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ルビー・ザ・キッド Bullet:15


 四月の終わりに国民投票で黒桃が国家元首に選ばれたことで、日本中が異様な興奮に湧き立つ。政治家や企業人や芸能人が先を争ってお祝いのコメントを出し、元首誕生にあやかったイベントがあちこちで開催されて、新しい国が建国される前夜のような騒ぎになる。経済の復興やインフラの修理や放射能に汚染された土地の除染や避難民への差別と暴力をなくすという黒桃の公約が、具体的なプランの無いまま明るいトーンでメディアで語られ、八月に開かれる就任式の空気作りがスタートする。黒桃が自作自演のテロを起こして数千人を殺害している可能性について書かれた記事がネットから完全に削除され、代わりにいい感じにストーリーテリングされた幼少期から警官時代までのエピソードがばらまかれる。甲斐グループ令嬢誘拐事件のドラマ化と映画化も決定する。そんな激しい流れに逆らい、黒桃の危険さを指摘し続ける少数のジャーナリストたちがSNSで叩きまくられ、うち一人が自殺してしまったことについて、
「変化を恐れる人たちを、正しさの名のもとに追い込んではいけない。すべての人間には表現の自由がある。私は彼らの言動を許すし、名誉毀損で訴えもしない。国民の皆さんも大らかな心で、彼らを許してやってほしい」
 とコメントした内閣府作成の動画が一日で五千万回も再生されて、黒桃人気がさらに高まる。
 ヒステリックな明るさが急激に社会を覆っていくのを、メディアで見、肌で感じながら、僕はそれに反応しない。美猟への愛しさと殺したい衝動の両方がぱんぱんに膨れ上がって、他のことに反応してる余裕がない。
 朝起きて隣りで眠っている彼女の顔を見つめるだけで、切なさで胸がいっぱいになり、キッチンへ行って朝食を作り、彼女と一緒に食べるだけで狂おしさが全身に満ちてしまう(ひと月前から朝食と夕食は毎日僕が作ってる。思いつきで始めたことだけど、自分の料理が美猟の命をつないでると思ったら、楽しくて病みつきになってしまった)。登庁する美猟を玄関で見送るたび、今すぐこの場で紅い拳銃で美猟の心臓を撃ち抜きたい、キッチンから包丁を取ってきて美猟の体を切り開き、中に詰まってる愛を引き出したい、という激しい衝動に襲われる。
 それは美猟にも伝わっていて、いってきます、と言いながら、ルビーに殺されそうになった時にブランカが見せたあの顔つき───あの底なしに透明で揺らぎのない表情を僕に見せる。そのたびに愛しさが殺意に勝って、僕はいつもの呪文を唱え、獰猛な『三歳の怪物』を抑える。

 まだだ。
 今じゃないし、ここじゃない。
 底なしの飢えが、底なしの愛に、まるごと裏返る瞬間は。

 美猟が出勤してから帰宅するまでの一日を僕はずっと遊んで過ごす。わたしのために働こうとしたり、勉強しようとするのはやめて、今のマリオのスケールに合わない、先へ行って必ず無理が出るから、と彼女に言われてそうしてる。
「『呪いのバトン』の連鎖を切るには、マリオがずっと幸せなままで居続ける必要がある。そのためにマリオには遊んでほしい。時間を忘れて夢中になれる何かと出逢うまで遊び続けて。社会の鋳型に入ろうとせず、楽しさで自分を燃やし尽くして生きることだけ考えて」
 わかった、と僕は答えた。
 どのみち『平井耀ヒライ・アカル』という新しい僕は、社会的な実体を持っておらず、親もなければ家族もなく、家も故郷も存在しないため、学校や会社に身を置けば一発でそれがバレてしまう。一人でできることをやるという選択肢しか初めからないのだ。
「遊びかぁ───料理とバイクで走ることの、他にやりたいことって今ないかも」
「じゃあ料理とバイクに熱中してて。欲しいと感じたり必要だと思ったものはすぐ買って。値段を気にして躊躇しないで手に入れて試してみて。そうしてるうちに一生飽きずに続けられることに出逢えるから」
 そんなわけで、夢中になれるものを探してひたすら遊ぶミッションが始まる。美猟から渡されたブラックキャッシュカードを使って新しいバイクを三台買う。ドカティのスーパーレッジェーラV4と、アグスタのブルターレ1000RRと、ヤマハのVMAX1700を手に入れ、スーパーヴェローチェと合わせて四台のローテで首都高速を毎日走る。レッジェーラとブルターレはスピードの濁流に切り込んでくれるマシンで、そのレスポンスの心地よさは僕に鳥肌を立てさせる。でも一番面白かったのはVMAXで、美猟とタンデムするつもりで買ったのに、トルクの怪物っぷりが気に入って、砲弾に跨がって飛ぶような加速を自分一人で楽しんでしまう。そんな走り方をしているせいで、ロードバトルを挑まれることが増えるけど、それはそれで僕は楽しむ。大抵はぶっちぎりで勝って終わる。紅い拳銃と融合している僕に普通の人間はついてこれない。
 満足するまで走った後は、以前美猟と一緒に行ったレストランや外食店に立ち寄り、気になっていた料理を食べて、家へ帰って真似して作る。黒毛和牛の含め煮塩焼きやブリ大根や筑前煮やキノコのドリアやアクアパッツァやホタテとエビのゼリーがけや小エビと生ハムのアンチョビパスタや赤ワイン煮込みのハンバーグや雲白肉ウンパイロー宮保蝦仁ゴンパオシャーレン大良炒鮮奶ダイリョンチャウシンナイ麻婆豆腐マーボードーフゥやバターチキンカレーやサフランライスやビビンバやプルコギを作ってみる。蕎麦そば饂飩うどんも打ってみる。二回目でほぼ同じ味にできる。調理器具に物足りなさを感じて全部新調してしまう。関孫六せきまごろくのダマスカス鋼の包丁でタイやマグロやカツオやアジやヒラメやタコやイカをさばいてリブロースやサーロインやヒレを切って玉葱やピーマンや人参やキャベツや青梗菜ちんげんさいや大根を刻む。ビタクラフトのフライパンで炒めてバーミキュラの鍋で煮て伊賀土鍋の黒で炊き上げミーレのビルトインオーブンで焼く。
 道具や調理器具を変えたことで五感が数段鋭くなって、作って出したもののほとんどを美猟に美味しいと言ってもらえる。彼女の肌の艶やかさが増し、目と歯の白さに青みがかかり、化粧が薄くなっていくのを見ながら、沸き立つような喜びを味わう。
 二人で料理を食べたあとはベッドへ行って何度も交わる。拳銃と融合しているわけでもないのに美猟はタフで貪欲で、何度もエクスタシーに達しては戻ってきて僕を求めてくれる。僕の渇きに答えてくれる。どれだけ僕が注ぎ込んでも彼女が壊れることはない───達するたびにそう思って、痺れるように僕は安らぎ、底なしの飢えが底なしの愛に裏返る瞬間をイメージする。すると快楽の暖かい泥の底からマグマのような殺意がこみ上げ、ハッと気づくと僕の両手は美猟の首を締めている。薄桃色に染まった美猟の顔に透明な『ブランカの表情』が浮かぶ。それで両手から力が抜ける。マグマが泥の中へと戻っていつもの呪文を僕は唱える。

 まだだ。
 今じゃないし、ここじゃない。

 そうして僕は殺意を沈め、深々と眠って朝を迎える。隣りで眠っている美猟の顔を切ない気持ちで見つめながら、次の日も、その次の日も、愛しさが殺意に負けることなく暮らしていけるようにと祈る。
 しかし、祈りが殺意に突き破られる瞬間は訪れる。唐突に。
 ある日の夕方、玄関で、都庁から戻った美猟を出迎え、ただいま、と微笑む彼女を見たとき、

 今だ、

 とささやく声を耳元ではっきりと僕は聞き、ぐわあぁぁんという強烈な目眩とともに数十秒後の未来を幻視する。

玄関のドアに大穴が空き、溶け残った美猟の下半身が、僕の足元に転がっている。

 あっ、
 と叫んで我に返ると、右手から溢れ出た血の塊がもう紅い拳銃になっていて、親指がガチリと撃鉄を上げる。薄桃色に発光するバレルが美猟の顔に向けられる。左手の甲で銃口を塞ぐ。同時に右手が引き金を引く。
 目の前で真っ白な輝きが弾ける。
 撃ち出されたエネルギーラインは左手の甲から吸収されて、僕の血と肉と骨を溶かし、直後に紅い拳銃が一瞬ですべてを修復する。溶解と再生を繰り返し続ける白熱の数秒間に僕は耐える。
 エネルギーラインの放出が終わり、全身から白煙を吹き上げながら僕は小刻みに呼吸する。紅い拳銃が体内に戻る。服は溶けていて、僕は裸で、頭の上の天井と足下の床が焦げている。
 ドアに背中を押し当てて、息を呑んでる美猟の姿が、白煙の向こうに見えると同時に、

 ここだ、

 という自分の声を再び僕は聞いてしまう。暴れだした『三歳の怪物』が止まらない。両親が事故で死んだときの記憶が蘇って僕を襲う───潰れて混ざりあった両親の体が救急隊員の手で剥がされ、その間から取り出される無傷のままの自分、二つの肉塊に抱きしめられて守られていた僕の命、人が潰れて死ぬ瞬間に、中から愛が出てくることを知ったときの狂おしい喜び。
 僕はキッチンへ走っていって牛刀を持ち出し玄関に戻る。美猟は逃げずに待っている。それを見て僕の中で愛しさと殺意がまたぶつかる。牛刀で美猟を刺そうとしながら僕は牛刀の狙いを逸らす。ドン、と硬い手応えがきて、心臓を狙った切っ先が左肩の横のドアに刺さる。引き抜いてもう一度美猟を突く。右腕をかすめてドアに刺さる。何度も何度も何度も突く。ことごとく外れてドアに刺さる。牛刀の刃がばきんと折れる。
 ブランカの表情で美猟が見つめる。
 『三歳の怪物』はまだ止まらない。
 僕は柄を投げ捨てる。拳を固めて美猟の顔を殴る。頭を砕いて潰すつもりで全力を込めてパンチを打つ。ガン・バキリと頭の横のドアに拳がめり込んで亀裂を作る。
「・・・まだだ」
 『三歳の怪物』に声に出して僕は言い聞かせる。
「今じゃないし・・ここじゃない・・・・飢えが・・愛に・・裏返るのは」
 三歳の僕がゆっくりと目を閉じ、後ろへ下がって闇に消える。
 めり込んだ拳を僕は引き抜き、美猟の頬にその手を当てる。美猟が震える息を吐いて、漆黒の瞳を底光りさせる。
 抱き合うようにしてリビングへ行く。
 ズタズタになった右手の手当てをしながら、硬くなってる僕の股間に美猟が触れてセックスが始まる。美猟の乳房に触れてるうちに右手の傷が治って消える。美猟が僕の昂りを中に入れて、優しく静かに動き出す。凪の海に月が上るように僕らはゆっくり達していく。美猟の体を抱きしめて終わらない快感にとろけながら、頭の隅で僕は思う。
 一生続けられるほど夢中になれる『何か』がいつか見つかるまでは、さっきみたいなことが何度でも起きる。
 でも『三歳の怪物』を僕は封じ込めない。
 「いるけど、いない」ことにしない。
 明日美猟を殺すことになっても、十年守り続けることになっても、『何か』と出会うのに三十年かかっても、全然良いよ───なるようになろう。
 僕は目を閉じ覚悟を決める。
 が、数日後に家の中で、その『何か』が見つかってしまう。

 交換したバイクのタイヤを片づけに降りた地下倉庫の中で、高校の美術クラブで美猟が描いた十数枚の絵を僕は見つける。告白してフラれたときに、美術室で美猟が描いてた絵───赤い荒野に咲く紫の花と、花の前でたたずむ黒い馬と、馬に乗った金髪の男と、男の背中から吹き出す翼のような炎が描かれた、八十号の大きな絵を久しぶりに目にして震える。そこに描かれているのは明らかにルビーと「暴力の果てに咲く花」で、何て予言的な絵だったんだ、どうしてこれが描けたんだろう、と運命の符号を感じておののく。まだ美猟と口もきけなかった頃、クラブへ通ってデッサンしながら、キャンバスに向かう彼女の姿を盗み見いてたことを思い出し、久々に描いてみたくなって、絵の横にあったスケッチブックとコンテを持ってガレージへ上がる。
 自分の左手を描くのに一時間もかかってしまう。思ったように線すら引けない───いかに美猟目当てでも、それなりに練習していたはずなのに。続けて美猟のアルファロメオを描いてみるけど全然駄目で、夕飯の準備の時間になっても仕上げられずにショックを受ける。キッチンへ行って悔しい気持ちで鶏肉と葱のカルボナーラを仕込み、帰ってきた美猟にパスタを出す。美味いと言われても嬉しくない。一心不乱に打ち込んだ絵が駄目だったことに納得できない。
 翌朝、美猟を見送ってすぐ、ガレージでジュリアの続きを描く。二時間かけて仕上げるけど気に入らなくて破って捨てる。昼食を取るのも忘れて五枚のデッサンを描いては破り、六枚目でやっとできたと思える。アルファロメオ・ジュリアがそこにある感じは捕まえられてる。続けてバイクのベローチェを描く。ジュリアよりもフォルムが複雑で何度も何度も失敗する。気がつくとガレージ脇のドアが開いてて、スーツ姿の美猟が立ってる。びっくりして僕はスマホを見る。夜の七時を過ぎている。
「絵を描いてるの?」
 軽く驚いた声で美猟が言う。
「うん。夕飯作ってない」
 呆然と立ち上がって僕は言い、汚れた右手で鼻の下をこする。
 ケータリングの料理が来るのを待ちながら、リビングで美猟にデッサンを見せる。
「車やバイクがそこにある感じだけは描けてるね」
 全く同じ感想で嬉しい。
「楽しい?」
「どうかな。よく分からない。描けないと悔しくて苦しくて、でも、ちょっとでも描けると嬉しくて───」
 そこまで言ってハッとする。
 食事の準備だけじゃなく、黒桃のこと、『ファクト』のこと、今の日本の状況のこと、どころか、紅い拳銃も、美猟も、自分自身さえ忘れていた!
「描くことだけになっていた?」
「・・・うん」
 呆然としながら僕は頷く。
 ふうん、と美猟が小さく唸る。
「見つかったかも」
「え?」
「一生続けられること」
 絵が?
 描くことが?
 そうなのか───?
「もっと描いて確かめてみれば」
 分かった、と僕は答えてスケッチブックを持って立ち上がる。ぷふっと美猟が吹き出して笑う。
「何?」
「だって、夜御飯がまだだし、昼だって抜いてるんでしょう?」
 あ、うわ、そうだ、と思いながらも、気持ちはもうガレージへ行ってて、右斜め前の角度からブルターレを描いている。
 それから毎日、朝から晩まで僕はデッサンし続ける。ガレージに姿見の鏡を持ち込み、自分の体を映して描く。二台の車と四台のバイクをいろんな角度から何度も描く。家の中にあるものを組み合わせて静物画を描く。質感と光が表現できたと思えるようになるまで直す。スケッチブックが十冊終わったあたりで屋外を写生したくなる。軽くて走りやすい自転車を買って、近場をあちこち移動しながら、人や物や動物や鳥や花や木を描きまくる。バイクに乗ることがほとんどなくなり、料理も毎日作らなくなり、美猟と顔を合わせる時間がずいぶん減ったな、と思ってるうちに、スマホの表示が六月になってて心の底から僕は驚く。
 五月の記憶がほとんどない。
 のめり込みっぷりの激しさに呆れながら、この一ヶ月、自分が夢中で遊んでいたことに僕は気づく。描いてるときは自分も世界も消えてしまってることを知る。
 確かにこの状態がずっと続けば一生なんてあっという間だ。『呪いのバトン』の連鎖は切れるし、『三歳の怪物』の獰猛なエネルギーをすべて描くことに転換して、使い切ることができるかもしれない。
 その日の夜、モデルになってほしいと美猟に頼む。
「いつ言ってくるかな、って思ってた」
 久々に僕が作ったベアルネーズソースの和牛ステーキを食べながら、いたずらっぽい口調で美猟が言う。
「夜、一時間くらいなら大丈夫だよ」
「ありがとう!」
 ぱっ、と花が開いたような気持ちになって僕は言う。
 美猟がまじまじと僕を見つめる。
「久しぶりに話してる感じ。ここふた月くらいの間、マリオ、いるけどいなかったから」
 ああ、ごめん、と僕は謝る。
 美猟が頷く。
「わかるよ。七年半前のわたしも、絵のことばっかり考えてたから。でも震災後に日本へ戻って、甲斐グループの筆頭株主になってから、そういうのが一切なくなった。ああ、絵が終わった、ってはっきり分かった───わたしの中から出ていった絵が、マリオの中に入ったのかもね」
 次の夜から美猟を描く。時間が短いので描き方を変える。一時間で一枚だけデッサンすると決めて、椅子に座った彼女の姿から、一本一本の線のエキスを抽出するように描いていく。その絵と刻み込んだ記憶を元に、後で一人でたくさん描く。そういうやり方をしているうちに、デッサンの美猟の存在感が本物の美猟に肉薄していく。
「生きてここにいる感じが凄い」
 と本人からも言ってもらえる。
 このデッサンを元にして油彩画を描こうと僕は決める。下絵をいくつも作りながら絵の具や筆を試しているうちに、六月が終わって七月が来る。注文していたユニットハウスが中庭の一角に設置され、机や作業台や棚が入って、アトリエとして使えるようになる。道具と画材を運び込みながら、黒桃暗殺に成功した後、軟禁されてすごす残りの人生をイメージしたことを思い出す。一日一枚風景画を、毎週一枚自画像を、毎月ペンタゴンのエージェントの肖像画を描いてやろう、たまに抽象画を描くのもいい、岩肌を使って壁画も描きたい───ステルスドローンの突入ポッドの中で、半ば投げやりに考えていた未来の自分のイメージが、日本にいて美猟と暮らしながら実現しかけてることに気づいて、あははと僕は声に出して笑い、ぽろぽろ涙をこぼして泣く。
 草彅マリオとお別れしよう。
 平井耀ヒライ・アカルという人間になって、本気で画家を目指して生きよう。
 平穏な午後の陽に光る中庭を見ながら僕は決める。

 でも、黒桃と啓司ライトナーとペンタゴンが、僕にそれを許さない。

 七月半ばの夜明け前、美猟の肖像画の下絵を仕上げた僕は、久しぶりにバイクに乗りたくなる。白み始めた空には雲が垂れ込め、今にも降り出しそうな雰囲気だけど、雨に洗われて走るのも良いと思う。あくびをしながらガレージへ行って、ドカティ・レッジェーラを暖気し、外へ乗り出す。
 門から少し離れたところにブルーのシボレー・カマロがまっている。このあたりでは見ない車だ。久々にマスコミの張り込みかもしれない。追ってきたら高速でいてやろう。
 四月の半ばに美猟の不倫疑惑がちょっとだけ騒がれたことがあって、相手の男はもちろん僕で、バイクで走りに出かけるところを隠し撮りされた写真と映像が、ニュース番組でネット記事でスクープされた。黒桃が(自分では無意識のまま)すぐに対処してくれたらしく、次の日からマスメディアはそのニュースに一切触れなくなって、ネット上の記事や動画も綺麗さっぱり削除された。それでも一週間ほど、家の前に動画配信者たちが張りついたので、そいつらの尾行をブッちぎって撒くのが、しばらく日課だったのだ。
 レッジェーラをスタートさせるとカマロも静かに動き出す。僕は渋谷駅の東口へ向かい、下りの入り口から高速に乗って、アクセル全開で加速しながら車列の隙間を縫って走る。大抵の尾行車はこれで振り切れるはずなのに、青いカマロはミラーから消えない。しつこいな、と思っているとパッシングして合図してくる。
 動画配信者はこんなことしない。
 何だ───いや、誰だろう。
 僕は減速してカマロの横に並ぶ。運転席の窓ガラスが下がってドライバーが顔を見せる。
 ハッ、と声に出して僕は笑う。
 しばらく笑いが止まらない。
 先導して近くのサービスエリアに入り、駐車スペースにレッジーラを停める。隣りにカマロが並んで停まる。ぱらぱらと降り始めていた雨がスコールみたいに激しくなる。雨音に負けない大きな声で、運転席を覗きこんで僕は言う。
「おはようございます───髪型変えましたね!」
 長かった髪をばっさり切って、ショートボブにした武市先生が、鋭い目つきで僕を見ている。
 挨拶抜きで言い放つ。
「ペンタゴンと黒桃が手を組んだ。今すぐ海外へ逃げなさい」
 激しい雨に打たれながら、僕はぽかんと口を開ける。


(続く)

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