテーション越しにスペイン語の叫びとして伝わってくる。奴が取り乱すところを初めて見る。

「黒桃!青い拳銃でクサナギを撃て!」

 ガルシアが黒桃に指図する。
 日本の国家元首が、怪物化したテロリストが使った武器とそっくりな拳銃を使うところを、世界中に配信されてもいい、膨大な記憶の上書き作業が発生しても構わない、発射と同時に憑依を解くから、私に構わず撃って溶かせ、
 という言葉の塊を圧縮して黒桃の脳内へ叩き込む。
 やばい、
 と僕が目を向けた時にはもう、黒桃が青い拳銃を右手から出現させ終えて、要人席の演壇の上でこっちを狙って構えてる。
 国家元首の仮面の下からドス黒く滲み出すようにして黒桃の本性の顔が顕れてる。それは八年半前とそっくり同じ、代官山のビルの一室に僕を監禁して同志になれと脅し、断ると利用し尽くした上で殺すと躊躇なく言い切った時の、ナルシスティックで冷酷で狭量で下卑た表情だ。
 ざざっ、と全身の血の気が引く。今撃たれたらガルシアの言う通り、僕とルビーと『三歳の怪物』の全員が溶けて蒸発する。
 僕への殺意を開放できる喜びで瞳を光らせながら、黒桃が青い拳銃の引き金にかけた指を引き絞ろうとする。
 だめだ、撃たれる!
 そう思った瞬間───奴の背後に人影が立つ。
 ぴひゅうぅぅ。
 鋭いホイッスルのような音が響き、黒桃の右の首筋から血が吹き出して風に舞う。
 あっ、と思って僕は視野を反射的にズームアウトする。
 演壇の上、黒桃の後ろに、髪をなびかせて美猟が立っている。
 横に振った右手の先で光を弾いたのは、小さな刃───オリンピック・スタジアムのテロの時、黒桃に打ち込まれたコマンドに動かされ、僕を脅すために彼女が自分の首筋に当ててた極小のカランビット・ナイフだ。
 僕と、ルビーの魂と、ガルシアの亡霊が息を呑む。
 憑依を解かれて、自我を取り戻した美猟が、僕への狙撃を阻止するために黒桃の頸動脈を切ったのだ。

「ばかな!こんなシナリオの分岐はない!」

 ガルシアが甲高い声で叫ぶ。
 驚愕の表情を浮かべ、首筋を押さえて崩折れていく黒桃の体を、美猟が抱き止め演壇に横たえる。すがるようにしがみついてくる左手を払い、右手から青い拳銃を奪う。立ち上がって僕の方を見る。拳銃を持ち上げて僕に向ける。
 しゅん、と青い拳銃のバレルが伸びる。要人席から処刑台までの三百メートルを一瞬で飛び越え、『三歳の怪物』の額に刺さり、僕に到達して、意識を読み取り、直後に元の長さに戻る。
 おおおおおおおお、と吠え続けている政治家たちを背にした美猟が、僕のやろうとしていることを理解し、瞳を煌めかせながら微笑む。
 やって、
 とその目が促す。
 草薙マリオを引き剥がして、紅い拳銃で自分を撃って。
 言葉と記憶を失くしても、わたしがガイドしてあげるから。

「だめだ、だめだ、だめだ!」

 引き裂かれるような声でガルシアが喚く。

「言葉が、記憶が、物語こそが、わたしで、お前で、世界なのだぞ!
失くなれば、自分が消えてしまう!
本当の死、本当の滅びだ!
どうしてそれが分からないんだ!」

 洗脳のコマンドのパーテーションを破ろうとしてガルシアが暴れるけれど、『三歳の怪物』がぴったりと張りついて憑依を解かせない。大きく口を開いて歪め、左目の義眼を裏返らせて、取り乱す亡霊の顔つきを見ながら、初めて人間らしさを感じ、笑いながら僕は意志を伝える。
 分かってる、だからこそ壊すんだ、
 本当の死と滅びの、向こう側へ突き抜けるために。
 黒桃が殺される一部始終を、おそらくはスタジアムでたった一人だけ正気で見ていた啓司ライトナーが、ハンドガンを握った手をだらりと下げて、呆然とした顔で僕を見ている。目を合わせて僕は別れを告げる。
 それからもう一度、美猟を見つめる。
 ありがとう。
 じゃあやるね。
 暴力の果てでまた逢おう。
 瀕死の黒桃が自分の体を這い上がってくるのにまかせながら、強風の中で美猟が頷く。
 熱いもので胸を満たしながら、ルビーの魂に僕は言う。
「剥がしてくれ。さようなら」

「アディオス」

 音であり、光であり、温もりでもある声でルビーが答える。

パラアァァァァやめろおおおぉぉぉ!」

 ガルシアの亡霊が絶叫する。
 ぴし、
 と『三歳の怪物』の顔が真ん中から縦に割れ、裂け目が左右に広がっていくのが、巨大ビジョンと3Dスクリーンに映し出され、会場内外の数万人と世界の数億人をさらに吠えさせる。
 『三歳の怪物』の全身に走った裂け目は、しかし今度は裏返ることなく、べりべりと音を立ててまくれ上がる。『三歳の怪物』が、ガルシアの亡霊が、コマンドのパーテーションが剥がれてまくれる。ルビーの魂が自分自身を剥がして、草薙マリオの人格を剥がす。それらすべては圧縮されて右手首へ向かって巻き取られていき、紅い拳銃に吸収される。
 そうしてすべてが剥ぎ取られた後に、言葉と記憶を失くした僕───誰でもない人間が現れる。
 自分が誰で、今がいつで、ここがどこだか分からない。
 ただ何かを、しよう、しなければならない、という燃え上がるような意志がある。
 遠くに誰かいる。
 誰だろう───思うと同時に大きく見える。
 誰で、何なのか、分からない。まっすぐこっちを見つめてる。もうひとり、別の誰かがそいつに下にいるけれど、それも分からない。
 何かがバクバクと自分の中で脈打つ。それで、したいこと、しなければならないことが、そいつと関係しているのが分かる。
 そいつが動く。何かを持ち上げる。
 感じの違う光り方だけど、自分も似たものを持ってる。
 動きを真似る。持ち上げる。バクバクという脈動が早くなる。
 そいつが光るものを自分に向ける。
 真似をする。くっつける。脈動がさらに激しくなる。
 切ない。熱い。狂おしい。

「まりお」

 そいつが音を出す。分からない。
 なのに、ぶるる、と震えてしまう。

「いっしょ・に・うって ひきがね・を・ひいて」

 そう音を出す。分からない。破裂しそうに脈動が高まる。
 すがりついてる奴が出してる音には動じず、自分にくっつけた光るものに、そいつがぐっと力を入れる。
 真似をする。力を入れる。
 そいつが頷く。
 音を出す。

「またね」

 分からない。
 熱いものがこみ上げる。
 光るものにそいつが力を加える。

ちゅん、

 と鋭い音が響いて、光るものから輝きが放たれ、そいつが小さくなってしまう。崩折れる。別の奴も静かになる。
 あたりが滲む。熱いものが流れる。
 あれだ───あれをやるために、自分はここに立っている!
 躊躇せず、同じように、光るものに力を加える。
 その中から音がする。

「ぼうりょく の はて に さく はな を みてこい」
「あい を だして」
「おまえが まもれよ」

 分からないけど分かった気がして、ああ、と自分も音を出す。
 がちり、と力を加え切る。
 光と熱が爆発する。

 そして僕は世界の裂け目になる。


<続く>

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