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ルビー・ザ・キッド Bullet:13


 見上げるように天井の高い石造りの教会の中にいる。
 壁と柱は赤く塗られ、漆黒の大理石が床に敷かれ、丸窓から差し込む陽光でシャンデリアが金色に煌めいている。
 ゴシック調の長テーブルの端に僕は座ってる。刺繍の入ったダークレッドのスーツとマットブラックのシャツを着ていて、腰に巻かれたガンベルトには紅い拳銃が挿さってる。
 ここは、これは、青い拳銃の力で作り出された脳内世界だ───と僕はすぐに理解する。
 七年半前、代官山で黒桃に拉致られた時のように、美猟先輩の脳内世界に僕は今連れ込まれてる。そうすることで現実世界からいったん避難してるんだ。彼女が青い拳銃のバレルを僕の額から引き抜くまで、物理現実世界の時の流れはスナイパーに狙撃される寸前で止まったままだ。
 長テーブルの反対側に、サファイアブルーのドレスをまとった美猟先輩が座っている。肌の白さとのコントラストがぞくぞくするほど鮮やかだ。
「この日が来るのをずっと待ってた」
 先輩の声が柔らかく教会の中に反響する。
「君の夫を、殺しに来たんだ」
 心臓を高鳴らせて僕は言う。先輩が微笑んで小さく頷く。
「黒桃はどうした?どこにいる?」
「別館のバスルームで眠ってる。夕食に薬を入れたから」
 え。
 僕は唖然となる。
 そんなことが───できるなら。
「そんなことができるんだったら、どうしてわざわざ『ファクト』を使って暗殺のミッションをやらせたんだ?料理に毒を盛るだけで奴を殺すことができたのに!」
 思わず強い口調になる。先輩が軽く眉をひそめる。
「わたしが黒桃を殺していたら、R-GUNシステムを壊してあなたを助け出してもらうことも、リハビリしてもらうこともできなかった」
 あっ。
 息を呑む。
 確かにそうだ。てことは───つまり先輩は。
「僕を自由にして、回復させるために、黒桃の暗殺に協力したの?」
「そうだよ」
 先輩が即答する。声と瞳に嘘がない。僕はほとんど泣きそうになる。
「・・・一体、いつどうやって、奴と入れ替わったんだ?先輩が仕込んだサーマルカメラの映像で、本人がベッドに入ったのを『ファクト』は確認していたし、突入の直前まで僕もチェックしてたのに」
「ついさっき、これを使って」
 青い拳銃を先輩がテーブルの上に置く。
「移動したい場所をイメージしてから、青い拳銃を体に刺して、引き金を引くとそこへ飛べるし、人や物を飛ばすこともできる。ポッドが寝室へ飛び込んだとき、別館から自分をベッドに飛ばして、黒桃をバスルームへ移したの」
 僕はぽかんと口を開ける。そんな力が青い拳銃にはあるのか。
 そして、七年半前、森タワーから落ちながら都庁にいる黒桃を撃ったとき、奴が一瞬で蒸発した北棟にいて一人だけ生き残ることができ、六本木ヒルズの現場へ即座に戻ることができた謎が解ける───自分の体に青い拳銃を刺して瞬間移動していたと知る。
「何だか尋問されてるみたい。いつまで『ファクト』の暗殺者をやってるの?」
 先輩が不満そうに言う。
「わたしのことを疑っている?」
 う、と僕は黙ってしまう。
 太陽の光がすっとかげって教会の中が暗くなる。
 黒桃と同じように利用された後、裏切られて捨てられてしまうんじゃ、とかそんなことを僕は気にしてない。先輩の傍にいたかったら当たり前に背負うべきリスクだからだ。
 わだかまってるのはそれじゃない。
 あっさりと黒桃の妻になれてしまったことに怒ってる───そして嫉妬してるんだ。七年半もパートナーでいた黒桃に。
「どうして奴と結婚したんだ」
 めらめらと腹の底を焼きながら僕は訊く。
「力が必要だったから」
 さらりと先輩が言ってのける。
「奴を好きなのか?愛してる?」
 浅ましいと思いながらも訊いてしまう。
「わたしのもの、ただそれだけ」
 即答される。
 力。もの。
 黒桃は道具。
「じゃあ僕は!」
 叫んでしまう。抑えられない。
「先輩にとって、僕は何?」
 今度は先輩が黙り込む。つややかな漆黒の瞳を半眼に伏せて沈黙する。
「飢え」
 とつぶやく。
「わたしの飢えを満たす存在───それがあなた、草彅マリオ」
 ? ? どういう意味?
 想像もしていなかった答えだ。
「・・・先輩は・・・飢えてるの?」
「うん」
 と先輩が頷く。
 丸窓から光が差し込んでシャンデリアがふたたびきらめき出す。
「今初めて気がついた。わたしすごく飢えている。大きな穴が空いている。筆頭株主になっても、都知事になっても、ふさがることのない深い穴が」
 そう言って胸に手を当てる。
「この穴はわたし自身。わたしの本性」
 ぞくぞくと背筋に電気が走る。
 先輩の中にある深い闇をいま僕は覗き込んでいる。闇の方も僕を見つめてる。全然怖いと思わない。感じているのは懐かしさだ。
「マリオが欲しい」
 声を潤ませて先輩が言う。
 ぶるん、と体の芯が震えて股間が一瞬で硬くなる。腹の底を焼いてた嫉妬の炎が胸に昇って喜びに変わる。
「マリオは?わたしが欲しくない?」
 切実な目をして先輩が訊く。
 欲しいに決まってる、と言おうとするけど言葉が出ない。代わりに両目から涙が溢れ、ぐるるきぅう、とお腹が鳴る。股間を硬くし嬉し泣きしながら腹空かしてるとかメチャクチャだ。
 あはは、と楽しそうに先輩が笑う。
「わたしも空いてる───食事にしよっか」

 そして僕らはスープとペンネとチキンサラダと牛ヒレのステーキとローストビーフを食べる。無言で集中して黙々と。一つの料理を食べ終えると影のように給仕人が現れ、次の料理を目の前に置いて、薄闇の中へ消えていく。脳内世界の食べ物は体に入るとすぐ消化されてしまうので、満腹になるということがなく、いくらでも食べ続けることができる。三巡目のコースのデザートに出てきた黒蜜がけのパンナコッタを食べ終え、グラスの赤ワインを飲み干して、力のみなぎりと血のたぎりを感じながら僕は訊く。
「震災直後の混乱した日本に、よく戻ってくる気になったね。余震や放射能汚染を怖いとは思わなかったの?」
 マグロのポワレを咀嚼して、こくんと美味そうに飲み下し、フォークとナイフを置いてから先輩が答える。
「怖かったよ」
「・・・」
「でも、列島全体に渦巻いているエネルギーに惹きつけられた。被災と被爆ギリギリの環境で生きてみたくてたまらなくなったの。甲斐グループ全体を指揮することで大きな組織を思い通りに動かす面白さを初めて知った。たった一言のわたしの指示で数万人の人間が動き、数十万の命が助かり、数百万人々が移動したことで、わたしの中にある飢えが一時的に満たされた。それでもっとスケールの大きなものを、自由に動かしてみたくなったの」
 そこまで一気に喋り終えてワインで口を湿らせる先輩を見ながら、これが、これこそが甲斐美猟だ、と思って僕は嬉しくなる。他の誰かの口から出たら耐えられないような傲慢な言葉が、先輩が言うと、そうだろうな、とあっさり納得できてしまう。
 善悪や正邪を超えた器───底なしに激しい、僕の飢え。
「ハネムーンで行ったパリのホテルで、青い拳銃とガルシアの亡霊を黒桃から見せられて、政権と省庁とメディアの人間をコントロールしてることを聞かされた。筑波の研究所でマリオが生きてて、生体兵器にされてるのを知って、助け出してもう一度逢うにはどうすればいいかを考えた。青い拳銃を使ってみたいと黒桃に頼んで貸してもらった。必要もないのに官僚や議員を何人も操って見せることで、本当にやりたいことを黒桃に悟られないようにした。執務の合間に北棟へ行って、R-GUNシステムの砲台を何回見上げたか分からない───七年半前のあの日の続きを、やっと二人で始められるね」
 潤んだ瞳でため息をつき、先輩がじっと僕を見つめる。

「黒桃のこと、そんなに怖い?」
「あの男からあたしを奪って」

 あのとき先輩に言われた言葉が耳元で鮮やかに蘇る。切なさと発情が入り交じって狂おしく暴れ出す。
 ぐらん、と強い目眩がしてテーブルの幅が狭くなる。先輩と僕の距離が近づく。鼓動が早まり息が弾む。
「原発事故と地震で壊れたこの国で、紅と青の拳銃を使って、黒桃という人形を操りながら、行けるところまで二人で行こう。わたしとあなたの生命を重ねて完全に燃やし切ろう」
 青い拳銃のグリップに右手を乗せて先輩が言う。
 生命を重ねて燃やし切る───そうしたい、と思った瞬間、何かが僕にブレーキをかける。頭の隅に違和感がある。先輩が語った言葉の何かに僕は引っかかっている。大事なこと、危険なものについて、話を飛ばされたような気がする。
 何の───誰のことだろう?
 ぐらん、とまた目眩がしてテーブルの幅がさらに狭まり、料理やグラスが消えてしまう。先輩との距離がさらに近づく。心のブレーキが滑って外れる。先輩が僕のガンベルトを見る。拳銃を抜いて僕はテーブルに置く。先輩が左手を紅い拳銃のシリンダーの上に乗せる。僕も青い拳銃のバレルに左手で触れる。それで二人の意識がつながる。
 僕は先輩の中を覗く。
 そこは輝く闇の世界だ。小さな火花がひとつ散るだけで恒星が生まれてしまうほどの、原始的な生命力とポテンシャルに満ちている。
 先輩も僕の中に入ってくる。
 まだ十七歳のままの心を彼女に見られて僕は恥じる。
『綺麗』
 と、うっとりした声で先輩が言う。
『瑞々しくて軽やかな炎が、マリオの中で燃えている』
 炎。
 僕は炎なのか?
『うん。金色で爽やかな炎の球。でも奥にもうひとつ、マグマみたいな黒い炎の塊がある───それがマリオの命の本体で、紅い拳銃のエネルギーの源』
 先輩の目を通して自分の中にあるものを僕は見る。太陽みたいな炎の球とその奥にある黒い塊。
『金色の炎は黒い炎を知らない。マリオはマリオに隠されている』
 僕が、僕に、隠されている?
 ぶおん、と教会全体が振動して二人の間からテーブルが消える。二丁の拳銃も消えてしまう。僕たちは両手をにぎり合ってる。先輩が僕の指に指をからめる。
『十七歳のマリオは金色の炎。黒い炎のマリオとつながれば、あなたはわたしの横に立って一緒に生きられるようになる。わたしがふたつの炎を混ぜて二人のマリオを一人にするから』
 二人の僕、もう一人の僕───夢の中で左肩を裂いて出てきた、真っ赤な僕がそうなんだろうか?あの怒りに満ちた凶々しい奴とつながる?ひとつになる?
 嫌だ、怖い、でも惹かれる。
 息を荒げて僕は訊く。
 どうやって?
『こうやって』
 先輩が僕にキスをする。柔らかいふたつの膨らみが僕の胸に押しつけられる。甘やかな舌が唇を割って入ってくる。漆黒の艶やかな瞳の底で燃える炎を僕は見る。頭の芯が飴のように溶けて股間がはち切れそうになる。
 抱き合って倒れ込む二人の体をダークレッドのベッドが受け止める。ベルベッドのシーツの上で先輩の唇と舌をむさぼる。先輩が体をしならせて腹と腰を押しつけてくる。
 邪魔だ、脱ぎたい、
 と思うと同時にジャケットとパンツが消えてしまう。先輩のドレスも揺らめいて消える。裸の乳房と腹と腿がひんやりと僕の肌に吸いつく。その下を流れる血潮の熱さが脈を打って伝わってくる。
 我慢できなくなって僕は先輩の中に入る。同時に先輩の意識の舌が僕の意識に挿し込まれる。
 一緒に声を上げながら僕らは体を震わせる。
『黒い炎に触るね』
 先輩の意識の舌が僕の意識の底まで伸びて、黒い炎の塊を舐める。
 あっ、
 と僕は声を上げ、激しく腰を動かして先輩の中をかき回す。切ない声を上げながら先輩が意識の舌を動かす。黒い炎の塊がマグマのようにぶくんと膨らむ。恐れと昂りに襲われながら急速に僕は絶頂へと近づく。
 怖い怖い、嫌だ嫌だ、ああすごい、気持ちいい───壊れてバラバラになってしまう!
『怖くない。そのまま溢れて』
 動きを合わせながら先輩が伝える。
 彼女の体にしがみつき大声で叫びながら僕は果てる。切れ切れに悲鳴を上げながら彼女も一緒に達していく。黒いマグマの膨らみが弾けて金色の炎と混ざり合い、炎の球の色が深紅に変わって、僕の体の色も変わる。怒れる僕と同じ色、紅い拳銃の色になる。骨が、筋が、筋肉が、膨れ上がってばちんと締まる。真っ青な瞳を輝かせ、金色の髪をはためかせ、光の粒子を全身から吹き出しながら僕は叫ぶ。
「自分の影と合体した───僕は、僕を、取り戻したぞ!」
『おめでとう』
 耳元で先輩の声がする。
 赤と黒の教会の中に鐘の音が鳴り響き、幼かった頃の記憶が溢れ出すように蘇る。心の奥に隠されていたもう一人の僕のことを僕は知る。

 東京都調布市の郊外の一軒家で二歳の僕は暮らしていた。家族は三人だけだった。両親は僕のことを愛してなかった。相手のことや自分のことさえ愛してなかった。愛する能力がない部分で惹かれ合い繋がった二人だった。同じ高校で働く教師で、父親は数学を、母親は生物と化学を教えていた。学校では距離をおいて過ごし、家に戻ると毎日喧嘩した。僕は託児所に預けられ、夕方家に戻されて、二人の罵り合いを毎晩のように見せられた。怖くて悲しくてギャーギャー泣いた。うるさい黙れ、静かにしろ、と両方から怒鳴られ叩かれた。怒って当たり散らすときにだけ二人は僕に感情を向けた。だから僕は喧嘩が始まると感じた瞬間に騒ぐようになった。たとえそれが怒りであっても感情を向けられることが嬉しかった。叩かれ、蹴られ、怒鳴られながら、深い部分で僕は満たされ、自分が生きてここにいることを確かめて安心した。
 僕が三才になる頃、二人の仲は完全に冷え切り、ある日を境に言葉をかわさなくなった。唐突に喧嘩のない日々が始まり、僕は『いるけどいない』子供になった。食事や服やおもちゃを与えられ、お風呂も入れてもらえたけれど、それは家庭の枠を壊さないための手続きのようなものだった。家電や車をメンテするように二人は僕をメンテした。自分がどんどん透明になり、消えていくように感じた僕は、発作的に両親の体を叩いたり蹴ったりするようになった。
 両親は僕を恐れて逃げた。それぞれの部屋に閉じこもって僕をひとりぼっちにした。親から逃げられたことで僕は深く傷ついた。託児所でもひどく乱暴になり、他の子供や保育士の体に血が出るほどの傷をつけ、怖がられて敬遠された。周りのすべての人たちから逃げられ、心の底から僕は怒った。

いいよ。
だったら、もっと暴れてやる。
もっとみんなをおどかして、ぎゃあぎゃあ逃げ回らせてやる。

 僕は他の子たちを襲って殴った。保護者たちから託児所にクレームが入り、両親は一軒づつ回って謝罪し、治療費の支払いを約束した。二人は僕を叱らず無視した。どれだけ叫んでも殴っても蹴っても、何の反応も引き出せなかった。
 これ以上僕を預かれないと託児所から連絡が入った夜、父親と母親は久しぶりにキッチンで向き合って話をし、僕を手放すためのプランを一晩かけて考えた。精神的な障碍しょうがいのある子供を専門の施設で治療するようにしかはたからは見えないステップを、的確に二人は踏んでいった。児童精神科へ連れて行かれ、診断書を作るための検査を受けながら、自分が捨てられ、どこか遠くへやられることを僕は悟った。

いない子から、いらない子に、なっちゃった。

 医師の前で泣きながら僕は笑った。
 そしてその日がやってきた。
 よく晴れた初夏の日曜日だった。情緒障害児の治療施設へ車で連れて行かれる途中、助手席の母親の膝の上に僕はしつこく乗りたがり、後部座席からシートの間を乗り越えて前へ出た。父親が僕を怒鳴りつけ、母親が父親をののしった。唐突に喧嘩が始まった。溜め込んでいた感情を一気にぶちまけたような激しさだった。僕はどきどきわくわくした。

お父さんと、お母さんが、出てきた。
『いるけど、いない』が、なくなった!

 心の底から嬉しくなって、ぎゃあぎゃあきいいいいと大声で叫び、母親の膝の上で暴れ、二人を叩いたり蹴ったりした。
 父親の両手がハンドルから離れ、右足がアクセルを過って踏み、車が激しくバウンドして対向車線へ飛び込んだ。フロントガラスいっぱいに大型トラックの鼻面が迫った。両親が短い悲鳴を上げた。
 ものすごい衝撃がきて、真っ暗になり、意識が飛んだ───はずのなのに、その後の出来事をなぜか鮮明に僕は覚えていた。レスキュー隊が潰れた車体を電動カッターで分解し、人のかたちを留めていない両親の死体を引きずり出した。二つの肉塊に抱きしめられて僕は無傷で生きていた。潰れて混ざり合った父親と母親が、救急隊員の手でべりべり剥がされ、真っ赤に染まって失神している僕の体が取り出された。
 意識が戻ってから医師にそのことを話すと、誰が君に教えたの?と真っ青になって問い質されたので、後から作った記憶ではなく実際にあったことなのは確かだ。ショックで体から魂が飛び出し、自分で自分を見ていたのかもしれない。
 両親を失ってしまったことを悲しいとは思わなかったし、自分のせいで事故が起きたとも考えなかった。ただひたすら目がくらむような驚きと喜びを感じていた。死の直前に父親と母親が自分の命を守ってくれた───二人を失って余りあるほど僕はこの事実に深く癒やされ、生きてる人間が潰れて死んだら優しい気持ちが中から出てくる、という大発見に興奮していた。それから僕は医師や看護師を見るたび、

この人は、自分が死にそうになったとき、僕を守ってくれるかな?
殺してそれを確かめたい。

という衝動に激しく駆られた。
 入院して一週間目の朝、父方の叔父夫婦が見舞いに来た。彼らは女の子を連れていた。瞳と髪が明るい茶色で子犬みたいに可愛かった。
 それは五歳のハルだった。
「こんにちわ。大丈夫?」
 ハルが手を伸ばして僕の頭を撫でようとした。その手首をぱっと僕はつかんだ。この子の中から僕への愛情を引きずり出したいと反射的に思った。爪の先が皮膚に食い込んだ。
 ハルが右手を引き抜いた。手首についた爪痕からうっすらと血が滲んだ。母親の後ろに隠れたハルが恐怖で目を見開いた。
 じん、
 と体が痺れるほどの強いショックを僕は受けた。
 託児所で叩いたり蹴ったりしていた他の子供たちや保育士たちを、自分や両親の一部だと思っていたことに初めて気づいた。
 この子はちがう。僕じゃない。
 この子の親も、医者も、看護師も、まったく別のひとなんだ。
 近藤一家が帰った後で、ベッドに潜って僕は震えた。
 五歳のハルは、僕が初めてコンタクトした自分を持ってる人間だった。触れて、逃げられ、見つめられた時に、そのことがはっきり伝わってきて、僕の中で自分と他人が鮮やかに切り分けられた。同時に怯えたハルの目に映った自分の姿を僕は見た。
 それは飢えた怪物だった。
 『いるけど、いない』をなくすために自分と他人の境目を破り、すべての人間の中身を出して、ごちゃまぜのひとつにしようとしていた。父親や母親や託児所の子たちや保育士が逃げたか理由が分かった。

どうしよう、どうしよう、どうしよう。
こんな怖いやつ、隠さなくちゃ。

「僕はいる、でも怪物はいない、いるけどいない、いるけどいない、いるけどいない─────いないんだ!」
 ぶるぶるぶるぶる震えながら、僕は自分に言い訊かせた。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、繰り返し。
 いつのまにか眠ってしまい、目覚めたら朝になっていた。巡回に来た看護師に名前を呼ばれて、僕は返事ができなかった。草彅マリオというのが誰だか分からなくなっていた。
 僕は記憶を失くしていた。
 両親のことも、事故のことも、自分の恐ろしい欲望のことも、何ひとつ覚えていなかった。精神科で事故のトラウマによる解離性健忘と診断された。催眠を使った面接療法が施されたけど効果はなかった。肉体的な後遺症は見当たらないため退院させて経過をみることになった。担当の医師が両親の実家に僕の受け入れを打診したが、両方の家から断られた。両親とも結婚するずっと前から実家との関係が悪かったのだ。
 叔父夫婦が僕を引き取り、草彅の戸籍を残したままで、家族として育てることになった。退院したその足で恵比寿に家に連れて行かれた。
 自分のおうちだと思ってね、と玄関先でハルの母親が言った。ハルの父親が頷いて笑った。
「はい」
 と僕は返事した。
「よろしく」
 とハルが言って右手を差し出した。少し怖がっているのが分かった。
 僕はそっとその手を握った。ハルの表情が和らいだ。
 色素の薄い彼女の瞳に、はにかんだ表情で柔らかく笑う、まっさらにリセットされた僕が映った───。

 ぎちゅり、と頭の中で音が鳴る。
 現実世界の美猟先輩が僕の額から青い拳銃を引き抜く。
 三才の記憶世界から、先輩の脳内世界を抜けて、物理現実世界───二月の富士山麓の一軒貸しホテルへと僕は戻る。ポッドの突入でメチャクチャに破壊され、粉塵が舞い散る寝室で、ベッドに乗った美猟先輩としゃがんで向かい合っている。
 青い拳銃を突き刺されてからコンマ数秒しか経ってないけど、一瞬前とは別人になってることを感じて僕は震える。自分の影との合体を果たし、記憶の封印を解いたことで、欠けていた半身を取り戻したような充実感と幸福感にガツンと襲われ、危うく泣きそうになってしまう。
 黒いファーコートと青いセーターと白いパンツを身につけた先輩が、僕をじっと見つめている。その瞳の表情から蘇った記憶を一緒に体験したことを僕は知り、さらに幸せな気持ちになる。
 そうだ───僕は、記憶と一緒に、このひとも取り戻したんだ!
 ホテルの外から殺気が来る。
 ばしん、
 と飛んできたライフル弾を左手で掴んで僕は止め、同時に右手に持っていた紅い拳銃で撃ち返す。ライフル弾の飛んできた軌道をエネルギーラインがなぞって飛んで、遠く離れた丘の上にいるスナイパーのライフルを破壊する。
「マリオ=クサナギ!」
 床に転がったヘルメットから啓司ライトナーの声がする。
「僕と先輩をこのまま逃がせ。でないと軍事衛星を狙撃する」
 鋭く言い返して立ち上がる。
 ベッドの横にある姿見の鏡に自分の姿が映り込む───それは七年半前の草彅マリオだ。影と合体した影響なのか、ルビーの体の色がすっかり抜けて、黒い髪と黒い瞳と黄色人種の肌の色に戻ってる。でも目つきと顔つきが全然違う。十七才の高校生の面影はない。
「・・・ペンタゴンは手を引かないし、お前の生存も認めない。そのことを決して忘れるな」
 足元から啓司ライトナーの負け惜しみが聞こえる。僕はヘルメットを蹴り飛ばす。美猟先輩がクローゼットからガンベルトを取り出し腰に巻きつけて青い拳銃を挿す。それから(おそらくは)黒桃のダウンジャケットを出して僕に渡す。
「行きましょう」
 僕は頷き、胸のホルスターに拳銃を挿してダウンを着る。先輩と一緒に寝室を出て離れの大浴場へ向かう。ドレスルームの大きなソファの上にローブを羽織ったパジャマ姿の黒桃が横たわっている。睡眠薬で眠り込んでるその顔を僕はまじまじと見る。前髪に白髪が混じってる他は七年半前とまったく変わっていない。
 僕に無実の罪を着せ、殺しかけて、道具にし、先輩を妻にした男。
 怒りがふたたび腹の底を焼き、気がつくと紅い拳銃を抜いている。
「殺さないで」
 ときっぱりした声で先輩が言う。
 わたしのもの、力で、道具───か。
 僕は大きく深呼吸して紅い拳銃をホルスターに戻す。
 黒桃を担いで中庭まで運び、駐車スペースに停めてあるラングラージープの後部座席に放り込む。よっぽど強い薬を使ったらしく、乱暴に扱ってるのに目醒める気配が全然ない。先輩がジープの運転席に乗り込みエンジンをかけて暖気する。僕は外に立って辺りを警戒する。ホテルの周囲にも森の中にも『ファクト』チームの気配はないし、スナイパーの殺気も感じない。言われたとおりに啓司ライトナーが全員を撤収させたらしい。
 先輩が小さくクラクションを鳴らす。僕は助手席に乗り込みベルトを締める。ジープが静かに走り出す。ルームミラーの中でホテルが遠ざかる。
 ジェットエンジンの飛行音が上空で微かに鳴っている。ドローンのペガサスがステルスモードで高空を旋回してるらしい。どこへ行くか押さえるつもりだな、と思いながら僕は耳を澄ます。
「とりあえず、わたしの家へ行くから」
 空を一瞥して先輩が言う。
 僕は驚く───二重の意味で。
 自宅へ行って大丈夫なのか?そしてそれ以上に。
「わたし、の?」
「三年前から別居してるの」
 悪戯っぽく先輩が答える。
「・・・そうなんだ・・・知らなかった」
 びっくりするほど心が軽くなって僕は苦笑する。
 月明かりに照らされた雪の山道をすべるようにジープは進む。
 カーブにある非常駐車帯に車が一台停まっている。
『ファクト』の輸送チームのバンだ。脇に人が立っている。
 紅い拳銃を抜いて胸元で構える。ジープがカーブにさしかかってバンの横を通過する。
 防寒服姿のハルと目が合う。
 武器を持たず、白い息を吐き、能面みたいに表情がない。色素の薄いふたつの瞳が僕と先輩の姿を映す。
 ジープがカーブを抜けていく。小さくなったハルの姿がバックミラーから外れて消える。僕は彼女を振り返らない。先輩が僕の横顔を見る。
「いいんだ」
 と僕は言う。
「本当にやりたいことが分かったから。誤魔化すことはもうできない」
「何がしたいの」
 先輩が訊く。
 息を吸い込み一気に答える。
「先輩と二人で生きたい───馬を並べて荒野を旅するみたいに。そしてその半ばで先輩を殺したい。ものすごく大きな愛の塊が、体が壊れて死ぬ寸前に、先輩の中から飛び出してくるのを確かめたくてしょうがないんだ」
 言ってしまった。これでいい、と先輩の視線を頬に感じながら正面を見たまま僕は思う。
 どうしてこんなにこのひとに惹かれるか、記憶を取り戻して僕は分かった。底なしの飢えが裏返ることで、底なしの豊穣に変わることを、初めて先輩と出会ったときに三歳の僕は見抜いたのだ。
 先輩を殺して、壊して、割って、その豊かさを確かめたい。
 たとえ怖がられ、嫌われ、去られても、この気持ちは隠せない。それが影と合体させてくれたこの人に対する誠実さだ───そう思った瞬間、
「わかった。いいよ」
 と先輩が言って、僕は自分の耳を疑う。
「殺したくなったら殺していい。壊して、開いて、好きなだけ、わたしの中身を確かめて」
「・・・・本気で言ってる?」
 信じられずに僕は訊く。
 先輩がジープを減速させる。タイヤが雪を噛んでジープが止まる。ハンドルから手を離し、背筋を伸ばして、先輩がまっすぐ僕を見つめる。
「あなたの親がしたことを、わたしはあなたに絶対しない。あなたがわたしに何をしても、わたしはあなたから逃げ出さない。わたしはあなたの全てを奪うし、あなたが求めている愛情を生きてるうちにはあげられない。だからわたしの命をいつでも奪ってしまっていい。マリオの中にいる怪物をわたしにむき出しにしてくれて嬉しい。わたしもわたしの中にある飢えをあなたに隠さない。ありのまま、思うままに生きてるあなたを、これからもずっとわたしに見せて。光も、影も、暴力も、愛も、一緒くたにして二人で燃やそう」
 そう言って美猟先輩が微笑む。
 青みがかった黒髪、陶器みたいな頬、黒く艷やかな二つの瞳、すっきりと高く尖った鼻、桜色に萌える唇、グラマラスとスレンダーとデリカシーが完璧に調和しているその体、魂のあり方がはっきりと顕れているその顔つき。
 心と体と魂を根こそぎ奪い去ったひと
 もう一度産み直してくれたひと
 僕をむさぼる底なしの飢え。
 僕の暴力。
 甲斐美猟。
 気がつくと涙が流れている。後から後から溢れ出す。
 先輩が顔を寄せてきて唇と舌で涙を拭う。
 僕は号泣してしまう。叫ぶように吠えるように泣く。
 しばらくの間、先輩は僕を泣きたいように泣かせておく。それからギアをドライブに入れ、再びジープを走らせる。雪に覆われた夜の森と白い道が流れ出す。
 奇跡みたいだ、奇跡みたいだ、奇跡みたいだ、奇跡みたい───。
 心の中で同じ言葉を何度も何度もつぶやきながら、泣くだけ泣いて滲むように疲れ、子供みたいに僕は眠る。


(続く)

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