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ルビー・ザ・キッド Bullet:24


 眠れずに朝を迎えた僕は、太陽が昇り、世の中が動き出すの待って、八ヶ月前に暗記した電話番号をコールする。
 五回、十回、十五回───呼び出し音が繰り返される。
 居住地跡の石段に立ち、雪に覆われた荒野を見ながら、スマホを耳に当て僕は待つ。
 四十一回目で相手が出る。
「はい」
 かなり年配の男の声だ。
「クサナギ・マリオといいます。タケチ・クミコにつないで下さい」
 できるだけゆっくり僕は言う。
 相手がしばらく沈黙する。
「転送いたします。お待ち下さい」
 男が答えて保留音になる。
 スコールが降りしきる東京首都高のサービスエリアの駐車場で、国外逃亡したくなったらかけてとこの番号を渡されたのを、はるか昔のことのように思い出していると、回線がつながり懐かしいアルトの声が聞こえてくる。
「アイソー・ユド・コール・バイナゥ。どうしてる?」
「野宿してる」
 武市先生が笑う。
「話がしたい。会えないかな?」
「いいよ」
 先生が即答し、落ち合う場所のアドレスを言う。
 カリフォルニア州ベーカーズフィールド───モニュメント・バレーから八百キロちょっと離れた場所だ。
「来れる?」
「一秒かからない」
「紅い拳銃は便利だね。こっちはちょっと時間がほしい」
 三十分後に会う約束をし、通話を切って住居に入る。
 今どこにいて何をしているのか、先生は訊こうとしなかった───何もかも知ってるんだろな、と思いながらスマホのブラウザを開き、待ち合わせ場所の経緯度と航空画像をチェックする。
 大きな敷地の真ん中に古そうな屋敷が建っている。ペンタゴンの施設にも先生のセーフハウスにも見えない。天候を調べるとユタより七℃も気温が高い。ダウンジャケットとダウンパンツからミリタリージャケットとジーンズに着替えて、左手の銃創のガーゼテープを巻き直す。横穴のベッドの寝袋の中でハルがぐっすり眠っているのを確かめ、すぐ戻るので動かないよう、書き置きしたところで時間になる。
 屋敷の画像と経緯度をイメージして瞬間移動する。
 直後に屋敷の敷地の横の道路の端に立っている。
 空を見上げて息を吸う。空気が湿っていて暖かい。滲むような灰色の雲から今にも雨が落ちてきそうだ。
 腕時計の時差を調整してると、ワインレッドのマスタングがやってきて道の反対側で停車する。道路を渡って助手席に乗り込む。
 運転席の武市先生は、また全然違うルックになってる。アッシュゴールドに染めたストレートヘアを肩口でさらりと切り揃え、体のラインをはっきり出したブルーブラックのスーツを着てる。一廻りして教師だった頃のテイストに戻りつつあるようだ。
 どんどん変わっていくからこそ、武市来未子は武市来未子───相変わらずだな、と思ってちょっと胸が熱くなる。
「ネイティブにしか見えないね。『ファクト』の頃に戻ってる」
 僕の顔をまじまじと見つめながら先生が言う。
「それ、美猟にも言われました」
 色の抜けた髪、浅黒い肌、透明度が極端に高まった瞳───外見が一廻りしてるのは自分も同じだってこと忘れてた。
「まぁ、ユタの荒野で半年ちかくも絵を描いてたら、そうなるか」
 さらっと言い加えて先生がマスタングをスタートさせる。
 やっぱ全部知ってるな、
 と思いながらシートにもたれる。
 なら駆け引きは必要ない。ストレートに要件を話そう。
 屋敷の入り口でマスタングを止めて先生がリモコンで門を開ける。敷地に入って手入れの行き届いた花壇の間をゆっくり進み、スロープを周ってエントランスに着ける。
 アンティックローズに塗装された木造の大きなその屋敷は、隅々まで手入れが行き渡っており、リフォームを重ねて大切にされてきたことがひと目で分かる。
 背の高い老人(電話を受けた人だろう)が出てきて、運転席と助手席の両方のドアを開けてくれる。彼に車のキーを渡して先生が屋敷に入る。僕も降りてついていく。
 中は外観に輪をかけてクラシックな内装で、高価そうなアンティーク家具がしっくり馴染んでいるけれど、長い間使われてなかった雰囲気が濃厚だ。廊下にしても広間にしても人の不在感が半端ない。
「この屋敷は何?」
 客間に入って応接セットに座ったところで僕は訊く。ソファに沈みながら先生が答える。
「父親の実家。長いこと空き家だったんだ。わたしがこっちへ移住してから、好きに使えって任されてるの」
「父親?」
 びっくりして僕は訊く。
「先生の親、アメリカ人なんですか?」
「ヤップ。その話を先にしておこっか」
 さっきの老人がコーヒーを持ってきて出してくれる。それを一口飲んでから淡々と先生が語り出す。
「わたし、この土地に採掘場を持ってる石油会社のオーナーの私生児なんだ。母親が私をおなかに入れたまま帰国して出産したことで、父親は向こうの家族に内緒で養育費を送り続けてくれた。ハーバードの受験費用、合格してからの学費と生活費、卒業してすぐ母親が癌になったときの治療費と入院費、死んだ後のわたしの生活費まで、切らさず送金してくれたの。養女にしたい、アメリカに来いって、何度もアプローチされたけれど、わたしはそれを断り続けた。すごく感謝してはいるけれど、彼を父親とは思えなかったし、向こうの家族ともめたくなかったし、日本で気楽に暮らしたかったし。でもマリオに会って、紅い拳銃を知って、大震災と原発事故を経験してから、血縁に対する考えが変わった。家族って呼べる人間が一人くらいいてもいいかもって、思えるようになったんだ」
 話し終えて先生が肩をすくめる。
 僕はしばらく言葉を失う。
 なるほどな。そうだったのか。
 臨時採用の教員だったのに高額な車をばんばん買えたり、バーやクラブで遊びまくることができてた謎が解けた。さらっとスパイをこなせる人格は、この生まれの特殊さに培われたものなのかも。
「納得?」
 先生が訊く。
「納得した・・ここに住んでるの?」
「時々様子を見にくるだけ。マンションも仕事もロスにあるから」
 すっ、と先生の表情が変わり、瞳に冷たさと厳しさが加わる。
「わたしは今、NSA国家安全保障局のカリフォルニア支部で働いてる───そのことは承知で来てるよね?」
 僕は頷く。
「で。話って?」
「ここでは言えない。ガルシアの亡霊に伝わる可能性が高いから」
 僕は右手から紅い拳銃を出現させ、左手で自分のこめかみを指して、脳内空間へ行こうと誘う。先生が頷いて体を起こす。僕は彼女の横へ行き、バレルを左のこめかみに浅く刺して引き金を引く。
 直後に二人は僕の脳内世界───高校の教室の中にいる。

 教壇に立ってる武市先生が、目を見開いて辺りを見回す。
「ユ・フリークミィ・アウ・・・これが拳銃の作った脳内世界・・・現実と何も変わんないね」
 僕は頷き、教室の真ん中の机に浅く腰かけて言う。
「ハルを預かってほしい」
「一緒なの?」
「黒桃直轄の部隊に入れられて、アメリカまで僕を殺しにきた。身も心もボロボロになってる───ケアしてやってほしいんだ」
 ふうん、と先生が唸る。
「マリオはついててやれないの?」
「一人になってやることがある」
「何?」
「自殺。紅い拳銃のレーザーラインで、自分を撃って死ななきゃならない」
 先生がじっと僕を見すえる。教壇に手をついて身を乗り出す。
「分かるように説明して」
 僕は頷き、ハルに見せたのと同じだけの記憶を、光の球にして先生の中に入れ、一気に展開して見せてやる。
 ガルシアの亡霊に操られてきた過去と操られてしまう未来のこと、あがけばあがくほど奴のシナリオに囚われてしまうこと、美猟を『魂の部屋』から助け出し、シナリオの外へ出る方法はないか、ルビーの魂に訊いたこと、ひとつだけあると教えられたこと。
「紅い拳銃で、自殺することで・・・それができると?」
 記憶情報の爆発のインパクトで目眩を起こしながら、先生が訊く。
「うん。いったん世界が壊れるけど、その後に活路が拓ける」
「ワッ・ドゥーユ・セイン?」
 混乱している先生の頭に、ルビーと交わした会話の記憶を、圧縮して光の球にし、もう一度僕は入れてやる───。

「拳銃の持ち主が、エネルギーラインで自分を撃てば、世界が壊れる。
 それはどんなアウトローやテロリストも、やったことのない破壊行為だ」

 仄明るく揺らぐ魂の世界で、処刑岩から生えたトルソーのようなルビーの魂と向き合って、背筋をぞくぞくさせながら僕は訊く。
「どういうことだ?何が起こる?」
 深い海の淵のような瞳をしてルビーの魂が答える。

「紅い拳銃の持ち主がエネルギーラインで自分を撃つと、
その人間は、物理現実と魂の世界をつなぐ『裂け目』になる。
二つの世界を壊してかき混ぜ、新しい一つの世界にする」

 物理現実と、魂の世界が───ひとつになる?

「物質の世界では、物が物の形を保てなくなってしまい、
魂の世界では、物理法則のさまざまな縛りが生じてくる。
物と魂の中間の状態にすべてが一気に移行するため、
両方の世界でカタストロフが生じる」

「具体的に、どうなるんだ?」

「すべてが紅い拳銃と同じになる」

「・・・物と精神の区別が、なくなる、ってことか?」

「そうだ」

「自分と他人の、部分と全体の、生と死の境い目が、消えるのか?」

「そうだ」

「何もかもが混ざりあった、スープみたいな世界になるのか?」

「そういうことだ」

 イメージして僕は怖気だつ。
 生きてもなければ死んでもいない中途半端な状態のまま、存在と無の中間を果てしなく揺らぎ続ける世界───地獄じゃないのか。

「かつて三歳のお前が望んだ世界だ」

 ずるり、
 と『三歳の怪物』が体の奥で蠢いて目醒かける。
 だめだ、起きるな、寝ていろ、と抑え込みながらさらに訊く。
「紅い拳銃は物理現実に魂を無理矢理引き出すことで、爆発的なエネルギーを生み出してるって、ガルシアが言ってた・・・二つの世界が接触したら、すべてが一瞬で消し飛ぶんじゃないか?」

「爆発は起きない。
『裂け目』が両方の世界を取り込み、変質させながら広がるからだ。
物理現実と魂の世界は、お前の中でブレンドされる」

「・・・僕が二つの世界を呑み込み、新しい世界そのものになると?」
 ルビーが頷く。
 なるほどな。
 イメージが掴めてきた。
 紅い拳銃のエネルギーラインで自殺すると、何が起きるか。
 暴力の連鎖をつなげることが世界を創造する仕事なのだと、ガルシアの亡霊が言ってた意味も。
 世界に、生き物に、人間に、上下の格差を細かくつけて、ひたすら二極化を押し進め、物理現実のバリエーションを増やし続けていくことで、魂の世界との切り分けを、奴は強化し続けてる。暴力的で悲惨な状況になればなるほど、世界の階層構造はがっちり安定するわけだ。
 そういう意味でガルシアは、この世界の管理人であると同時に、クリエーターでもあるんだろう。
 それは分かった───けど納得できない。できるわけない。
 奴は暴力を振るうことを心の底から楽しんでる。猟奇快楽殺人者シリアルキラーが世界の秩序を管理してるなんて理不尽すぎる。

「どうしたい?」

 見透かすようにルビーが訊く。
 僕は答える。
「物理現実と魂の世界を混ぜずに、『呪いのバトン』だけを消したい───紅い拳銃で自殺した先で、それができるか?」

「できる」

 おお───。
「どうやるんだ?」

「いらないものを取り除く。
暴力の連鎖を作り出す全人類の脳の回路を、
お前が切ってしまえばいい」

 は?
 耳を疑う。
 八十億の人間の脳神経を同時にいじくるって、今、言ったか?

「造作もない」

 本当かよ???

「魂の世界では、思うことが、瞬時にそのまま実現する。
二つの世界が融合に向かえば、
物理現実にもその法則が当てはまる。
強い意志で働きかければ、作業は一瞬で終了する」

 そうなのか───?
 にわかには信じられないけど。

「その後でもう一度、紅い拳銃で自分を撃って、
『裂け目』を閉じて消してやる。
そうすることでお前の中から、二つの世界が吐き出される」

 スープ状になった世界で、紅い拳銃は存在できるのか?

「お前が意志することによって」

 融合しかけた二つの世界を、また切り離してやるんだな?
 ルビーが頷く。
「『裂け目』が消えた後、僕はどうなる?」

「死にもしないし、消えもしないが、どうなるのかはわからない。
確実なのは、お前自身も再構築されるということだ」

 再構築───。
 すべてのものが徹底的にバラされ、『呪いのバトン』を取り除いた上で、改めて組み上げられるわけか。
 確かにどんな人間もやったことのない破壊と創造だ。

「ガルシアの亡霊を消滅させるには、
消す、と強く意志しないといけない。
でないと奴も再構築される」

「わかった」
 絶対に蘇らせない。

「そして俺も消してくれ」

 え・・!

「俺も『呪いのバトン』の一本だ」

 ああ───そうか。
 そうだった。
「わかったよ・・・そうすれば『呪いのバトン』が作られることは無くなるんだな?」

「しばらくの間は作られない。
が、閾値を超えたら、また生まれる」

 何だよそれ。
 そのたびに、その時の拳銃の持ち主が、自分を撃って『裂け目』になって調整しないといけないわけか。
「そうならないよう、世界の構造を根底から新しくできないか?」

「できない。
さらに上位の構造から、コンタクトしないと不可能だ」

 は?
「魂の世界の上に・・・まだ別の世界があるのか!」

「ある」

「どんな場所だ?」

「わからない。
魂の俺には認識できない。
あるいはお前が、
生物として、人間として、魂として、
最上階層の世界を見る
初めての存在になるかもしれない」

 ハッと気づく。もしかして。
「それが・・・暴力の終わりに咲く花、か?」

「そうだ」

 ルビーの瞳が透き通るように煌めく。

「すべての魂が根底に抱える渇望であり、
本当の願いだ」

 その一言で、経験したことのない衝動が僕の中で生まれる。それは、美猟を取り戻し、ハルを癒やし、ガルシアのシナリオから抜け出したいという、人間・草薙マリオの想いを突き破って屹立する。
 見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい見たい───、
 最上階層にある、未知の世界を!

 そこへ行きたい、戻りたい、という欲望と意志の昂まりが、透明に純粋に切実に果てしなくどこまでも伸びていく。今すぐ紅い拳銃で頭を撃ち抜き、肉体という物理現実を脱ぎ捨てたくてたまらない。
 ああ───あああ───こりゃすげえ。
「・・・なら・・・もうそれを・・・見にいくしか、ねえよなぁ」
 狂おしさに喘ぎながら僕はつぶやく。
 エーテルに金髪を揺らめかせながら、音であり、光であり、温もりでもある言葉でルビーが言う。

「すべての『呪いのバトン』を消し去り、
 世界を再構築することで、
 魂と肉体の両方の願いを
 お前が叶えることを祈ってる───」

 記憶の再生を終えた先生が、瞳の底を光らせて、はふううぅぅとため息をつく。
「そういうわけで・・・ハルをお願いできませんか?」
 改めて僕は頼む。
 教卓から離れ、黒板にもたれて、先生がじっと僕を見すえる。
「無理」
 ああだめか。
 まあ、ペンタゴンで働いてるんだから、断られるのは想定内。
「なら───どこかあいつを保護してもらえる場所を」
「そうじゃなくて、自殺の方」
「え」
「処刑岩の前で試して、できなかったでしょ」
 あ、と僕は苦笑する。
 あの時の記憶も見せたのだ。
「・・・今は体が拒んでるけど、洞穴にでも籠もって一人になれば」
「自分を追い込めば追い込むほど、葛藤が高まって撃てなくなるよ。自殺は魂と頭の望みで、体は逆のこと望んでるんだし」
 僕は黙る。
 呆れたように先生が言う。
「まったく・・・拳銃持ってる人間のやることは、いちいち不自然で無理筋なんだよ。中でもマリオが一番酷い」
 え、僕ですか?
 黒桃でもルビーでもガルシアでもなく?
「エネルギーが枯渇するまで、すべての生き物は死なないし死ねない。本気で死のうと思うんだったら、スカスカの抜け殻になるまで、生きて生きて生き切らないといけない。力に満ちたまま自殺しようとか、ことわりに反するにも程があるよ」
 ああ。うん。
 苦笑する。
「僕には別の理があるんだ」
 ?、と先生が首を傾げる。
「ガルシアに憑依されてたとはいえ、東京で同時多発テロを起こして、十数万の人間を殺し、その数倍の人たちから家族と家を僕は奪った───彼らにしたのと同じように、自分の命を扱わなきゃいけない」
 何度も何度も反芻してきた動かせない事実を僕は述べる。
 ゆっくりと何かに気づいていく表情を先生が見せる。
「もしかして・・・・新宿の路上で目を覚ます前のこと、知らないの?」
 僕は頷く。憑依されてる間の記憶は残らない。
「ツ・コネクテッド」
 先生がため息をつく。
「あのねマリオ、東京の同時多発テロは、あなたがやったんじゃないんだよ。オリンピック・スタジアムの時と同じに、今回も黒桃がB‐GUNシステムを使って引き起こしてる───これはペンタゴンが総力を上げて分析し、導き出した答えなの」
「・・・・」
 何て言った?
「都庁と四つのターミナル駅を溶かした超高熱の発生データと、旧『ファクト』時代に記録された紅い拳銃のエネルギーデータに、大きな隔たりがあったんだ。で、B‐GUNシステムのエネルギーデータを重ねてみたら完全一致して、またしても黒桃の自作自演テロだってことが分かったの」
 じん、と体の芯が痺れる。
「・・・・へえ・・そうなんですか」
 遅れて頭が理解する。
「それで・・・ガルシアに見せられたビジョンより・・・被害が小さかった、のか」
 ぱた、ぱたた、と腿の上で水滴が弾ける。
 僕が泣いてる。
「そっか・・・僕が・・殺したんじゃ、なかったんだ・・・東京を・・壊したんじゃ、なかっ」
 言い終えられずに嗚咽する。
 涙と一緒に罪悪感が剥がれ落ちて流れていく。それで拷問具のような鎧の中に自分を押し込めていたことを僕は知る。
 教壇から降りてきた先生がそっと背中をさすってくれる。その手の温もりに癒やされながら頭の隅で考える。
 憑依したのにガルシアは僕を自由に操れなかった。
 何が奴の邪魔をしたんだ?
 湖のほとりで紅い拳銃のシリンダーに唇を寄せる美猟の姿が浮かぶ。
 洗脳のコマンド!
 それしか考えられない。
 僕は美猟に守られたんだ!

「これでマリオは大丈夫。何があっても切り抜けられる」

 あの時の声が蘇る。
 太い柱のようなものが僕を貫き、まっすぐにする。
「ありがとう先生。もう平気」
 涙を拭って僕は言う。
 先生がちょっと驚いた顔をし、すぐに明るい微笑みを見せる。僕がガルシアの洗脳から守られた理由が伝わったのだ。
「なるほどね。やるな、あの女」
 ちょっと悔しそうに先生が言って、さっと空気を切り替える。
「ナウ・ウィア・オールオン・ダ・セイム・ペイジ───これでちゃんとした話ができる」
 教壇に戻りながら先生が言う。
「その前に一つ質問させて。わたしにとって最大の疑問を、先に解いておきたいの」
 チョークを取って黒板に向かい、かかかと英語で文章を書く。
 書きながら先生の髪型と服装が、高校で英語教師をやってた頃の、シニヨンにまとめた黒髪と地味紺のスーツへ一瞬で変わる。懐かしさと嬉しさで、思わず僕は、あはは、と笑う。

『世界が再構築される前と後で、私たちは同一人物なのか?』

 かん、と黒板でチョークを鳴らし、振り返って先生が言う。
「マリオが紅い拳銃で自分を撃った瞬間、すべての人間は壊れて死んで、いったん原子のスープに戻され、『呪いのバトン』を作り出す関係性のパターンを取り除きながら、再構築されるわけだよね───でも、そのあと、わたしたちは連続して自分のままでいられるの?記憶が再構築されたとしても、今のわたしと再構築後のわたしは、別の人間なんじゃない?」
 ああ、それな、と僕は思う。
 処刑岩の前で自殺に失敗した後、同じことを考えたのだ。
「意志の強さで変わると思う。再構築中のレトルト世界でも、意志することで紅い拳銃の存在を維持することができるって、ルビーの魂が言ってたから」
 先生が眉をひそめて宙を睨む。
「つまり・・・自分が連続している人と、記憶は同じでも別の人間になってる人が出るってわけね。で、後者の方が圧倒的に多くなる」
 僕は頷く。
「でも、その違いを指摘できる人って、再構築後の世界には存在しないと思う───僕も含めて」
「連続性の問題そのものが、世界と一緒に消えちゃう、ってことか」
 先生が唇を噛む。そしてまっすぐ訊いてくる。
「自分が死んだことも、世界が壊されたことも、それらが再構築されたことも、誰も知らない、覚えてられない、本当の意味でのオールリセット───そんな途方もないことを、マリオは本気でやるつもり?」
「やる」
 即答する。
 先生が僕をじっと見つめる。僕は目を逸らさない。
「・・・止められない、か・・・」
 先生がしばらく黙る。
「だったら」
 顔を上げ、黒板に向かい、カカカと次の文章を書く。

『ペンタゴンと交渉し、もう一度アメリカ政府と組むことはできないか?』

「は?」
 想定外すぎてぽかんとなる。
「黒桃とアメリカ政府がふたたび緊張関係に入った今、マリオは敵の敵なわけだから、交渉できる可能性は大きい。世界をリセットすることを隠して、ペンタゴンで働く契約を結べば、しばらくの間は落ち着いて過ごすことができるはず」
 それは───まあ、そうだろう。
 アメリカにとって今の僕はすごく便利な駒になる。
 けど。
「そんなことしたって意味がない。ガルシアが用意した結末へと至る、新しいバリエーションを生きるだけだよ」
「ザッツ・ファイン」
 先生が言い切る。
「用意されたシナリオを生きてやればいいじゃない。そうして紅い拳銃で自殺できるようになるのを待てばいい。自力では変えられない筋書きの中で、生き尽くすだけ生き尽くすことが、世界に再構築をかけるための最短距離だとわたしは思うな」
 唖然とする。
 何だそれ。
 生き尽くすだけ、生き尽くす?
「それが、わたしたち普通の人間にできる、たった一つのことだから」
 あっ・・・・・。
 絶句する。
 ああ。ああ。
 確かに、そうだ。
 紅い拳銃を持ってなかったら、間違いなく僕には、それしかできない。
「たとえ、この世界がどれほどの地獄で、どんなに理不尽な場所だとしても、たった一回きりの娯楽を、味わい尽くしてからでないと、わたしは死ねない」
 拳で胸を叩いて、先生が言う。
 娯楽?
「生きることが、娯楽?」
 カカカカカカカ、と黒板に向かって先生が文章を書きまくる。パキン、と途中でチョークが折れる。それでも止めずに最後まで書く。

『どんな苦痛も、悲惨も、憎悪も、悪意も、憤怒も、怠惰も、堕落も、腐敗も、喪失も、不安も、恐怖も、絶望も、人間にとってはすべてが娯楽───命がけの遊びだ』

 ぞくぞくぶわああぁ、
 と熱い流れが背骨を駆け昇って脳に当たり、真っ白に弾けて全身に広がる。そこに書かれていることに対して、体中の細胞が、イエス、と言う。
「マリオが死にたいと考えながら、死にたくないし、死ねないのは、もう十分、お腹いっぱいってくらいに、遊びたりてないからだよ」
 おお。
「・・・生き尽くし、味わい尽くし、遊び尽くしてからでないと・・・命は死ねない・・・」
 心臓を激しく高鳴らせ、棒立ちになって僕はつぶやく。
「だからマリオは、紅い拳銃を手にした一度きりの生を、マリオなりに生き尽くさないといけない。地獄を天国に裏返すゲームを、全身全霊で遊ばなくちゃ───たとえオールリセットの先に、新しい世界が約束されているとしても」
「地獄を、天国に」
 内側から裏返す。
 美猟と僕のいつものやり方。
「もっとはっきり言ってしまえば」
 黒板消しで黒板を消して、カッカッとさらに先生が書く。

『処刑場で銃殺される瞬間まで、草薙マリオは自殺はできない』

 振り返って先生が僕を見る。瞳がキラキラ輝いている。
「ハッ!」
 と思わず僕は笑う。
 図星だ先生、と認めてしまう。
 心の隅で感じていたことを、そっくりそのまま書かれてしまった。
「ペンタゴンのエージェントになること、死ぬ直前まで生きること。それがわたしのマリオへの答え、ハルを預かる条件だよ。これを呑むなら、ハルの治療を政府に交渉するオプションもつける───どうする?」
 教師の外見から、今の外見に、一瞬で戻って先生が訊く。
「呑むよ」
 感動しながら僕は答える。
「イッツ・ディール!」
 先生が教壇から降りてきて笑いながら右手を差し出す。
 その手を握りながら思う。
 やっぱ、この人は僕の『先生』だな。
 この先何がどう変わろうと、そのことだけは変わらない。
「───ところで、啓司ライトナーとは今どうなってるの?」
 ふと思いついて訊いてみる。
 手を離しながら、さらっと先生が答える。
「昔の上司がどうかした?」
 あ、と僕は理解して、二人の関係が終わったことを頭に刻み込んでおく。

 瞬間移動でユタへ戻ると、石段の下にチェーンを巻いたピックアップトラックが停まっていて、住居の中ではネイティブのおばあさんとハルがテーブルに着いている。
「おかえり」
 とおばあさんの持ってきたタコスを食べながらハルが言う。
 一時間か二時間前に会ったはずなのに、すっかり馴染んでいる二人の姿に思わず僕は笑ってしまう。
 彼女か?とおばあさんが目線で問う。
「ブラ(兄妹)」
 と言ってからハルを見る。
「ここを離れる。食べ終わったら準備しよう」
「どこ行くの?」
 口の中のものを飲み下してハルが訊く。
「武市先生のところ。カリフォルニアだ」
「・・・わかった」
 ハルが答える。
 こうして僕はガルシアのシナリオをあえて生きる道を選ぶ。公開処刑される寸前に紅い拳銃で自殺するその日まで、自分自身を生き尽くすため、地獄を内側から裏返すために。

 そして、望んだ通りの地獄を見る。


 (続く)

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