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ルビー・ザ・キッド Bullet:25


 ネイティブのおばあさんにお別れを言い、ピックアップトラックを見送ってから、荷物を整理し、瞬間移動で僕とハルは岩穴住居を去る。
 カリフォルニア州の武市先生の屋敷の庭に現れて、エントランスで待っててくれてた先生にハルを引き会わせる。先生がハルにハグをして、それでハルが泣いてしまう。号泣してへたり込んでしまったハルを二人で屋敷の中へ入れる。特殊なミリタリーウェアを着込んでいるハルの姿を見て、管理人の老人と家政婦さんたちがギョッとする。
「この娘のことは他言無用ね」
 先生が彼らに釘を刺す。
 それから泣きじゃくっているハルをバスルームに連れていき、コンバットスーツとブーツを脱がせて、下着にしたところで僕は外れる。先生がハルの身体を洗い、一時間ほど薬湯に浸からせ、体を拭いて服を着せる。パーカーとタイトスカートを身に着け、下ろしたばかりのスニーカーを履き、すっかり綺麗になったハルを、
「リーブ・イッ・トゥユ」
 と言って先生が僕に引き渡す。
 用意してもらってた部屋へ手を引いてハルを連れて行く。ベッドに座らせると横になりたがるので、スニーカーを脱がせて寝かせ、掛け布団をかけてやる。
「・・・眠っていい?」
 だいぶ荒みの和らいだ表情でハルが訊く。
「好きなだけ───腹減ってないか?」
 ハルが小さく首を振り、枕に顔を埋めて目を閉じる。
「寝つく、まで・・・そばに・・・いて・・」
 言い終えると同時に眠りに落ちる。ようやくリラックスできたみたいで、僕は心底ホッとする。
 疲れが出たのか僕も眠くなり、隣りの部屋のベッドに潜り込む。夕方に一度目を覚まし、シャワーを浴びさせてもらってから、ベッドに戻ってまた眠る。目を覚ますともう夜明け前で、頭も体もすっきりしてる。ハルの様子を見に行くと、まだ滾々こんこんと眠ってる。顔を覗き込んだタイミングで、ぐるるり、と僕の腹が鳴り、ぱちっとハルの目が開く。
「おはよ」
 苦笑しながら僕は言う。
「・・・おはよう」
 ハルが答える。
 中庭に面した大食堂で先生と三人で朝食をとる。
 プレーンオムレツとベーコンとサラダとトーストとヨーグルトとコーヒーが出る。オムレツが美味しかったのでトーストと一緒におかわりする。パンケーキの生地を混ぜてんだな、今度作ろ、と思いながら平らげる。
 昨日から続いてる振りそうで降らない曇り空の隙間から、斜めに食堂に差し込んでくる柔らかい朝日を浴びながら、家政婦さんのつぎ足してたコーヒーを飲みつつ先生がハルに言う。
「この後、わたしとマリオの二人で、ペンタゴンの上層部と交渉してくるから」
 そして昨日話して決めたこと、今後のことをハルに伝える。
「・・・あたしと、マリオと、先生と、三人で暮らすことになるのかな?」
 無心な目つきでハルが訊く。
「それは交渉の結果次第だね」
 先生が答えて、ハルが目を伏せる。
「なるといいな・・・」
 僕と先生は目線を交わす。
 どんなに交渉が上手く運んでも三人一緒に暮らすことはない。先生にはロスでの仕事があるし、僕は厳重な監視下に置かれたエージェント生活になるだろうから。
 ハルは何らかの医療施設に収容される可能性が高い。
 しかしそれもほんの一時───僕が公開処刑の直前に紅い拳銃で自殺するまでのことだ。
 それでもハルの言うように、一週間でも二週間でも、この屋敷で三人で暮らしてみたい、先生やハルの絵を描いてみたいし、僕の料理を二人に食べてもらいたい。
 そんな絶対に訪れない未来に対して、強い郷愁を僕は感じる。
「昨日の夜、二人が寝ている間に、NSA国家安全保障局の上司に連絡をつけて、草彅マリオ本人を保護していること、エージェントとして働きたがっていることを、ペンタゴンに伝えてもらったの。今日の正午に現地へ行って話をする段取りになった。庁舎のあるバージニア州とは三時間の時差があるから、九時になったら瞬間移動ね」
 オムレツの最後の一切れを食べてから、先生が今日の段取りを話す。
「庁舎のどこに出ればいい?」
 米国大使館で国防長官と会った時のことを思い出しつつ僕は訊く。
「地下の駐車場を指定してきた」
 先生が答える。
「駐車場───」
 会議室や応接室じゃないのが引っかかる。
「先方がどんな態度で出てきても、こっちは言いなりにならないとね」
 クールな表情で先生が言う。
「わかってる」
 僕は頷く。今回の交渉の目的は、ガルシアのシナリオのバリエーションを生き切ることにあるんだから。
 気分が悪い、とハルが言い出し、それで朝食は切り上げになる。ハルを寝室に寝かせてから、先生の部屋へ行き、移動場所に指定されたペンタゴン庁舎の座標と、地下三階の駐車場の映像をパソコンで確認する。
「で、ハルのことなんだけど───管理人と家政婦たちに頼んではおくけど、短時間でも一人でここに置いておくのは、あの様子だと危ないかも」
「だね。ここから動かないよう、洗脳のコマンド打ち込んどくよ」
「よろしく」
 そう言って先生がやるせない表情になる。
「本当はハルも、マリオと一緒にエージェントの仕事について、アメリカ国籍を取ってしまうのが一番良いと思うんだけどね」
「うん。でも無理だよ」
 と僕は言う。
 それを強いれば今のあいつは命を断ってしまうだろう。
 僕はハルの部屋へ行き、ドアの前で立ち止まって紅い拳銃を実体化させる。シリンダーを開いて口元へ寄せ、

 自分で命を絶たないこと
 草彅マリオが迎えに来るまで、屋敷の外へ出ないこと

という二つのコマンドを吹き込んでから、ノックをして中に入る。
「紅い拳銃を使って、ハルが一人でいても大丈夫なようにしていきたいんだけど───いいかな?」
 ベッドの中でハルが頷く。
 僕は枕元へ行き、彼女の頭に銃口をそっと押し当てて、二つのコマンドを撃ち込んでやる。
 きゅっと目をつむっていたハルが、力を抜いて目を開き、
「行くの?」
 と幼女のような顔で言う。
「うん」
「気をつけてね」
 つぶやいて、また力なく目を閉じる。
 短い髪をそっと撫でてから、僕はハルの部屋を出る。
 自分の部屋で時間を潰して、九時三分前に先生の部屋へ行く。
 左脇に小型の拳銃を挿したホルスターを吊った先生が、ブルーブラックのスーツのジャケットの前を閉じながら僕に訊く。
「ハルは?」
「大丈夫です」
「よし・・・じゃ、行こっか!」
 先生が左手を差し出す。
 僕はその手を握り、右の掌から紅い拳銃のバレルを出して腿に突き刺し、駐車場の座標と映像をイメージしながら瞬間移動する。

 両足がコンクリートの床を踏む。
 車が一台も駐車してないガランとした駐車場に僕と先生は立っている。
 照明はほとんど落ちていて、あたりに人の姿はない。
 先生が僕を見る。僕は周囲を見廻し、気配を探る。
「───いる。コーナーの影や、柱の裏に」
 そうつぶやいた瞬間、たくさんの走る靴音が闇の中から近づいてきて、サブマシンガンを構えた男たちが僕らをぐるりと取り囲む。
 全部で二十人くらい。全員が米軍の兵士だ。
 ああ、と先生が呻き、両手を上げて足を広げる。
 別の兵士が先生に近づき、ジャケットの前を開いて先生のホルスターから拳銃を奪う。さらにもうひとりが左腕をつかんで、手首に黒いリングをはめる。
「あっ!」
 と思わず声を上げてしまう。
 それは、黒桃暗殺ミッションのときに僕がはめられた黒いブレスレット───衛星からの遠隔操作で圧力注射器が作動して、血液を破壊する殺人装置だ!
「このまま投降してもらう。紅い拳銃を使って抵抗したり、庁舎を破壊したりすれば、クミコ・タケチを射殺する。瞬間移動で逃げ出せば、ブレスレットの毒を使う」
 僕の後ろに立ってライフルを突きつけているこの場の指揮官っぽい白人の兵士が、低い声でゆっくりと言う。
 先生が左手首のブレスレットを見て、震える細いため息をつく。
「・・・わかった」
 僕は白人の兵士に向かって頷き、掌から出ていた拳銃のバレルを引っ込める───と見せかけて、隣りにいる先生のこめかみに突き刺し、脳内世界へ避難する。
 夕日に染まった教室の中で、僕らは息を整える。
「・・・先生・・これは」
「トゥー・オプティミスティック・・・黒桃も、ペンタゴン上層部も、わたしの読みよりずっと先を行ってたみたい・・・」
 悔しそうな口調で先生が言う。
「昨日、アプローチをかけた時点で、上層部はマリオとコンタクトしたら捕獲して日本政府に引き渡すことを決めていたんだ・・・でないとこの対応の素早さはない・・・わたしと合流してるのを知っていたとしか思えない」
「まさか。一体どうやって」
 いや、できる、と僕は思い直して唇を噛む。ハルに何らかのマーカーが着けられてて───例えばコンバットスーツとか───黒桃がペンタゴンにそれを教えれば
「でも・・・僕を黒桃に引き渡すことで、アメリカにどんなメリットがあるんだ?紅いライフルシリーズをむざむざ作らせるだけだけなのに」
 先生が皮肉に笑って首を振る。
「その方が早いって判断だろね。マリオを黒桃に処刑させ、ライフルシリーズを作らせた後で、黒桃と美猟を暗殺し、どちらかに憑依してるであろうガルシアの亡霊も抹殺すれば、紅と青の拳銃と紅いライフルシリーズのすべてが一気に手に入る」
 ああ、なるほど。草薙マリオを駒として使うより遥かに美味しい展開だ。
 悔しさで僕は歯ぎしりする。黒桃とペンタゴンの両方を舐めてた自分に腹が立つ。すぱん、と自分の頬を叩き、深呼吸を何度か繰り返す。
 すうっと頭が冷静になる。
 まずは脱出だ。この状況から抜け出さないと。
 僕は顔を上げて言う。
「このままカリフォルニアの屋敷へジャンプして、現実世界へ出た瞬間に、ブレスレットを撃って壊すから」
 先生が頷く。
「屋敷の次はどこへ逃げる?」
「逃げない」
 きっぱり答える。
「瞬間移動でペンタゴンへ戻って、紅い拳銃で庁舎の一部を溶かし、僕と、僕の関係者全員に、今後一切コンタクトせず、危害も加えるなと脅しをかける」
 チ、チ、と舌を鳴らし、机にもたれて先生が言う。
「無駄だよそれ。ペンタゴンの庁舎を溶かされたくらいでアメリカは要求を呑みはしない。すべての基地を潰されたって絶対テロには屈しない」
 諭すような口調で言われるけれど、僕は退かない。
「イエスと言うまで瞬間移動し続けて、アメリカ中の軍事施設を溶かして回る。それでも駄目なら、沖縄や東京や神奈川の基地もやる」
 先生が唖然とした顔をする。
「・・本気?」
 僕は頷く。
「ブラフじゃない。本当にやる」
「イエスって言わせるまでに数万人の軍人を殺して、数十万人の遺族を作り出すことになっても?」
「かまわない」
 断言する。
 僕が日本の処刑台に送られ、紅い拳銃で自分を撃って、世界に再構築をかけるまでの間に、『魂の部屋』に幽閉されてる美猟はもちろん、ハルも先生も絶対に死なせたくない───それができれば、本当のテロリストになってしまっても構わない。
 ふうう、と先生がため息をつく。
「一人で瞬間移動して、屋敷の人たちとハルを逃して」
「え?」
 唐突に言われてぽかんとなる。
 背中を向けて先生が言う。
「たとえ世界とすべての人間が再構築されるとしても、わたしには草彅マリオという殺戮兵器を暴走させない責任がある。前にそう言ったでしょ?」
 教壇に上がり、姿勢を正して、毅然とした声で先生が指示する。
「ここでわたしを捨てなさい。ハルだけ連れて逃げなさい。それでこの状況はブレイクできる。大勢を殺す必要もなくなる」
 言い終えて毅然とした表情で僕を見すえる。
 強いショックを受けながら僕は言う。
「嫌だと言ったら?」
「敵になる。政府の職員として君と戦う」
 即答される。
 ああ、と僕は呻く。
 先生は折れない、絶対に───真っ当で的確な判断だから。僕らがここで別れることでしか、僕とペンタゴンの衝突は回避できない。
 心を震わせて僕は言う。
「わかった、そうする・・・でも、黒いブレスレットは外しておくから」
 厳しい顔のまま先生が頷く。
 僕は紅い拳銃を操作して、物理現実にある二人の肉体をペンタゴンの庁舎の屋上へ飛ばす(駐車場にいた兵士たちには、僕が先生のこめかみに拳銃のバレルを刺した瞬間、二人の体が消失したように見えただろう)。それから拳銃を先生の頭から抜き、現実世界へ意識を戻して、左手の黒いブレスレッドを撃つ。溶けて外れた黒いリングがコンクリートの床を、からりり、と転がる。
「ありがとう。すぐに行って。管理人にメッセージしておくから」
 スマホを出してタップしながら先生が言う。
 その姿を僕は目に焼きつける。アッシュゴールドのストレートヘアに包まれた蠱惑的な顔と、ブルーブラックのスーツを纏ったしなやかな体が滲んでぼやける。
 家族みたいになれたこの人と、こんな別れ方をしなくちゃいけないのか?再構築後の世界では出会えないかもしれないのに!
 送信し終わった先生がこっちを見、小首を傾げて笑顔を見せる。
「ノ・ニード・トゥ・クライ。元気でね」
「はい!」
 返事して僕も笑い返す。
 瞬間移動をすぐには使わず、拳銃のバレルを掌から出し、ジェット噴射のようにエネルギーを吹いて僕は空へ浮き上がる。できるだけ長く先生を見ていたい。
「マリオちゃんに会えて、面白かったよ!」
 どんどん小さくなっていく先生が大声で叫んで手を振る。
 その時、屋上の一番端にある出入り口のドアが開いて、武装した数人の兵士が現れ、先生に向かって走り寄る。先生が振り返って彼らを見、両手を上げて投降する。一人の兵士が自動小銃を向ける。
 たたん、
 と乾いた銃声が響く。
「うああっ!」
 僕は叫び声を上げる。
 どうして撃った───投降したのに!
 しゃがみ込むように倒れた先生を、兵士たちが取り囲む。その内の一人が僕に気づき、何か言いながら発砲する。弾丸が顔のすぐそばを掠める。マシンガンを搭載したスナイパー・ドローンが四機、僕に向かって飛んでくる。きっと上空の衛星からもロックされてしまっただろう。
 武市先生は動かない。
 視野をズームアップして横顔を見る。
 目は半眼で呼吸が浅い。血溜まりがどんどん広がっていく。
 ああ、ああ、ああ───、
 先生!
 兵士たちとドローンと軍事衛星をエネルギーラインで狙撃したい、ブッ殺してブチ壊したい気持ちを、唇を噛みしめて僕は抑える。
 ここでわたしを捨てなさい───毅然とした声が蘇る。
 さよなら、先生。
 僕は紅い拳銃のバレルを左腕に突き刺し、カリフォルニア州ベーカーズフィールドの屋敷の庭へ瞬間移動する。

 屋敷の中庭に現れてぺたんと僕は座り込む。
 霧のような細かい雨が降っていて、頬を、手を、静かに濡らす。
 信じられない、信じたくない、
 取り返しがつかない、ああくそ、ちくしょう、
 叫びたい、大声で喚き散らしたい!
 呼吸を整え鼓動を鎮める。
 落ち着け、落ち着け、心を鎮めろ。
 時間がない、動け。
 立ち上がれ。
 頭を振って身を起こし、屋敷の正面玄関へ向かって走る。
 エントランスにはフルサイズのバンが横づけされてて、家政婦さんたちが荷物を持たずに乗り込んでいる。運転席には管理人の老人が乗っている。先生の指示で屋敷の人間全員を避難させてるんだろう。メッセージが届いてから一分そこらしかたってないはずなのに、恐ろしく素速い対応だ。先生のことだから、緊急時の行動マニュアルを作って徹底させてたのかもしれない。
 ハルの居場所を老人に尋ねると、荷造りをすませて寝室で待っている、あの娘についてはそうしろと言われた、と答える。
「ありがとう。僕らのことは気にせずに、一秒でも早くここから離れて」
 そう言ってからエントランスの石段を駆け上がる。
 先生のことは話さない、時間的にも気持ち的にも話す余裕なんてない───そう思いながら一階のフロアを走りつつ、右手から拳銃のバレルを出し、左腕に刺してハルの部屋まで瞬間移動する。
 ハルはジーンズのジャケットとパンツを身に着け、ベッドの端に座っている。荷物もトランクにまとめてある。突然現れた僕に驚くけれど、すぐに声をかけてくる。
「逃げるの?」
「ああ。ユタの岩穴住居まで飛んで、また別場所へ移動する。たぶんここは空爆される」
「空爆───」
 ハルが息を呑み、ハッと気づく。
「武市先生は?」
「俺たちだけだ。移動してから説明する。その前に、さっき拳銃を使ってやったことを解除させてくれ」
 言いながら僕は紅い拳銃を右手から完全に出現させる。シリンダーを開き、洗脳をキャンセルするコマンドを吹き込み、ハルに撃ち込む。洗脳を解かれたインパクトでハルが目まいを起こすけど、回復を待ってはいられない。彼女の手を握って僕は言う。
「もうひとつ。ハルにマーカーが着けられてないか、紅い拳銃でスキャンさせて」
「・・・マーカー?」
「僕とハルがここにいることを、ペンタゴンは知っていた。コンバットスーツから信号が出てると思うけど、ハルの体の中にも何か入ってる可能性がある」
 それを聞いて、あっ、という顔をハルがする。頭を振って目まいを散らし、一生懸命言葉にする。
「・・・それ・・あたしじゃ、なくて、たぶん・・・マリオ」
 え。
 ドキッとする。
 僕───にマーカーがついている?
「出撃前の、モニター・ブリーフィングで・・・黒桃が言ってたの・・・草薙マリオの居場所は、常にフォローできている・・・見失うことは・・絶対ない、って」
 ざざっ、と全身の血の気が引く。
 嘘だ。
 まさか、ああ、まさか。
 美猟にしたのと同じことを、黒桃が僕にしていたのか?
 僕は拳銃のバレルを左腕に突き刺し、黒桃の血───血液化した青い拳銃の断片をスキャンする。
 ある。
 それはすぐ見つかる。
 左脳の表面の太い静脈の内壁に、一滴に満たない少量の血液が、タンパク質の被膜に覆われた状態で張りついてる。僕はそこへ血液化した紅い拳銃の断片を送り、タンパク質のドームごと血を包んで引っ剥がし、心臓を経由して左腕に送る。
「とれた。マーカー・・・黒桃の血だ」
 僕は左手の人差し指をハルの顔の前に出す。
 指先にぷっくりと一滴の血が現れる。
 紅い拳銃の血でコーティングされた青い拳銃の血の玊は、まるで水銀のようにメタリックで黒みがかって見える。
 ハルがまじまじと見つめながら訊く。
「これ・・・いつ入れられたの?」
 そうだ、と僕も思う。
 一体、いつ、どうやって?
 記憶を遡る、遡る。
 思い当たって愕然とする。
 去年の夏、七月の後半、黒桃が松濤の家に忍び込んだ時。
 オリンピックスタジアム・テロの前。
 美猟の部屋の金庫から青い拳銃を盗み出し、僕と美猟に洗脳のコマンドを打ち込んだ───あの時しか考えられない!
 あああ、くっそおおおぉ!
 半年間も、僕は黒桃に、自分の居場所を教え続けてたのか!
 怒りと悔しさで引いた血の気が一気に頭へ駆け上り、爆発してキレそうになってしまう。
「マリオ!」
 ハルが怯えて僕の左手を掴む。
 急ブレーキをかけるようにガチッと僕は自分を抑える。先生を死なせてしまったかもしれないショックで、心が恐ろしく不安定になってる。
「───ごめん・・ありがとう。教えてくれて」
 これ以上ハルを怖がらせないよう、努めて穏やかに僕は話す。ナイトチェストの上に置いてある聖書を目線で指して言う。
「あの本、取ってくれ」
「どうするの?」
「黒桃の血を挟んで太平洋の底へでも飛ばしてやる。それで二、三日は追跡を誤魔化せるだろうから」
 それを聞いたハルが、不思議と遠い表情になり、数秒何かを考える。
 そしてぱっと明るく笑い、ベッドサイドから聖書を取ってくる。僕は拳銃をベッドに置き、本を受け取ろうと右手を差し出す。
「やってあげる」
 と言ってハルが聖書を開く。
 ヨハネ伝第十二章二十四節のページ───『一粒の麦地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、もし死なば多くの実を結ぶべし』という一文が目に入る。
 そこに人差し指をなすろうとした瞬間、ハルが左手を取って引き寄せ、指先を口に含み、舐めて吸う。
「なっ・・・!」
 びっくりして左手を引く。指先の血が消えている。
 ごくん、とハルの喉が動く。
 飲み込みやがった!
「何やってんだ!」
 ハルが聖書を落として言う。
「あたしを瞬間移動でどこかへ飛ばして。それでもうマリオは狙われないし、居場所だって分からなくなるから」
 薄茶色の瞳が煌めいている。
 僕は息を呑み、そして怒る。
「馬鹿じゃないのか!死にたいのかお前!」
「うん」
 頷いでハルがにっこり笑う。
「これでいいんだよ。あのね、マリオ───」
 その瞬間、強烈なアラームが頭の中で鳴り響く。
 凄まじい殺気を放つ巨大な鉄の塊が、東の空から近づいてくる。
 爆撃機だ。
 数分で屋敷の上空に到着する!
「時間がない。このままユタまで瞬間移動だ。黒桃の血は向こうで取り出す!」」
 手を繋ごうとして僕は左手を出す。
 動かずハルは僕を見つめる。
「早く!あと一分ちょっとで爆撃機がこの上へくる!」
「・・・・」
 ゆっくりと手を差し出して、ハルが僕の指を握る。
 三歳の時、怪物的な自分を封印したことでそれまでの記憶を失った僕が、近藤家へ連れて行かれたときに、ハルが握手を求めてくれた時のことが、鮮やかに脳裏にフラッシュバックする。
 よろしく、と幼いハルは笑った。
 ベッドの上の紅い拳銃を取り、自分の腿に僕は突き刺す。
 引き金を絞ったタイミングで、握っていた指をハルが放す。
 あっ!
 と思った時にはもう、雪に覆われたユタの荒野───昨日までいたナバホの聖地の洞穴住居の前に僕はいる。
 置いてきてしまった。
 引っかけられた。
 あの野郎!
 再び瞬間移動を使って屋敷のハルの部屋へ戻る。
 部屋の中にハルはいない。
 廊下へ出て他の部屋を探す。探す。姿がない。
 ミリタリージャケットのポケットの中でぶるぶるとスマホが着信に震え、留守録の応答が作動する。
 ハルからだ、と思ったけれど確かめている暇はない。爆撃機がどんどん近づいてくる。空爆まであと三十秒もない。
「ハルーっ!どこだああぁ!」
 大声で叫ぶ。
 その声に反応したように、一階の大食堂の方で気配が動く。階段を駆け下り、踊り場から一階のフロアへ飛び降りる。
 大食堂の長いテーブルの向こうで、スマホを耳に当てながら、ハルがうつむいて立っている。メッセージを録音し終えたらしく、通話を切って僕を見る。
 その時、屋敷の屋上に爆撃機が到達し、爆弾を投下する。
 あっ、と声を上げて僕は天井を見上げる。強烈な殺気の塊が空気を裂いて落ちてくる。
「来い!」
 紅い拳銃のエネルギーで体にシールドを張りながら、僕はハルに向かって手を伸ばす。指先に振れることさえできれば、シールドの内側に取り込んで、爆発の炎から守ってやれる。
 なのに、ハルは立ったまま動かない。
 テーブルが邪魔で近づけない。瞬間移動する余裕がない。
「ばか、ほらっ!」
 必死に手を伸ばす。
 嘘だろ。
 何だよこれ。
 全身が震える。時間の流れにブレーキがかかる。
 ハルがにっこり笑って手を振る。
「ばいばい」
 くせっ毛のショートヘアー、茶色の瞳、鍛え上げたしなやかな体。
 僕は目を見開き、口を開け、ああああぐがわあああぁぁ、でたらめにと叫ぶ。
 どずうううんん、
 と屋根と天井を突き破って地中貫通爆弾バンカーバスターが飛び込んでくる───それは黒桃の血液を体に入れてるハルの頭上に、正確に落ちる。



<続く>

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